いつもと変わらず低く垂れこめた灰色の空さえ、そこかしこに取り付けられた原色のオーナメ
ントのせいで、急に華やいで見える。
憂鬱症がこの街の持病といわれるロンドンも、さすがにクリスマスを明日に控えたこの日ば
かりは病から解放され、興奮と期待の熱気に包まれていた。
「トンクス! こっちよ」
ちょっと目を離した隙に、全く違う方向に歩き出したトンクスを、ジニーが慌てて呼び止めた。
「ごめんごめん、あたしってダメなのよね。必ず行きたい場所と逆の方へ行っちゃうの」
「そいつは研究の余地があるな」
「ああ。どこかに行こうとすると、それと正反対に進んでいくなんて、ちょっと魔法じみてるぜ」
大真面目に言ってみせる双子の横で、ハーマイオニーが顔をしかめた。双子のことだ、ひら
めいたが最後、試してみないわけが無い。休み明けにはまた妙な試作品を大量に、談話室へ
持ち込むのだろう。
「そこの角を右だったわね。ここだけは自信あるんだ!」
「その二つ先の角を左よ、トンクス。昨日も来たじゃない」
あちゃ、と舌を出して照れるトンクスは、今日は珍しくフランス人形みたいにクリクリのカール
を、背中まで垂らしていた。色も薄茶色と、彼女にしては信じられないくらいまともだ。
踊るような足取りで彼女が歩くたびに、柔らかな髪の毛は冷たい空気の中へふわふわと広が
った。
「みんな急げよ! 午後の検診が始まっちまう」
前を歩いていたフレッドが振り返り、全員の足を速めさせた。
双子とジニー、ロン、ハリーとトンクスにハーマイオニーは、アーサーのお見舞いに聖マンゴ
を訪れるところだった。騎士団の任務中に負傷したアーサーは、発見が早かったことが幸いし
て順調に回復していた。しかし、クリスマスシーズンを病院で過ごさなくてはならない彼のため
に、ウィーズリー家の兄弟たちは毎日のように聖マンゴへと繰り出していた。手の空いている大
人―――というと大抵トンクスで、これがモリーの心配の種でもあったが―――が彼らに付き
添い、ハリーとハーマイオニーも家族の団欒を壊さない程度に、一日置きくらいで病院行きに
同行することにしていた。
差し入れのミートパイやプディングをぎゅうぎゅうに詰め込んだバスケットを抱えたジニーが、
いつもより多い人手の中を、歩幅の広い兄たちについてちょこちょこと駆けていく。
「危ないわ、気をつけて!」
交差点に差し掛かり、ハーマイオニーが早足で道を渡りかけたジニーを止めた。すでに向こ
う側へ渡り終えていた双子が、なにやってるんだという顔で振り向いたが、すぐに大型のトラッ
クが視界を遮ってしまう。
巻き上がる砂煙から顔を背けると、十字路の逆側、双子がいるのと九十度離れた場所で、
何かがきらりと光るのが見えた。
「ハリー?」
ハーマイオニーの怪訝な声で我に帰る。車の列がちょうど途切れ、トンクスとジニーは小走り
に道路を横断しているところだった。
「どうかした?」
歩きながらハーマイオニーに探るように見つめられたが、ハリーは黙って首を横に振った。ふ
と、何も言ってこないロンを見やると、彼は困惑したように見返してくる。
妙に思われない程度に、徐々に歩調を緩めていき、二人は一行との間に距離を置いた。
「さっきの……」
「君も見た?」
ほとんど同時に口を開き、またしばらく黙り込む。
「僕はマルフォイに見えた」
ポツリと呟かれたロンの言葉に、ハリーは無意識に握り締めていた掌へさらに力を込めた。
「どうする?」
「どうするって?」
通り過ぎた場所を振り返りながらロンに尋ねられ、聞き返した語調では自分でも驚くくらいき
ついものだった。
「あいつが好きでやってるなら仕方ないだろ」
ハリーはそれだけ言い捨てると、ぐんぐん歩き始めた。
「ハリー!」
黒っぽい冬の装いに身を包んだ人々の合間に見えた、一房のプラチナブロンドは―――や
はりマルフォイだったんだろうか。
それを目の端に捕えたのは一秒に満たない時間であったにもかかわらず、そうに違いないと
どこかで確信している。そのプラチナブロンドが吸い込まれるように入っていったのは、ビクトリ
ア様式の面影を残した建物で、ロンドンでも有数の名門と呼ばれるホテルの一つだった。
『君が自分の意思でやってることなら、僕は止めないし、止められない』
マルフォイにそう告げた夜から、もう一ヶ月以上経っている。しかし状況そのものは特に変化
をしないままだった。
ハリーは結局、彼に行為そのものを止めさせられたわけではなかった。ただマルフォイが出
かけるのに気付いた時は、アンブリッジの部屋の前で帰りを待ち、あまりに酷い様子ならば肩
を貸したり……無駄と分かっていながら、もう止めれば?と言ってみたりするくらいで。
やっかいなのはやはりハーマイオニーだった。絶対無理だと泣きそうになるロンを説き伏せ
て、あれ以来マルフォイはホグワーツを抜け出していない……と嘘をつかせるのが一番の難
題だった。ハリーよりさらに嘘のばれやすいロンを相手に、こういう突っ込みをされたらこう返
せ、いかに自然に話題を逸らすか、などの打ち合わせを綿密にしていたおかげで、ハーマイオ
ニーは今のところ二人の話を信じてくれているようだ。
彼女を騙すことに咎めを感じないでもなかったが、十五歳になれば成人していないとはいえ、
全くの子供というわけでもない。自分なりに考えた上で選択した行いを、他人からとやかく言わ
れるのは納得がいかない。だから―――
『助けが必要なら、そう言って』
彼が望むなら、どうにかして救ってやりたいとは思う。しかしマルフォイの方から助けを求めて
きたことは、一度もない。それはつまり、彼が現状を壊したいと願っていない……このままで構
わないという意思表示なのだろう。
だが、ボロボロになって帰ってきたマルフォイの前にハリーが姿を現すと、彼はいつも拍子抜
けするくらい素直に肩へ掴まってくる。それはまた、彼がハリーの干渉を不快に感じてはいない
証拠のようでもある気がした。そしてチラリと見せる貌はあの、ハリーの胸に細波を立てるもの
で。
ほとんど言葉も交わさないまま寄り添って歩く、短い距離、短い時間を重ねるうち、ハリーは
それがもっと長くなればいいと感じている自分に、気付いてしまった。
マルフォイに優しい想いを抱きかけている、自分に。
(馬鹿みたいだ)
ハリーにマルフォイを止める力なんてない。最後に決めるのはマルフォイ自身だ。そして彼は
いつだって自分の意思で、ハリーより彼の父親―――ルシウス・マルフォイの言うことをきくと
決まっている。信じられない気もするが、もしかしたらそっちの方が普通なのかもしれない。他
人より家族を選ぶ。どんなに歪んだ家族であっても、それを『家族』と呼べるうちは。
シリウスやトンクスの母親、あるいはパーシーのように、家族に背を向けて歩き出せるほど、
きっとマルフォイは……強くない。
そんな彼にどうしようもなく苛立ちながら、ハリーはあのプラチナブロンドがどうか見間違いで
あってほしいと願わずにいられなかった。
病院内は普段よりずっと、人が少ないように感じられた。
「嵐の前の静けさってやつさ。今夜から明日にかけてが戦場だぜ」
ジョージがニヤニヤして囁いた。
クリスマスの間中、街角から家族の食卓にいたるまで、トラブルが発生しない場所はまず無
いからな、とフレッドが続けた。
「まあ今年のグリモールド・プレイスに比べちゃ、どこも至って平和なもんだ」
サッと視線を交し合った双子を見て、ハリーは明日の朝、誰かが動かすまで余計なものには
一切触れないでいようと決心した。クリスマスの朝に糞爆弾を一袋お見舞いされてはたまらな
い。
病棟もどことなくシンと静まり返っているようだった。よほど重症でない患者は、家に一時帰宅
を許されているのだろう。
ぞろぞろ廊下を歩いて病室へ辿り着き、ひとしきりアーサーとの会話に花を咲かせたあと、差
し入れのミートパイを食べたりした。
「アーサー、紅茶が足りないんじゃない?六階で買ってくるわよ」
「僕が行くよ」
お茶の缶を覗き込んだトンクスが立ち上がりかけたが、ハリーの方が入り口に近い場所にい
た。病院には何回か来ていたが、売店を一度も見たことがなかったので、どんなものを売って
いるのか少し興味があったのだ。ハーマイオニーも気になったらしく、一緒に廊下に出てくる。
エレベーターの標示を探していると、不意に背中を突かれた。
「なんだよ、ハーマイオニー」
「何が?」
人を突いておいて何が、はないだろうと振り向くと、そこには誰もいない。首をかしげている
と、下の方から「ハリー・ポッター?」という小さな声が聞こえた。
声の主は五歳くらいの女の子だった。クルックシャンクスを思わせるオレンジ色の髪の毛は、
ブラシを入れたことがないかのようにぐしゃぐしゃだったが、あどけない笑みは人懐っこく、なか
なか可愛らしい。ここに入院しているのだろう、ウサギとりんごのアップリケがついたパジャマ姿
だ。
「どうしたの? 迷子?」
ハーマイオニーがしゃがみこんで尋ねたが、女の子はじっとハリーを見つめている。いや、ハ
リーではなく、ハリーの額の稲妻を。
「ハリー・ポッター?」
小鳥のようにちょこんと首をかしげて聞いてくる女の子に、ハリーはそうだよ、と短く答えた。
女の子の顔に、パッと明るい笑みが浮かんだ。そして小さな掌を精一杯広げて、ハリーに差
し出してくる。握手を求めるように。
ハリーは戸惑いながら、自分も手を差し出した。柔らかい指がきゅっとハリーの掌を包み込
んだ。
「僕のこと、怖くない?」
思い切ってハリーは尋ねたが、女の子はぶんぶんと首を横に振った。
「パパはハリー・ポッターが悪い人になっちゃったって言ったけど、わたしはそんなの嘘だって
知ってる。だってハリー・ポッターはみんなの悲しいことをなくしてくれる人なんでしょ?」
ハリー・ポッターはみんなの悲しいことをなくしてくれる人―――同じようなことを何度も言わ
れてきた。そのたびにハリーは、自分の知らないところで勝手に虚像を作り上げられることへ
の、言いようのないもどかしさを感じて、悔しい思いもずいぶんしてきた。けれど一寸の曇りも
ない無邪気な笑顔を見ていると、さすがに怒る気にもなれず、ハリーはステップを踏みながら
病室へ帰っていく女の子へ、手を振ってやった。
「くだらないゴシップ記事に惑わされずに、あの子みたいにあなたを信じている人もまだ大勢い
るはずだわ。ただそれを口にする勇気がないだけよ」
ようやく見つけたエレベーターの中で、ハーマイオニーが元気づけるように言った。
「でも僕にできることなんて何もない」
エレベーターの階数標示がゆっくりと上がっていく。
「僕はあの子の『悲しいこと』がなんなのかすら分からない。もちろん、それをなくしてやるなん
てできっこない。僕に助けられる人なんていないのに」
「マルフォイも?」
チン、と音がしてエレベーターの扉がスルスルと両脇に開いた。売店はエレベーターホール
のすぐ近くにあったので、今度は迷う必要はなかった。
「気付いてたんだ」
「当たり前でしょう。あなたたち、嘘が下手なんだもの」
「僕が? ロンが?」
「二人とも」
「気付いてたならそう言ってよ。こっちは君をごまかすために、一ヶ月以上どきどきしっぱなしだ
ったんだからな」
唇を尖らせて、ハリーは一応文句を言っておいた。
「そっちこそ私を騙そうしたりして。おあいこでしょ」
ハーマイオニーもぷいと横を向いてしまい、それから二人は顔を見合わせて、なんとなく笑い
出してしまった。
「君に嘘をついたのは…ごめん。僕がマルフォイを止められなかったって知ったら、すぐにでも
先生のところに行くんじゃないかと思って」
「行こうと思ったわ」
売店の棚の間を歩きながら、ハーマイオニーが答えた。
「あら、『ホネホネキャンディー』ですって。でもロンのお父さんは骨に異常があるわけじゃないも
のね…そうよ、あなたがマルフォイと話をしてくるって言った次の日、あなたたちの様子を見て
すぐに、ダメだったんだなって分かったわ。でもその日、マルフォイがわりと元気そうに見えた
から、もしかしてあなたたちの言うとおり、本当に出かけなかったのかもしれないと思えてきた
の。だけどそれにしちゃロンのしゃべり方は不自然だし、あなたは無口だし……」
その時の二人を思い出してか、ハーマイオニーはクックと笑った。
「あなたたちの態度とマルフォイの様子がどうも噛みあわないから、どうしたものかと思ってい
るうちに、どんどん時間が過ぎてっちゃった。私も怠慢だったかもしれないわ。あなた、ここに来
る途中でマルフォイを見かけたでしょう?」
ハリーが驚いて、君も見てたのかと言うと、ハーマイオニーはそうじゃないけど、と言葉を濁し
た。
「あなたたちの雰囲気で分かっちゃったのよ」
さらりと言われて、ハリーはいい加減むっとしてきた。女っていうのはどうしてこう、なんでもか
んでも『分かっちゃう』のだろう。
ちょっと手を伸ばして紅茶の缶を取り、ハーマイオニーはレジへと向かった。缶の表面ではや
たらと可愛らしくデフォルメされたドラゴンが、ピンクの花に埋もれて紅茶を飲んでいる。イラス
トのドラゴンは時々鼻から炎を吹き出して、紅茶のポットを温めていた。
「僕じゃマルフォイのストッパーにはならなかったよ。何も変えられなかった。どうする? 今か
らマクゴナガルのところへ行く?」
かすかな自嘲を含ませて言うと、ハーマイオニーは躊躇いがちに口を開いた。
「本当に何も変わらなかったと思う?」
未だポンドに比べて慣れないクヌートとシックルの手触りに、ぎこちなく支払いを終えてエレベ
ーターを待つ。
「さっきの子があなたを見る目が、ちょっとマルフォイと似てる気がしたの」
「どこが? あの子、そんなに意地悪そうな顔してたっけ?」
「違うわよ。あなたに助けてもらいたがってるってところ」
思いがけない彼女の言葉に、ハリーは一瞬答えに詰まってしまった。
「先生のところへ行かなかったのはね、一つにはマルフォイが今もホグワーツを抜け出したりし
ているのか、確信が持てなかったのもあるけど―――もう一つは、彼があなたに助けてもらい
たいって顔をしてるように見える…気がしたからよ」
乗り込んだエレベーターが下降を始めたが、ハリーは自分の心臓が重力に逆らっているんじ
ゃないかと思った。心臓の音が耳元で聞こえ、心拍数がどんどん上がっていく。
「いつからああだったのかは分からないし、どこかでマルフォイに同情しているからそう見える
だけかもしれないけど」
「だけど、あいつが助けて欲しいんだって分かってるなら、なんで早く先生に言わなかったのさ。
ダンブルドアでもスネイプでも…アンブリッジだって、それなりにあいつを助けてやれただろ」
きっと分別のある大人が誰か一人でも―――その事実を知っていれば、少なくとも自分より
は確実に、マルフォイを救ってやれただろう。しかしハーマイオニーはそうじゃない、と言う。
「マルフォイは『ハリー・ポッター』に助けてもらいたいのよ」
ハーマイオニーの言葉は、それこそ電流のようにハリーの体を貫いた。
「もちろん彼に聞いたわけじゃないから、そうと決まったわけじゃないわ。でも……」
ちょうどエレベーターが止まって扉が開き、ハーマイオニーは言葉を切った。
さっき入ってきたときよりも、やや人の増えたように思えるロビーが目の前に広がっている。
「一階だよ」
アーサーの病室は二階なのに、とハーマイオニーを振り返ると彼女は一生懸命微笑もうとし
ながら、こう言った。
「あなた、女の直感って信じる?」

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