|
バスルームから聞こえてくる水音を聞きながら、ハリーは調理台の下から次々に缶詰を取り
出した。
ドラコが唐突にシャワーを浴びたいと言い出したので、彼がバスルームにいる間に何か食べ
られるものを用意しておこうと思ったのだが、あいにく食料と呼べるものは買い置きしてあった
缶詰とクラッカー一袋しかない。とはいえドラコを残して買い物に出かけるわけにもいかないの
で、ハリーはとりあえずという感じで、アスパラガスとサーディンの缶詰を開けてサラダボールに
盛った。クラッカーは面倒だったので袋を裂いて、そのまま皿代わりにする。スープは何種類
かあるので、ドラコの好きなものを選ばせよう。
スープ皿とスプーンを用意したところでバスルームのドアが開き、トレーナーとジーンズ姿のド
ラコが出てきた。ハリーの物なので少し大きかったが、余ったトレーナーの袖口から細い指が
ちょこんと覗いている様子は、妙に可愛らしかった。
「そうだ、これ」
髪から垂れる滴をタオルで押さえているドラコへ、ハリーは思い出して杖を差し出した。魔法
省の役人から渡されていた、ドラコの杖だ。
ドラコは驚いた顔をして杖とハリーを見比べていたが、やがておずおずと杖に手を伸ばし、小
さな声で呪文を唱えた。たちまち杖の先から温かい風が吹き出し、一瞬で髪を乾かす。細い金
糸がふわりと舞い上がり、立ち昇った仄かなシャンプーの香りにハリーは胸の鼓動が早まるの
を自覚した。
ざわめく心臓を宥めて、ハリーはドラコに「どれがいい?」と缶詰を見せた。たっぷりと迷った
挙句、ドラコは野菜スープを選んだ。ウサギじゃあるまいし、夕食がこんなのだけで大丈夫なん
だろうか。足りなかったらまだあるから言ってね、と念のため言い足し、ハリーは自分用に一番
ボリュームがありそうなシチューの缶詰を開けた。それも二つ。何しろ昼食を食べ損ねたこと
に、さっきから胃がキューキューと音を立てて抗議していたのだ。
テーブルに着くや否や、ハリーは凄いスピードでシチューを片付けてしまった。ふっと目を上
げるとドラコの方はあまり食欲がないのか、ほとんど進んでいない。疲れているんだろう、とハ
リーは思った。
会話のない食卓に、若干の気まずさを覚える。ドラコに話したいこと、聞きたいことは山のよ
うにあった。ただどうやって切り出したらいいのかハリーには分からなかった。
まずは当たり障りのない話題から―――たとえばクィディッチの話とか、と考え出して
「あ」
唐突にハリーは、頓狂な声を上げた。すっかり忘れていたけれど……
「君のニンバス2001、魔法省に置きっぱなしにしてきちゃった」
「あれはやっぱり僕のだったのか?」
スプーンを口へ運ぶ手を止めて、ドラコが不思議そうに首を傾げる。
「そういえば、なんでお前が乗ってたんだ」
曇りのない水色の瞳に見つめられて、ドキリとした。
どこから話せばいいのだろう。ドラコは―――たぶん、知らないんじゃないだろうか。アンドロ
メダのことなんて。
ナルシッサを本当の母親だと信じて……信じられくらいには十分に愛してもらっていたからこ
そ、ヴォルデモートが彼女を人質とした時、必死になって守ろうとしたのだろう。
そんな、彼なりの真っ直ぐな想いを無惨に切り裂くような真似はしたくない。いっそトンクスか
ら聞いたことなど、黙っていた方が彼にとって幸せかもしれない。
それでも、いつかは全てを伝えなければいけないと思った。まだ、ドラコの身を心から案じてく
れる……『家族』がいるということを。
けれど同時にそれは、ずいぶんとやつれ、心身共に疲れ切っているはずのドラコに告げるに
は、あまりに辛すぎる内容だということも分かっていた。
「あれ、ホグワーツに置いていっただろう? 君が…いなくなってから荷物を整理したりして…
回りまわって僕の手元に来たんだ」
曖昧な言い方だけど、嘘はついていない。ただ、いくつかの説明を省略しただけで。
ドラコが特に追求するでもなく、ふうんと頷いてくれたことに、ハリーの胸が痛む。
(いつか必ず言おう)
もう少し時間が経って、ドラコが事実を受け入れるくらいにまで回復したなら、必ず。
「荷物―――何も持っていかなかったの?」
不意に気になって尋ねると、ドラコは視線を落として頷いた。燃え上がる炎が明々と照らすホ
グワーツの校庭を、ドラコは身一つで駆けていった。スネイプと共に。
「先生が全部、用意してくれたから」
何も困らなかった、と付け加えるドラコに、ハリーの表情が硬くなる。
「…スネイプと一緒にいたの」
一つ頷き、ドラコはフッと遠いところを見る目をした。
「ずっと先生と一緒だった。ホグワーツを出て―――先生の隠れ家に連れて行っていただいて
…匿っていただいた、というべきかな」
ブルーグレーの瞳に浮かんだ寂しそうなその微笑は、触れたら粉々に砕け散ってしまうんじ
ゃないかと思うほど、儚く思えた。
「先生は『あの方』に、僕が死んだと伝えていたんだ」
ハリーは耳を疑った。
スネイプがヴォルデモートにドラコは死んだと言っていた……つまり彼は、主を欺いたことに
なる。
ヴォルデモートを騙し、ドラコを隠す。そんなことをする理由は一つしかない。ドラコをヴォルデ
モートの手から、闇側の勢力から引き離し、守るためだ。
いくらスネイプが優れた閉心術の使い手であったとしても、それは生易しい事ではなかったは
ずだ。
―――ヴォルデモートといえども、既に死んだものを殺すことはできない―――
天文台の塔でダンブルドアは優しく、追い詰められたドラコに語りかけた。
スネイプの行為が、あくまでも自発的なものだったか、密かに打ち合わせされていたダンブル
ドアからの指示に従ったものだったか…あるいは、ナルシッサとの『誓い』によるものなのか、
ハリーには分からないけれど。
「隠れ家から一歩も外に出ないで過ごした一年……『あの方』や魔法省に見つからないように
するために、魔法はほとんど使えなかった。先生はとても忙しかったはずなのに、僕が一人で
いるのを可哀相に思ってか、毎日一緒に夕食を食べに帰ってきて…」
平静を装うとしたが、ばっちり顔に出ていたらしい。目を上げたドラコがハリーの顔を覗き込
み、拗ねたように言った。
「お前が想像してるようなことはなかったぞ」
唇を尖がらせるドラコに、ハリーは焦った。
「別に僕は疑ってなんか…」
「先生は僕を守ってくれた。それだけだ」
きっぱりと言うドラコの瞳は、それでもどこか不安げだ。
ハリーが信じてくれなかったら―――どうしよう、とでも言うように。
「疑ったり、しないよ」
もう一度、自分にも言い聞かせるようにそう言った。嫉妬なんて馬鹿げてる。ハリーはスネイ
プに悔しいけど…感謝しなくてはいけないのだ。ドラコを守ってくれたことを。
「お前があの方を倒してすぐ、魔法省の連中が隠れ家を見つけて僕を連行した。たぶん…」
声のトーンが、一段暗くなった。
「先生があの家にかけていた魔法が、解けたんじゃないかと思う」
隠れ家には簡単には見つけられないように、あらゆる探索を防止する魔法をかけてあっただ
ろう。だからこそ、ドラコは一年もの間、身を隠していられた。
しかしそれが―――ヴォルデモートの死と時を同じくして、消え去った。
「スネイプは…行方不明だって」
テーブルの上に投げ出された、細い指に手のひらを重ねる。冷たくなった指先に、ほんの少
しハリーの熱が分け与えられた。
「先生がどこかに隠れているなら、犯罪者扱いされていたら、出てきたくなっても出られないと
思って」
ドラコはウィゼンガモットで、スネイプの名前を一度も口にしなかった。
「それにもし先生にもう二度と会えないとしても……先生は僕にとって大切な人だから」
ハリーもまた、そんなドラコの想いを汲み取った。
「『あの方』から僕を、先生が離しておいてくださったおかげで僕は」
瞳が煌めいているのは室内灯の明かりを受けたせいか、それとも涙の滴に濡れたせいか。
「今こうして、お前と向き合っていられる」
視線が、無意識の内にドラコの左腕へと走るのを止められなかった。
布が余ったトレーナーの下に隠れ、その白い肌を見ることはできなかったけれど。
ドラコは黙って、ハリーを見ていた。ハリーの心で二つの感情がぶつかり合っているのを、目
を逸らさず見ていた。
すっかり忘れていた―――そんなこと、思い至りもしなかった。ドラコは、ヴォルデモートと繋
がりを持っていた。ならば未だその証が彼の腕に刻まれていたとしても…不思議は無い。
だからどうしたというのだ。ドラコはドラコだ。たとえ一度、死喰人の印を身体に受けたとして
も。分かっているのに、胸を激しく打つ脈拍に耐えるだけで精一杯で、ハリーは顔を上げて彼
の視線を受けとめることができなかった。
「紅茶、いれなおすね」
声を震わさないようにして、ハリーは立ち上がりドラコに背を向けた。魔法で水を沸騰させ、
不自然なほど時間をかけてティーバックを掻き混ぜる。
立ち昇るアールグレイの香りがほんの少し、闇の印を何より忌み嫌う自分と、ドラコを大切に
して―――愛したいという自分との間を忙しなく行き来し、混乱しているハリーの心を落ち着か
せてくれた。
結局、ドラコを好きだという感情は止められない。
愚かな選択だと嗤われたって構わない。世界中から裏切り者だと糾弾されたとしても、いつも
傍らにドラコが居てさえくれれば、それでいい。
それくらいの覚悟が無かったら、プライドを捨て去ってまでしてドラコを連れ戻そうだなんて思
わなかった。
砂糖を入れようと調理台の奥へ手を伸ばした瞬間、背中に温かい感触が広がった。
「…ドラコ…?」
ドラコが後ろからハリーに抱きついてきていた。
思いがけない行動にあっけに取られたがハリーだったが、前に回されたドラコの左腕が視界
の隅を掠めた瞬間、息を呑んだ。
袖を捲り上げ、剥き出しになった真っ白な―――
「こっちを向くな」
背中に顔を押し付けているせいで、ドラコの声はくぐもって聞こえた。だけど、言葉が聞き取り
にくい原因が決してそればかりではないことを、僅かに混ざる嗚咽が教えている。
闇の印では、ない。
左腕に刻まれたそれは、ハリーがこれまでに見たどんなものとも違っていた。あの禍々しい
闇の印に比べたら、気をつけて見なければ普通の傷痕と間違えてしまいそうなくらい、ささやか
なものだ。目を凝らすと、小さな飾り文字が一文をなしていることに気付く。ハリーの右手の甲
が、ピクリと痙攣した。突然、アンブリッジから何度も受けたあの屈辱的な罰則が、思い出され
た。
「五年生の夏休みに、これを」
―――I surely kill Albus P.W.B.Dumbledore
「僕がちゃんと…殺せたら……これは消えるって」
ハリーはそっと、差し出された左腕に触れた。シャワーを浴びてきたはずなのに、その薄い皮
膚の下に流れる血液は、ひどく冷え切っているかのようだ。
「…ポッター……約束を覚えているか……?」
悲しみに喉元を塞がれ、息苦しいような思いでダンブルドアの名前をなぞっていたハリーは、
咄嗟に返事をし損ねてしまう。ハリーの背に頭を預けたまま、ドラコが落胆とも安堵ともつかな
いため息をついたのが分かった。
「お前は覚えていないかもしれないけど…学校から家に帰る前にしてたんだ。約束を……僕は
あの時傷だらけで…」
「『この傷が全部消えたら、真っ先にお前のところへ行く』」
ビクッと全身を硬直させたドラコの腕を掴み、そのまま身体を反転させて抱きこむ。こっちを
向くな、という彼の命令には反していない。
泣き顔を見られる心の準備ができていなかったのだろう、ドラコはびっくりした表情でハリーを
見上げ、それから涙を隠そうと必死でもがき始めた。
「僕は君の体に痕をつけたいとは思わない」
耳元に唇を寄せ、彼にだけやっと聞こえるほど微かにそう言ってやるだけで、ドラコの抵抗は
止んだ。
「君の傷が癒えていくのを―――見ていたい」
眼前に迫る陶器のように白くすべやかな肌は、眩しいくらいにハリーの目を射抜いたけれど。
「消えないかもしれない」
ドラコはもうハリーから逃げようとはせず、逆に力の加減もせず、子供みたいにしがみついて
きていた。
「これが消えたら約束どおり、お前のところに行ける気がして…ずっと、消えることを願ってた―
――だけど『あの方』がいなくなっても、これは消えなかった」
身体を離し、改めてドラコの左腕を間近で見ると、傷痕を中心に白い皮膚がそこだけ赤く擦
れたようになっていた。もしかしたらさっき、バスタイムがやけに長いなと感じたのは、これのせ
いだったのだろうか。
石鹸で洗ったからといって消えるはずもないのに、何回も繰り返し―――泣きながら洗って。
ハリーのために。ハリーの傍に居るために。
「消えなかったとしても」
ハリーは明るく笑ってみせた。
「君は君だよ」
思えばドラコはこれまで、常に他の男共に捕えられていた。身体も、心も。
最初はルシウス・マルフォイ、彼の友人たち――――ヴォルデモートに、そしてスクリムジョー
ルへ。
いつもその身に、他者から所有される証を付けられていた。
ドラコはあくまで彼自身のものであって、誰の所有物でもない。そんな当たり前のことを教え
てくれる人すら、ドラコの周りにはいなかったのだろう。
「今まで君が誰の腕の中にいたか、気にならないって言ったら嘘だけど」
けれどドラコはハリーを求めた。たぶん初めて自分の意思で彼は、誰の傍に行くべきか決め
た。そして曲がりくねった暗い道の半ばで挫けるとなく、最後にはこうしてハリーの元へ辿り着
いた。
「君が僕の腕を終着点として選んでくれたなら……それでいいよ」
瞬きをした瞬間、ドラコの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
ハリーは腕の中で声を上げて泣きじゃくるドラコをきつく抱きしめ、あやすように髪を梳いた。
頬を伝う涙を拭い、幾度も口付けを落とす。瞼に、指先に、額に、耳元に―――唇に。
ドラコが涙を止められるようになるまで、ずっと。


|