帰り方を思い出せなかったら、どうしようかと思った。
 だけど足は考えるより先に自然に道を選び、町並みの様子が見覚えのあるものに変わる。
 左手が、酷く熱い。
 繋いでいるドラコの右手はむしろ冷たいくらいだというのに、全身の血と神経がそこに集中
し、発火するかのようにハリーは感じていた。
 二人の間に会話はない。
 ハリーの方からは何も言わなかったし、その半歩ほど後ろを歩くドラコも説明を求めようとは
しなかった。ただ大人しくハリーが足を進めるままについてくる。ハリーの右手だけを縁に、見
知らぬ街を。
 魔法省を出たころはまだ傾き始めたくらいだった太陽は、今ではその姿のほとんどを地平線
の向こうに沈めている。街灯が灯り始めた通りではいつもとまったく同じ、ありふれた日常が繰
り返されていた。家族の元へと足早に帰る子どもたちが、笑い声をあげてハリーとドラコを追い
越していく。
 道幅の狭い路地をいくつか抜け、やがて現れたその建物の前でハリーは立ち止まった。見
上げたレンガの外壁はグレーに汚れ、ひび割れているところもあった。縦と横に四つずつ、規
則正しく並んだ窓を柔らかいオレンジ色の灯りや、半分ほど閉じたストライプのカーテンが彩っ
ている。どの窓からだろうか、ホワイトソースの匂いと雑音交じりのラジオ放送が洩れてきてい
た。ペンキの剥げた両開きの扉を押し開け、ハリーはドラコを導き入れた。
 外れているのを一度も見たことない、『故障中』の札がかかったままのエレベーターを無視し
て、急な階段を上っていく。踊り場を三回通り過ぎたころには、少し息が苦しくなった。この階段
の大変さを、しばらく離れている内に忘れてしまっていたみたいだ。
 剥き出しの蛍光灯が無機質に照らし出す最上階の廊下を奥まで進み、真鍮の蝶番が歪み
斜めになっているドアに、ハリーはズボンのポケットから引っ張り出した杖を向け、「アロホモ
ラ」と呟いた。たちまち薄っぺらいドアは廊下の壁にぶつからんばかりに、勢いよく開く。
 ハリーは記憶を頼りに手探りでスイッチを探し当て、部屋の明かりを点けた。グリフィンドール
塔の五人部屋の半分くらいしかない、狭いフラットの一室だった。擦り切れたドアマットのすぐ
右側に、おもちゃみたいに小さなシンクとガスコンロが付いた調理台。その隣の幅が狭いドア
は、バスルームに続いている。手前には木製のテーブルと背もたれのついた椅子が二つ、向
き合う形にしてあった。左奥、生成り色の木綿のカーテンがかけられた窓の下にはベッドと、ク
ローゼット代わりの背の低いチェストが。ベッドの脇には忘れられたようにポツンと、使い古し
たトランクが置かれていて、それだけがこの部屋で唯一、人が居た気配を感じさせるものだっ
た。

「座って」

 ドアのところに佇んでいるドラコに椅子を勧め、ハリーはドアを閉めた。そして調理台の下か
らマグカップとティーカップを一つずつ、それにティーバックの入った箱を取り出した。家具と同
様、この部屋に初めから備え付けられていた食器類は、どれも年季の入った代物ばかりで、
元は一揃いあったのだろうが、ハリーが来たときには既にソーサーは二客分あるのにカップは
一つしかなかったり、戸棚の奥からスプーンだけ同じデザインでぞろぞろと十本近く出てきたの
に、ナイフがどこにも見当たらなかったり、という状態だった。
 蛇口から直接ティーカップに水を注ぐと、杖を振ってそれを熱湯に変える。ティーバックを突っ
込み、スティックのシュガーを二つ添えて差し出した。

「ポッター」

 同じやり方で紅茶を作った自分用のマグを片手に、ドラコの正面へ腰掛けると、彼は疑問符
でいっぱいの表情をしていた。

「ここはどこだ」

「僕の家」

 冷たい色をしたブルーグレーの瞳が、驚きに揺れる。
 ヴォルデモートを殺して生還したハリーを待っていたのは、『英雄』の凱旋に対する熱狂的な
歓喜だった。
 自分に向かって焚かれたカメラのフラッシュが視界を真っ白に埋め尽くす。顔も名前も知らな
い人々が我先にとハリーへ握手を求め、大声で賛辞の言葉をわめきたてる――――休みなく
繰り返される、熱病に浮かされたかのような騒ぎに耐えられたのは、最初の数日間だけだっ
た。一人になりたいと、あれほど強く思ったことはない。
 七年間使い続けたトランクだけを手に、誰にも何も告げずハリーはロンドンに戻り、最初に見
つけた『空家有り』だった、このフラットに転がり込んだ。旧式で大型の備え付け家具に囲まれ
た狭い空間は、ダーズリー家の階段下を思い出させるようですらあったけれど、そこは間違い
なくハリーがようやく手に入れた、自分だけの居場所だった。

「ここに人を入れたのは初めてだよ」

 ロンにもハーマイオニーにも、この部屋のことを話したことはない。
 とりあえず一ヶ月、という契約で部屋を借りハリーは長く立ち込めていた灰色の霧が晴れ、目
が覚めるように美しい七月の日々を、ほとんど部屋から出ることなくやり過ごした。
 食べたい時に食べ、眠りたい時に眠る。他の時間は前の住人が残していった本を眺めてみ
たり、ベッドに横になったままぼぉっと雲の流れていく様を眺めたり………取りとめもなくもう会
えない人々に思いを馳せてみたり。スネイプ、ダンブルドア、両親、シリウス―――そして、ドラ
コ。
 何をしたい、という気持ちが起こるわけでもなく、無為に時を消耗していた。
 そんな怠惰な時間を打ち破ってくれたのは、ヘドウィグだった。
 十八歳を迎えた朝、ハリーは窓ガラスを叩く鋭い音で目を覚ました。窓の外で暴れる白い生
き物は紛れもなくヘドウィグで、彼女は自力でハリーの居場所を探し当ててくれたらしい。三週
間もほったらかしにされた上、ハリーを探してロンドン中飛び回ったのだろう、すっかりよれよ
れになっていたヘドウィグは、薄情な主人に恨みを込めて甘咬みしたが、当のハリーは咬まれ
た指よりも彼女が運んできた手紙に釘付けだった。
 幾重にも折りたたまれた羊皮紙にはルーピンの柔らかな筆跡で、今夜、ハリーのバースデー
パーティーをグリモールドプレイスで開く、と書かれていた。
 ルーピンらしい、決して押し付けがましくない文面で、だけどもしもハリーが来なかったらみん
なさぞかしがっかりするだろう、と言外に匂わせている。読み進める内、ハリーの口元には久し
ぶりの笑みが浮かんでいた。
 その日ハリーは指定された時間に五分遅れで、ヘドウィグを肩に乗せ、グリモールドプレイス
に『姿あらわし』した。そしてそのまま一週間―――ここへは戻ってこなかった。
 この部屋を出るときには、まさかドラコと一緒に帰ってくるだなんて、想像もしていなかった。

「狭くて悪いけど今日のところはここで我慢してくれる?」
「……どういう意味だ」

 あまりに訝しげな様子のドラコに、ハリーの方が面食らってしまう。
「どう…って……もしかして聞いてないの?」
 ドラコの眉根がさらに寄せられる。彼が何も知らされていないらしいことは確かみたいだ。
「僕は誰か…僕の身元引受人が決定したと言われて……」
「それ、僕」

 てっきり彼も了解した上でついてきたのだと思っていたのに、この展開はハリーにとって意外
だった。ドラコはどんな反応をするだろうかと少しだけドキドキして、ハリーは一呼吸おいてか
ら、言った。



「僕が君を引き受けたんだ」



 長い睫毛が二、三度上下し、ブルーグレーの瞳を瞬かせた。





「そんなに驚かなくてもいいだろ」
 ドラコは微動だにせず、何も言わないでハリーをじっと見つめるだけだ。なんとも言えない気
まずさを紛らわそうと、ハリーは熱い湯気を立てる紅茶をガブリと飲んで、目を白黒させる羽目
になった。
「僕はとっくに成人してるわけだし―――」
「いくら払った」
 いきなりドラコが立ち上がり、ハリーに詰め寄った。叩きつけるように置かれたティーカップ
が、テーブルの上で耳障りな音を立てる。

「僕をいくらで買ったんだ!」

 肩を掴まれ、ドラコの細い指のどこにそんな力があったのだろうというくらい強く、食い込まさ
れる。鈍い痛みが走ったが、ハリーは避けなかった。

「君をここに連れてきたことで、僕が失ったものなんて何も無い」
「嘘だ」

 強い感情を滲ませて、常より一層薄い色に見えるブルーグレーの瞳が、ぶれることなくハリー
を睨みつけている。


「大臣直々に僕の就職先を用意してくれただけだよ」


 ごまかしきれないと判断し、仕方なく白状すると、元々青白かったドラコの顔から一気に血の
気が引いた。唇が細かく、戦慄いている。
「そんな顔、しないでよ」
 打ちのめされた様子で立ち尽くすドラコを見ると、やっぱり言わなければ良かった、という後
悔に襲われる。
「悪い話じゃないんだ。元々『闇払い』には興味があったし、簡単な試験だけですぐに現場に出
してもらえそうだし……」


 判決が出た後、ハリーは法廷から大臣室へ連れて行かれた。
 マホガニーの執務机を挟んで対面したスクリムジョールは、探るような目つきでハリーを見
た。
『彼の身元引受人についてだが、彼がそれを承諾するかどうか』
 箒規制の話ではなく、まずそちらを切り出されたことにハリーは引っかかるものを感じた。
『どういう意味ですか』
 スクリムジョールは手元の羊皮紙をいじりながら、ハリーと目を合わせずに話し出した。裁判
が始まる前から、既にドラコの保護監督を引き受けようと申し出ている人物がいた、と。彼は以
前からルシウスと親交が厚く、しかし闇側に引き入れられたことはもちろんないと魔法省が信
頼するに足りる人物で、こちらとしてはその申し出を断る理由などなかった。しかしドラコは彼
の保護下に置かれるのを拒み、ウィゼンガモットでの判決を望んだ―――
『なんでそんな』
 ため息に近い呟きが洩れた。スクリムジョールは相変わらずハリーの方を見ようとせず、しか
しその注意の全てが自分に向けられているのを、ハリーは充分に知っていた。
『私にもさっぱり分からない…彼はドラコ・マルフォイとも大変親しくしており、頻繁に会っていた
と省内でも噂だったのだがね』
 なぜドラコが彼に引き取られるのを嫌がったか、皆目見当もつかない……言葉ではそう言っ
ておきながら、スクリムジョールの態度にはピンとくるものがあった。
『保護監督処分を拒否するとあれば、アズカバンに逆戻りしてもらうしかないだろう』
 黄色く淀んだ目が抜け目なくハリーを観察している。もう疑う余地もなかった。
『それで』
 ハリーはきつく握り締めた自分の手のひらに爪を食い込ませ、スクリムジョールにきつい視
線を浴びせた。
『僕がマルフォイを連れていくには、何をすればいいんです』





「ホグワーツは」
 低く押し殺したドラコの声で、ハリーは追憶から現実へと引き戻された。なんとか自分を鎮め
ようとでもいうのだろうか、薄く開いた口元が浅い呼吸を繰り返している。「…読んだんだ」
 予言者新聞にリークされた自分の記事が頭の片隅を過ぎる。


―――かくして護るべき家族も帰るべき家も持たないまま、十八年の時を過ごしてきた英雄は
 何より深い愛情を寄せる母校を家とし、またそこで新たな家族を得ることになるであろう……


「教室の中で型通りの防衛術を教えるより、実践の方がずっと面白そうだし」
 ゆっくり、自分自身に言い聞かせるかのようにハリーは言った。
「それに僕は君を…護るって約束したから」
 ドラコがハッと目を見開いた。淡いアクアマリンの瞳の奥に、森の奥深くにまどろむ夏の湖を
見つけた気がした。

「君を護るためにできることは何でもしようと…」

 言い終えない内に、右頬に衝撃と熱を受けた。眼鏡が吹き飛び、床の上に転がる。
 頬を張られたのだと理解するまで、数秒かかった。椅子に腰掛けたまま呆然と見上げるハリ
ーに、ドラコが再び手を振り上げる。
「…ッ!」
 さすがに二回連続で容赦無い平手を食らわされたくはない。慌ててドラコの腕を捕えて打撃
は防いだものの、彼はハリーの手を振り払おうと暴れまくった。
「なんだって言うんだよ!」
 指に噛み付かれそうになって、ハリーは思わず大声を出してしまった。それでも体格の差を
利用してどうにか押さえ込むことに成功した。固い床にドラコの背を押し付ける形になってしま
ったが、気を回してやれるだけの余裕はなかった。組み敷かれたドラコの頬は真っ赤に火照
り、眦には薄く涙が浮かんでいた。額に張り付いた、乱れたプラチナ・ブロンドの合間から、ドラ
コはハリーにありったけの怒りに満ちた眼差しをぶつけてきていた。

「余計な真似を…」

 吐き捨てる口調は、憎々しいとしか言いようのないもので。

「魔法省に弱みを作って、あいつらの犬になることを了解して……僕…なんかの…」

 今にも零れそうな涙を、瞬きを繰り返して耐えている

「こんな…僕は罪人で、男で…なのにあんなやり方で……明日の予言者新聞の一面にデカデ
カと書かれるぞ。『英雄』の奇行とか…ッ…!」
「そんなのどうでもいい」

 今にもしゃくりあげそうになっているドラコに、ハリーは込み上げる自分の感情を必死で抑
え、落ち着いた声を出そうと努めた。

「僕は君を護りたいんだ」

 その細さでは負荷に耐えられないかもしれないと思い、華奢な手首を掴む力を緩めたが、ド
ラコは逃げようとはしなかった。

「君がホグワーツを出て行ったとき、一人で行かせてしまったことをずっと後悔していた。誰に
後ろ指を差されたって構わない。ただ、君の傍に居て―――」



 ―――護ってあげたい



 たとえどんなに独り善がりな想いだと言われようと、それがハリーの偽らざる本心だった。


「馬鹿じゃないのか」

 ドラコはハリーから顔を背け、床に頬を押し当てていた。前髪が邪魔で彼の表情が分からな
い。

「お前が僕を護って……それで何になるんだ」

 眼鏡を失いぼやけた視界の中で、淡いプラチナ・ブロンドが震えている。

「僕はお前に何も返せないのに」
「何もいらない」

 そっと、ハリーは身体を沈めた。少しずつ、少しずつドラコの身体に重ねていく。彼を驚かさな
いように、静かに。

「これは僕の自己満足だから―――何もいらない」


 ドラコを縛るつもりは、ない。
 だけどもう二度と、離れるつもりもない。




『君を護るね』



 小指を絡めて交わした約束。
 その約束を彼の傍でこの先ずっと果たしていけるなら、他に何もいらない。





「ただ、傍に居てもいいって言ってくれたら……嬉しい」

 頬に唇を寄せて悪戯っぽく囁くと、ドラコはその台詞こそ口にしてはくれなかったが―――小
さく、だけどはっきりと頷いた。