「全然分かんない」
「さっきから十八回目だよ、それを言うの」
 ベッドにドサッと仰向けに倒れこんだロンの独り言に、ハリーがカウントを教えてやった。しか
しロンは気にも留めず、再び同じ言葉を呟いた。
 夕食後の寝室に、他のルームメイトたちはまだ戻ってきていない。下の談話室から地響きの
ようなものが伝わってくるのは、双子が新商品のデモンストレーションでもやっているためだろ
うか。今日に限っては二人とも、その騒ぎに混ざりたいとは思わなかった。
「ハリーだってそうだろ? そりゃ人の趣味はそれぞれだと思うけど、よりにもよって……」
 うげぇ、と舌を出してみせるロンに、ハリーは何も答えることができなかった。
 ロンの疑問はもっともだと思う。マルフォイには女性的な要素などほとんどない。ひね曲がっ
た性格に意地悪そうな顔、鶏がらみたいな体。どうしてあんなのを抱きたがる男が大勢いるの
か、到底理解できない。それが普通の感覚なのだろう。
 しかし同時に、ハリーの瞼の裏には力無くシーツに沈むマルフォイの姿が現れる。
 薬を塗布してやるために晒した身体は、痩せてはいたが肌は掌に吸い付くように滑らかだっ
た。色が白いせいか、マルフォイは無惨に汚されていながらなお、どこか無垢な感じがした。赤
い血を滲ませた傷口までもが、その肌の白さを引き立てているかのようで―――あの時ハリー
は、胸苦しいまでの感情の昂ぶりを確かに覚えていた。それは目を背けたくなるくらい醜い、自
身の情欲に他ならず―――マルフォイを意のままにしている男たちが抱く思いと、なんら変わ
りないのだという事実を認めないわけにはいかなかった。
 こんなこと、誰にも言えない。自分の中に貪欲で薄汚い欲望が、確かに息づいているだなん
て。
「いる?」
 ベッドの上で忍びの地図を広げると、ロンが身を乗り出してくる。スリザリンの談話室を抜け
て自分の部屋に向かいつつある点を、ハリーは黙って指差した。
「今日も行くのかな」
「さあ、どうだろう。さすがに昨日も一昨日も出かけているから、今日は……」
 思わぬ点の動きに、言葉が途切れた。
 マルフォイの名の黒点は、いったん自分の部屋に入ったかと思うと、またすぐに廊下へ出た
のだ。
「まだ八時前だぞ」
 点が寮の入り口の方へ向かっているのを認めた二人は、どちらからともなく地図から目を上
げ、顔を見合わせた。ハーマイオニーに先走った行動を取らせないための苦肉の策は、マル
フォイがまたそれと思われる様子を見せたときに、ハリーが説得して止めさせるというものだ。
これが成功する確率は、悪いが今度のハッフルパフ戦で、シーカーとビーター抜きのグリフィン
ドールが勝つのと同レベルだろう。
「それじゃ…」
「行ってくるよ」
 透明マントの入ったバッグを手に、ハリーは憂鬱な面持ちで寝室のドアを開けた。







 元気な足音や楽しげな話し声の聞こえない方へ、聞こえない方へと道を選びながら、アンブリ
ッジの部屋へ向かうドラコの足は、鉛でも詰められているかのように重く感じられた。
 一歩一歩を踏み出すのに、これ以上ないほどの勇気を必要とする。
 また今夜も男たちの精を受け入れ、喘がされることになるのだろうと思うと、それだけで体の
心がスッと凍り付いていくような感覚に陥る。
 精神的な問題ばかりでなく、連夜の呼び出しにそろそろ身体の方も疲れ切り、限界を訴えて
いた。今学期に入ってからアンブリッジの暖炉を使い、休暇で家に帰っている時以外でも、相
手をさせられるようになったのが楽しいのか知らないが、頻繁な夜遊びに彼らが飽きるのを待
つより仕方がなかった。
 明朝は早い。きっと相手もそれは同じなのだろう。だからいつもより早い時間を指定してきた
のだ。今日は少しでも短く終わらせてもらえるといいが―――そう、昨夜みたいなことをされな
い内に。面白半分で意識を飛ばすような真似をされ、このことがばれたりしたら向こうだって困
るはずだ。
 『誰か』に見つかったら………


「マルフォイ」


 呼びかけはあまりに唐突で、ドラコはとっさに振りかえることすらできない。
 けれど自分の名を呼ぶその声が、覚えていないはずの記憶を揺り起こした。


『マルフォイ、聞こえるか? ……マルフォイ…』


 何故だろう。夜だったというのに不思議に明るかった気がする。
 様々に色づいた光に囲まれて、必死に名前を呼ばれて。
 まるで誰かに心から求められているような錯覚さえ生まれ。


『マルフォイ……』

 とても幸せだった気がする。



『言えない!』


 大広間に響いたあの声は、やはりそうだったのだ。
 今、自分の背後に存在を感じている、彼。
 ドラコはゆっくりと向き直った。



「なんの用だ、ポッター」







 気取った口調があまりにも自然で、ハリーは一瞬、自分が何のためにここに来たのかを忘れ
かけた。手を伸ばせば届く距離にいるマルフォイは、いつも通り人を小馬鹿にしたような表情を
浮かべて、自分を見返している。
「口がきけないのか? 用がないなら僕は行くぞ」
 言うなり踵を返すマルフォイの肩を、ハリーはほとんど反射的に掴んで向き直らせた。
「痛…ッ」
「どこに行くんだよ」
 手加減無しに力を加えられ、顔を歪ませるマルフォイを気遣う余裕もなく、ハリーはやっとの
思いで言葉を紡いだ。
「昨日と同じところへ行く気か?」
 ブルーグレーの瞳が見開かれる。しかしハリーが想像していたほどの衝撃は受けなかったよ
うだ。やはり少しは記憶があったのか、予想していたのだろう。
「何の話だ」
 語尾が震えているのを、ハリーは聞き逃さなかった。肩へ置いた手に、さらに力を込める。
「放せ、痛い」
「質問に答えろよ」
 じっと視線を注ぐと、マルフォイは怯えたように身体を縮こまらせた。そういえば彼とこんなに
顔を近づけて話すのは、たぶん初めてのことだ。昨夜、一方的に唇を奪われた時を除いて。
 彼の貌が今まで見たこともないものみたいに、とても新鮮に映るのはそのせいだろうか、そ
れとも―――
「お前が何を言いたいのか、僕には分からない」
 マルフォイが目を逸らし、ハリーから逃れようと身を捩ると、短く切りそろえた襟足から花の香
りがした。ふわりと広がる、むせ返る甘さのそれが、女の子が好んで付けるような香水のトップ
ノートだと理解した瞬間、ハリーの胸に形容し難い激情が込み上げてきた。
「―――ッ」
 突然、体を壁に打ち付けられてマルフォイが痛みに呻いた。
「昨夜のことを僕が忘れているとでも思った?」
 顔を両手で挟んで、無理やり自分の方を向かせる。マルフォイの眦には涙が浮かんでいた。
痛みによるものか、それとも恐怖のせいか。
「僕は君が何をしているか知ってる。君の方が忘れているなら思い出させてやろうか。親に命
令されたからって……」
「止めろ!」
 マルフォイが渾身の力でハリーの胸を突き飛ばした。よろけるほどではなかったが、軽く緩ん
だ腕の中からマルフォイは抜け出した。
 距離をとった状態で二人の視線がぶつかり、しばらく沈黙が続いた。
「……なに、泣いてんのさ」
 ハリーに言われて初めて、マルフォイは自分の頬を涙が伝っていることに気づいたようだっ
た。緩慢な動きで瞳から溢れ出た滴を拭う。
「忘れろ」
 喉の奥から搾り出した声は、酷く苦しげだった。
「…僕に構うな」
 強気な口調とは裏腹に、その表情は縋るような、祈るような弱々しいもので。
(この貌―――)
 なのに、不思議に温かな思いが潜んでいる気がした。
 それはいつも彼との言い争いの末に見つけ、戸惑い、また見失ってしまう『違和感』にも似て
いて、ハリーは思わずマルフォイの貌をまじまじと見つめてしまった。
 だが、ハリーがその感覚を掴みきるより先に、マルフォイはさっとマントを翻すと、靴音を響か
せて廊下を駆け出していく。
「マルフォイ…!」
 黒いマントに包まれた体は、たちまち暗い廊下の先へ消えていった。








「昨夜の話は聞いたよ。大分乱れたそうじゃないか」
 言いながら男はドラコの金髪に指をかき入れて、唇を寄せた。そのまま口付けずに舌先だけ
で、ドラコの唇の形を確かめるようにして舐め上げる。
 今自分の体を弄っている男の名前は何だっただろう、とドラコはぼんやり考えていた。昨日の
男ではない。最後に会ったのはいつだったか。先週か、先月か、もっと前のことか―――
「私がこれから君に会うと言ったら、謝っておいてほしいと言われたよ。君が怖がると思って薬
はワインに混ぜておいたそうなんだが、酒と混ぜるのはまずかったらしい」
 指の背で白い喉の線をなぞり、されるがままになっているドラコの上体を膝に抱き上げ顔を
覗き込んだ。
「お詫びに今夜は存分に楽しませてやってくれ、というわけでね。またこれを預かってきたんだ」
 着ていたガウンのポケットから取り出した小瓶の蓋をあけ、顔に近づけてやる。
「さあ、薬の時間だ」
 ようやくこれから起こることを悟ったドラコの眼が、逃れる術を探すかのように不安げに彷徨
うのを見て、男が満足げな笑みを浮かべた。
「そんな心配しなくても大丈夫だ。昨日は途中で気を失ってしまったそうだが、今日はちゃんと
気持ちよくしてあげよう」
 男の指がタイを抜き取り、シャツのボタンをわざとらしいくらいゆっくりと外し始めると、ドラコ
は観念して哀しそうに眼を伏せた。唇にあてがわれた小瓶が傾き、ドラコの喉が小さく鳴る。
 手を取られ、柔らかな掌から指の付け根まで舌を這わされた。白い指の隙間で赤色の塊が
てらてらと蠢く感触が、いつしか肩を走り抜けるざわめきとなっていく。
「綺麗な色だ」
 薄紅く上気した胸に頬をすり寄せながら、男はドラコの切なげに潤んだ水色の瞳に見入り、
震える掠れ声を極上の音楽のように聞き入った。
「気持ちいいだろう?」
 何度となく抱かれて暴かれた部分、敏感な肌を男がくまなく探り当て、丹念に刺激していく。
舌を絡め取ったままガウンを脱ぎ去り、華奢な肢体を抱き締めたが、言葉さえ封じられたドラコ
は哀れっぽく身を捩るだけだった。
 すでにドラコの鼓動は轟音となり、視界は蜃気楼のように歪んでいる。内側から身を灼く激し
い熱に喘ぎながら、気の遠くなるような羞恥と忌まわしさとの中で、ドラコは男の支配を受け入
れた。
 自分は望んでここにいる。逃げ帰るところなどない―――――本当に?
 心の片隅でかすかな疑問が頭をもたげたが、途端に目の前が赤くけぶり、ドラコはそれ以上
何も考えられなくなった。
 男たちの言葉に従っていればそれでいいし、きっとそれが一番正しい。
 ただ、ここにいることがたまらなく辛くて、いたたまれない。恥ずかしくて、このまま消え去って
しまいと思った。
「力を抜きなさい」
 男のその一言で、拒否することを知らない身体はぎくしゃくと軋む。刺激を受け続けている部
分は段々ひりひりとしてきて、自分が感じているのは快楽なのか苦痛なのか、ドラコには分か
らなくなってきた。







 後ろ手にドアを閉めたと同時に、張り詰めていた神経がぷつんと音を立てて千切れた。
 かろうじて数歩、足を前に進めたが、すぐに力尽きて膝が折れた。
 目をぎゅっと閉じて、体内で燻る熱に耐える。少し待てば楽になるだろうか。肩で大きく呼吸を
しながら、ドラコは苦しさに顔を顰めた。
 使われた薬の量も、拘束されていた時間も、昨日に比べればずいぶん少なかったと思うが、
それでも連日苛まれ続けた体は悲鳴を上げている。
 相手も明日は朝から仕事だろうという読みは当たり、早い時間に解放されたのは助かった
が、アンブリッジがまだ寝ていなかったため、今日の『会合』の内容をでっちあげなくてはならな
かった。嘘をつくのは慣れているはずなのに、身も心も疲弊し切っていてそれすら上手くでき
ず、最後にはアンブリッジに、疲れているようだから早くおやすみなさい、と気遣われてしまっ
た。彼女にまでばれてはいないだろうが―――不意に、石畳を踏む足音が聞こえた。



「一人で帰れるの?」



 廊下を照らす月明かりを遮って、誰かのシルエットが覆い被さってきた。
 顔を上げなくても誰だか分かる。声だけで、気配だけで。
 押し黙っているドラコに、ハリーは小さくため息をつくとしゃがみこんできた。
「肩、つかまれよ」
 何を馬鹿なことを、と言いかけた口は、けれど言えずに閉じてしまう。ハリーの腕が背中に回
され、強制的に立ち上がらされたからだ。
「こっちに体重かけろって」
 悔しいが、足が自分のものでないようにふわふわとしていて力を入れることができず、ドラコ
は唇を噛み締め、言うなりにハリーの方へと体を預けた。
 ハリーはゆったりとした足取りで歩いていく。もう少し早くても大丈夫なのに、とドラコが感じる
ほどに。
「そっちはフィルチがいるから」
 いつも寮に帰るときに使う階段を通り過ぎたのでハリーを見やると、ちょっとだけ笑みを浮か
べた顔でそう言われた。
 あんまりハリーの顔が近くにあって、それが自然すぎて、ドラコはなんだか泣きたくなった。
 ツンと鼻の奥が痛くなって、ハリーの輪郭がぼやける。慌てて顔を背け、必死に目を瞬いて
誤魔化した。
「君が自分の意思でやってることなら、僕は止めないし、止められない」
 寮の入り口になっている壁が見えてきたころ、ハリーが呟くように言った。
「でもそうじゃないなら……止めたら? …助けが必要なら、そう言って」
 耳を疑う言葉に、驚いてドラコは立ち止まった。
 暗い中でもハリーが赤くなっているのがはっきりと分かった。らしくない台詞に照れているんだ
ろうか。早口に、つっかえながら伝えられた言葉が重みを持って、ドラコの胸に沈んでいく。
「おやすみ」
 ドラコと目を合わせないままハリーは背を向けると、軽く手を上げてみせた。