「お呼びでしょうか、ハリー・ポッター!」
 ポン、と弾けるような音とともに現れたドビーは、ハーマイオニーが編んだ不恰好な帽子を七
個も頭の上に積み上げていた。ドビーがキーキー声を発しては深々とお辞儀をするので、帽子
の塔は危なっかしくたわんだ。
「やあ…おはよう。昨夜はどうもありがとう」
 さり気なく首の骨を折らずにすんだお礼を言うと、ドビーはあからさまにビクッとした。
「君に教えてもらいたいことがあるんだけど」
 ここは単刀直入に切り出した方が良さそうだと判断して、ハリーはドビーの大きな目を見据え
たまま、彼との距離を詰めた。ドビーが目玉をこれ以上開いたら本当に飛び出してしまうんじゃ
ないかというくらい、いっぱいに開いて、酸欠の金魚よろしく口をパクパクさせる。
 温室の戸が風もないのにゆっくりと開き、耳障りな金属音を立てた。
「いつから?」
 蛇ににらまれた蛙のようにドビーの全身が硬直した。主語のない問の意味を察したようだ。
「いつからなんだ?マルフォイがあんな……」
「ドビーは何もご存じありません!」
「本当に?」
ハリーはゆっくりとしゃがむと、視線の高さをドビーと合わせて、じっと覗き込んだ。まん丸な目
玉が数回まばたきを繰り返した。
「本当に知らないのか?」
「ドビーは…ドビーめは誰にもおっしゃってはならないのです!!」
「つまり『知っている』んだね」
 頭のてっぺんで、一番不安定に揺れていた帽子がポトリと落っこちた。ドビーは可哀想なくら
いうろたえている。
「君はマルフォイが何をしているか知っているんだろ? でなきゃどうして昨日、マルフォイの持
ち物の中から、使える薬をすぐに見つけられっていうんだ。マルフォイは君があいつの家にい
たときからあんなことをしていたのか?」
 返事はなかったが、ドビーの様子はその通りと認めたも同然だった。しかしハリーによって解
放され、ホグワーツに使える身となった今でも、ドビーはマルフォイの家に対して何かしらの義
理を感じているようだ。屋敷しもべと呼ばれるだけのことはある。元の雇い主の知られざる内
情を、そう簡単には暴露してくれそうもない。
「相手は?」
 しばらくの沈黙の後、ハリーは諦めて次の質問に移った。だがドビーは激しく首を横に振るば
かりだ。
「ドビーめはご存じないのです!!」
「男? それとも女?」
 遂に飛び跳ね、自分の頭を近くの植木鉢に打ちつけようとしだしたドビーを、ハリーは慌てて
押さえつけながら聞いた。ぴたりとドビーの動きが止まり、頭の上の帽子の塔がばらばらと崩
壊して、足元に散らばった。
「ドビーは本当にご存知ありませんのです……ただ……」
 ハリーは黙ってドビーの答を待った。ごくりと唾を飲み込む音が聞こえる。
「……皆様、とても偉い方ばかりです。ご主人様とお友達なのです!」
 一瞬、ハリーは言葉を返すことができなかった。
「皆様、って言った?」
 ようやく搾り出した自分の声は、カラカラに乾いてしゃがれていた。
「相手は一人じゃないってこと? それじゃまるで……」
「ドビーは何もおっしゃいませんでした!」
 口を滑らせたことに気付いたドビーが、自分の耳を掴んで引っ張り、キーキー喚いた。しかし
ハリーは呆然として、もはやそれを止めようとも思わなかった。
 意識を失い、ぐったりと横たわるマルフォイの白蝋のような胸の上で、間違えて落とした絵筆
の跡のように、鮮烈な色彩を放っていたいくつもの紅い染み。そして熱で曇った瞳には涙が溜
まっていたが、それは悲しみというよりももっと深い、陶酔の色を深く湛えていた。
 あの状態を目にしたときから、マルフォイが男に抱かれてきたのでは……それもかなり強引
なやり方で、と思ってはいたが―――。
「ルシウス・マルフォイも知ってるんだね」
 今にも逃げ出しそうな雰囲気のドビーの両腕を握り締めて尚も尋ねると、イエスなのかノーな
のか判断がつかない勢いで、首を振りまくられる。
「ハリー・ポッター! ドビーは誰にも話してはならないのです!」
「君が昨夜、僕にマルフォイを預けたんだぞ!!」
 甲高い悲鳴に対抗して思わず怒鳴りつけると、ガシャンという派手な音と共に背後の棚から
スコップを入れた箱が落っこちたので、ハリーとドビーは同時に動きを止めた。
「僕は何もみんなにマルフォイのことをしゃべって回ろうってわけじゃないんだ。だけど昨日のこ
とを見なかったことにするわけにも…あー…マルフォイも相当、参ってたみたいだし……つま
り、このまま放っておいて、僕以外の誰かに見つかったらどうする? 事情が分かれば僕にも
協力できることがあるかもしれないし……」
 我ながらマルフォイを気遣っているような言い方をしたりして、ちょっと白々しすぎたかと思っ
た。しかしドビーはハリーの言葉にいたく心打たれたようだった。
「やはりハリー・ポッターは偉大なお方なのです! 他人を思いやれる高貴なお心をお持ちな
のです! ハリー・ポッターならばなんでもできるのです!! ドビーはハリー・ポッターに最初
からお知らせするべきでした!!」
 大きな瞳を潤ませて、ドビーが尊敬の眼差しで見つめてきた。そこまで高潔な志など持ってい
なかったハリーは、ややバツの悪さを感じながらも、この機会を逃すまいとして尋ねた。
「マルフォイは父親の命令でホグワーツを抜け出しているの?」
 しばらく間があってから、ドビーが一度だけ頷いた。
「それで……マルフォイは…」
 多少なりともましな言葉を使いたかったが、あいにくハリーのボキャブラリーには相応しい代
替品がなかった。言葉を探すうちに、直接的に言おうと間接的に言おうと大差ないんじゃない
かという気になってきて、ハリーは口を開いた。
「いつからあんな売春みたいなことをしてるのさ」
 言いづらい単語を早口で言ってしまってから、せめて『身売り』にしておけばよかったかもしれ
ない、と後悔した。
 その時、後ろの棚から再び、金属製の水差しが転がり落ちた。よほど安定の悪い棚なんだろ
うかと振り向いて、ハリーは固まった。


「……ロン?」


 地面の上に、見覚えのある靴紐の端が不自然に途切れた形で横たわっている。これはつま
り………いや、きっと、もちろん………。


「ハーマイオニーも?」


 ばさりと布を返す音がしたかと思うと、それまで何もなかった空間から親友二人が姿を現し
た。










「ごめんなさい、ハリー。でも私たちどうしても気になって……」
 むくれたハリーにハーマイオニーが必死で弁明している。
「私たち? 僕は止めようって言っただろ! それを君がさっさと透明マントを取って来いだなん
てけしかけて……」
「あなただってハリーが二晩連続で自分を置いてけぼりにしていったって、拗ねていたじゃな
い」
「誰も拗ねてなんていないだろ!」
「ともかく私たち、あなたが何か危険なことに首を突っ込んでいるんじゃないかって思ったら、い
ても立ってもいられなくて……」
「いいよ、もう」
 ハリーはため息と共に答えた。
「僕も君たちに何も言わなかったのは、悪かったと思っているし。それにしても……」
「そう、それにしてもドビー、どういうことなの? ちゃんと話して聞かせてちょうだい」
 ハリーを押しのけてハーマイオニーがぐっとドビーに顔を近づけた。
「ド、ドビーめは何も……」
「どういう経緯であなたたちとマルフォイが関わりあったのかは、後でハリーから詳しく教えても
らうとして、さっきまでの話を統合すると、私にはマルフォイが虐待されているという風にしか聞
こえなかったんだけど。しかも保護者容認で」
 間違っているかしら? とハリーよりよほど凄味のある表情で問われ、ドビーは全身に滝のよ
うな汗を流していた。
「彼の母親はそれを、どのように考えているのかしら? マルフォイが虐待を受けている事実を
知っているの? 阻止しようとはしているの?」
「お、奥様はそれはもう清らかで、この世の者とは思えない純情可憐かつ天真爛漫な方でし
て、世俗の雑事に関してはあまり興味をお持ちではなく……」
「要するに気付いちゃいない、気付いていても見て見ぬふりをしているってわけね。なんていう
母親なの!」
 キーっと呻いたのはドビーではなくハーマイオニーだった。透明マントの下で既に大分乱れて
いた髪の毛を、さらに掻きむしったので、あっという間に凄まじいボサボサ頭になる。
「ヒステリー」
 ロンがボソっと呟いた声は、幸いハーマイオニーまでは届かなかった。
「ドビー、あなたもあなたよ! そんな母親の元で子供を育てるのを平然と見ているなんて、ど
ういう神経をしているの!?」
 遂にハーマイオニーの怒りはとんでもないところにまで飛び火を始めた。主人の命令には絶
対服従の屋敷しもべ妖精が、口を出せる問題でないのは明らかなのに、こうなるともう手を付
けられない。
「し、しかし奥様は奥様でして……」
「息子に虐待を受けることを強要する父親も最低だけど、それを見過ごす母親がいる!? 自
分の産んだ子供でしょう!」
「いえ、それは……」
 ドビーが何か言いかけて、はたと口をつぐんだ。それに気付いたハーマイオニーも、続けてよ
うとしていた言葉を飲み込んでしまう。ちょっと眉を寄せ何か考え込む仕草をしてから、ハーマ
イオニーはやおら笑顔を作ると、小首をかしげて尋ねた。
「ねえ、ドビー。話は変わるけど、あなたホグワーツの仕事はどうかしら? 急に掃除をする場
所が増えて大変じゃない?」
 心なしか声色まで普段より優しげで、はっきり言って怖い。絶対何かあるな、とハリーはロン
と目配せを交わした。しかしドビーは、自信を持って答えられる質問をされたのにホッとしたの
か、彼が掃除をする場所を増やした張本人の前で、嬉しそうに飛び跳ねて見せた。
「まったく問題ございません! ドビーの掃除場所は今はグリフィンドール塔だけでございま
す!」
 まさかハーマイオニーは、ドビーが一人でグリフィンドール塔を掃除する原因になったのが、
自分の撒いた屋敷しもべ妖精用の帽子だとは考えもしていないのだろう。にこにこしたまま質
問を重ねた。
「でもここに来る前よりは、掃除する部屋が増えたんじゃない? 毎日十以上の寝室を綺麗に
しなきゃいけないんだもの。前のお家では寝室は…四つくらいだったのかしら?」
「三つでございます! けれど前のお屋敷には客間や広間がたくさんございましたので、それ
に比べればずっと楽でございます!」
 ロンが面白くなさそうに鼻を鳴らした。寮より掃除が楽だなんて一体どういう家に住んでいる
んだ、マルフォイのやつ―――ロンの心の声が手に取るように分かって、ハリーはそっと苦笑
した。しかしハーマイオニーはどういうつもりでこんなことを聞いているんだろう。
「マルフォイと彼の両親で三人、それぞれが寝室を持っているわけね。それはあなたがあの家
にいた間中、ずっと?」
 幾分、鋭さを増した言い方でハーマイオニーが念を押したが、ドビーはためらうことなく頷く。
ハーマイオニーは最終確認をした。
「つまりミセス・マルフォイはマルフォイを産んだ人じゃないのね?」










「なんで分かったのさ。マルフォイの母親は生みの親じゃないって」
 ハリーは暗い声でハーマイオニーに言った。三人は人のいない廊下をグリフィンドール塔に
向かって歩いているところだった。全員の足取りが、どこか重い。
「寝室の数よ」
 そんなことも分からないのか、と言いたげにハーマイオニーが答えた。
「まさかあなたたち、夫婦の寝室で行う最も重要な行為は、互いに背を向け合って読書にふけ
ることだとでも思っていたの?」
「てっきり君はそう考えてると思ってた」
 止せばいいのに、ロンが条件反射のように言い返してしまい、ハーマイオニーから冷たい視
線を浴びせられる。
「結婚して以来、ずっとベッドルームを分けていたのだとすれば、自ずと結論は出てくるでしょ
う。私きっと、マルフォイの母親は男の人を知らないんじゃないかと思う」
 さりげなく断言したハーマイオニーに、ロンとハリーは揃ってポカンと口を開け、みるみる赤面
した。
「なんてこと言うのさ、ハーマイオニー!」
「そ、そうだよ、なんの根拠があってそんな……」
「女の直感よ」
 男二人を狼狽させたハーマイオニーの方はいたって平然としたものだ。
「クィディッチのワールドカップのときに一度だけ会ったの、覚えている? あの時、私なんとなく
おかしな気持ちになったの。でもさっきその理由が分かったわ。あのお母さん、ちっとも女らしく
なかったのよ」
 ハリーもワールドカップの貴賓席で、マルフォイの横に腰掛けた女性のことを忘れていたわけ
ではなかった。しかし今、彼女がどんな顔をしていたかとなると、全く思い出せない。ほっそりと
した体つきや、完璧なバランスで配置された顔のパーツ、マルフォイよりも一段濃い、豊かなブ
ロンドなどを美しいと感じたことは覚えているのに。
 けれど言われてみれば、ハーマイオニーの言うとおり、あまり『大人の女の人』という印象を
受けなかった気がする。動きとか容姿とか、何か一つじゃなくてあくまで全体から滲み出る雰囲
気が。
「あなたたちは気にしたこともないだろうけど、女の体のラインってあるのよ。子供を産んだ女
の人はそれがはっきり出ているはずなの。でもあの人はそうじゃなかった。彼女はまるでティー
ンの女の子みたいだったわ」
 ティーンの女の子であるハーマイオニーがそんな風に言うのは、少し変な感じがしたが、ハリ
ーにも彼女の言いたいことはなんとなく分かる気がした。一方ロンは頬の火照りを隠そうとして
下を向いている。純情なのだ。
「それにしたってふざけているわ。子供の人権をなんだと思っているのかしら!」
 元雇い主のトップシークレットを言い当てられ、すっかりパニックに陥ったドビーをなだめすか
して帰したものの、ハリーは結局これまでの経緯を二人にしゃべるはめになった。
 昨夜のマルフォイの様子などに関しては大分ぼかして話したが、それでもハーマイオニーの
激昂を引き起こすに十分だった。ロンは怒りより驚きの方がずっと強かったらしく、ひたすらに
唖然としていたが、自分が第三者としてこの話を聞かされたら、間違いなくロンと同じ反応をす
るだろうとハリーは思った。
「私、このことを報せに行ってくるわ!」
「誰に?」
「マクゴナガル先生」
 ハリーとロンはギョッとした。
「ハーマイオニー! 気は確かか!?」
「おかげさまで。いい? これは犯罪よ。両親も加害者の一員である以上、先生方に保護して
もらうしかないじゃない」
 ハリーは頭を抱えた。いくらなんでもこういう展開になるとは予想もしていなかった。そりゃ理
屈ではそうなるんだろうが……ロンが今にも走り出しかねないハーマイオニーのローブを掴ん
で、どうにか思いとどまらせようとした。
「待てよ。そんなことが学校中に知られてみろよ。マルフォイはホグワーツにいられなくなるぞ」
「ロン! マクゴナガル先生は生徒のプライバシーを、理由もなく公開されるような軽率な方で
はないわ。それにもしみんなに知られたとしても、マルフォイはあくまで被害者であって、彼が
恥ずべきことは何もないわ」
「だからって…もう少しまともな案はないのかよ。よりにもよってマクゴナガルじゃなくたって…
…」
「じゃあダンブルドア?」
 本気で言っているらしいハーマイオニーには、もはや打つ手なしである。
「事は一刻を争うわ。ハリーの話じゃ向こうはアンブリッジまで抱き込んでいるみたいだし……
あの女も共犯なのかしら」
「それは違うんじゃないかな。アンブリッジの口ぶりじゃ、マルフォイが出かける理由はもっと普
通のパーティーとか、そんなもののためだと信じているみたいだった」
 ひとまず話をそらそうとしたがあまり効果はなかったようで、ハーマイオニーはイライラと床を
蹴った。
「たとえどんな理由であろうと、生徒が夜中に学校を抜け出すなんて異常事態をアンブリッジが
一人で許可するってどういうこと? 保護者から頼まれたとしても、少しは疑問を感じるべきじ
ゃない? 仮にも教師のくせに鈍感なの! 早くまともな先生に報告を…」
「でもさ、ドビーが結構詳しく知ってたってことは…マルフォイはホグワーツにいる間はともかく、
少なくとも家に帰っているときには、二年生のころから……」
 口ごもりながらロンが言って、首を振った。
「しかも相手は複数? 分かんないな。デス・イーターってそんな物好きばっかりなのか?」
「ルシウス・マルフォイの友人がデス・イーターとは限らないでしょう。私はむしろ魔法省とか、グ
リンゴッツの上の人とか…そういう人たちだと思ったわ。そういう、マルフォイの父親にとって有
益な人たち」
「金貨代わりに?」
「そう」
 聞いているだけで気の滅入る話だった。
「私は先生でなければしかるべき機関に連絡して、早急にマルフォイを保護してもらうべきだと
思う。これ以上の犯罪を見過ごせば、私たちも犯罪を手助けしたことになるわ」
 ハーマイオニーは二人の顔を見比べ、きっぱりと言った。後ろ髪を掻きあげながら、ハリーも
無駄と知りつつ一応最後のあがきを試みる。
「今すぐ職員室へ行くっていうのは、やりすぎな気がするな。もう少し様子を見てからでも…」
「あなた、さっきはドビーに『マルフォイのためにできることはなんでもする』って言ってたじゃな
い!」
「そこまでは言ってないだろ!」
 大体ドビーに言ったのだって、本当のところは好奇心を満たすための口実みたいなもので―
――しかしこのまま放って置けるのかと言われれば……昨夜の憔悴しきったマルフォイの横顔
が浮かび、ハリーは急に息苦しくなった。
 知らなければよかった。知るべきではなかったのかもしれない。今からでも遅くはない。ロンと
一緒にハーマイオニーが先生のところに行くのを止めて、あとはできるだけ早く、このことを忘
れてしまえばいい。完全に忘れられなくても、その内にはきっと―――そう、マルフォイにとって
もその方が良いに決まってる。
 マルフォイがホグワーツを抜け出しているのも、親に強制されたとはいえ、ある程度は自分
の意思で決めてやっていることなのかもしれない。そうであれば『他人』である自分がとやかく
言う問題ではない。


「それじゃこうしよう」


 ハリーはゆっくりと一つ一つの言葉を選んで、言った。




「まずは僕があいつと話してみる」