―――約束だ。このことを誰にも知られないように。そうすれば……
夢の中に覚えのある香りが忍び込んでくる。
『あのこと』が終わった後の眠りは、どれほど疲れ切っていようとも、いつも短く、浅い。
小さく身体を動かすと、素肌と布が触れ合う感触がした。開いた瞳に、見慣れた寝具と部屋
が映し出される。それが現実なのか幻想なのか判らないまま、ドラコはぼうっと目の前の小瓶
を眺めていた。
シーツの上に投げ出されたガラス瓶の内側で、淡紫の液体が静かに揺らめく。
(寒い……)
シーツが滑り、冷えた空気の中に剥き出しになった肩へ自分の手を伸ばし、ぎょっとした。掌
に肌が直に触れている。
上体を起こした途端、腰の奥にきしむような痛みが走った。眉をひそめてその痛みに耐える
と、ドラコは枕元の香水瓶を手繰り寄せた。気付け薬の苦い香りが、動揺を少しばかり治めて
くれる。
「―――あ……」
目にかかった前髪を払う動作にさえ、敏感になっている表皮が疼く。そんな身体に嫌悪しな
がら、気力を奮い起こしてベッドから降り立った。下半身がズキズキと痛んで、たまらなく重い。
それでもふらつく足で絨毯を踏みしめながら、クローゼットの前に立った。
組み合わせを考える余裕もなく、一番前にかかっていた服へと手をかけたところで、クローゼ
ットの内側に嵌めこまれた鏡に気付く。
ハンガーがドラコの手から抜け落ち、音を立てて床に転がった。しかし彼はそれに目もくれ
ず、姿見に映った自分を食い入るように凝視していた。
室内は薄暗く、弱い明かりは彼の立っているところまでを完全に照らしはしなかったが、それ
でも―――痩せた身体を、恐ろしく白く、『傷のない』皮膚が覆っているのが分かった。
「――――ッ……」
漏れかけた悲鳴を必死で喉の奥に押しやり、ドラコはこめかみを押さえた。心臓の音が耳鳴
りのように響く。ぎゅっと目を閉ざしてその音に聞き入り、それからゆっくりと瞼を上げた。だが
そこにあるのは、幽霊のように真白く映る自分の姿のままだった。
ゆっくりと部屋を見回すと、隅のテーブルに昨夜着ていた服がたたんだ状態で置かれてい
る。ちょっと乱雑な、ドラコが普段やらないようなやり方で。その横にあるものを認めた瞬間、ド
ラコの胸がさらに激しく脈打った。足から緩やかに力が抜けていき、床の上に座り込んでしま
う。
昨夜、どうやってここに戻ってきた? 服は……自分で脱いだのだろうか。あの薬は――
―?
答えの出ない自問を繰り返し、ドラコは虚ろに視線を漂わせた。
たまには一緒に食事をと請われ、陽の落ちる前にはここを出た。金のかかった、けれど味が
ちっとも分からないディナーを済ませて……それから後のことは? 必死で記憶を探っても、霞
がかかったようにぼんやりとしたイメージが断片的に浮かぶばかりで、全てが中途半端に途切
れてしまう。もしかして食事に何か、理性を失わせる薬のようなものが混ぜられていたのかもし
れない。
しかし、一つだけ確かなことがある。部屋の片隅で、鈍い輝きを放っている銀のケース――
―昨日の服と一緒にテーブルの上に置かれているそれを、自分では決してあんなところに置き
ざりにはしなかっただろう。たとえ理性を飛ばされていたとしても。
それは、遠い冬の日に交わした約束だった。
―――誰にも知られてはいけない。
背筋を冷たい汗が伝う気がした。恐ろしい考えだった。誰かに……知られてしまったのかもし
れない、というのは。
誰かが自分の寝ている間にこの部屋に入り込み、あの薬を見つけ―――身体を、見られ
た? 傷だらけだったに違いない身体を。『あのこと』を終えて、身体に痕が残らない場合があ
るはずない。そんなことは今までに一度もなかった。それなのに今、この身に傷らしきもの一つ
も見当たらないということは。
胸元に手を這わせると、かすかに痺れるような痛みがあった。あの薬を塗り、傷を消した後
に感じる、そのものの痛みが。
やはり傷はつけられたのだ。それを薬を使って消した。誰が……?
自分ではない、という確信めいた直感を絶望的に抱きながら、ドラコは頬を涙が伝うのを拭う
ことすらできずにいた。
いつもより少し遅く、ロンと大広間に到着すると、スリザリンのテーブルにはすでにマルフォイ
が着いていた。
「昨日もチェスに夢中だったってわけ?」
椅子に座るなり、とっくに食べ終わり食後の読書タイムに突入していたハーマイオニーから、
嫌味っぽい言葉をかけられた。
「そうそう。ハリーのルークの使い方がなってなかったから僕がレクチャーしたんだよ。うるさい
クイーンは早いとこ塔の中に閉じ込めとけって」
すかさずロンが言い返すので、ハーマイオニーは読んでいた分厚い本を荒っぽくテーブルに
置き直した。ネビルがビクッとしてテーブルの上にカボチャジュースをこぼしたが、ロンもハーマ
イオニーも知らん顔だ。
卵料理を取り分けながら、ハリーはスリザリンのテーブルへ目をやった。今朝はあっちのテー
ブルに対して正面を向く位置に座っている。距離はあるがマルフォイの姿は十分に見て取れ
た。なんだか憔悴しているようだった。あまり食べてもいないのか、横についているデカい二人
やパグ顔―――今は笑顔を作っているのでわりと可愛かったが―――がせっせと皿に料理を
盛っては差し出しているが、マルフォイは気だるげに手を振ってそれを拒否するばかりだ。
パーキンソンがしょんぼりして、皿いっぱいに乗っかった焼きトマトを他の生徒に押し付けた。
「ハリー、おはよう」
突然声をかけられて振り向くと、なんとチョウ・チャンが立っていた。つやつやした黒髪を、今
日はヘアバンドでまとめている。びっくりしてろくな返事もできないでいるうちに、彼女はにっこり
笑うとハリーに手を振り、少し先を歩いていた友人たちの方へ行ってしまった。
「なにやってるのよ、ハリー」
ハーマイオニーが、ポカンと口をあけっぱなしにしているハリーにため息をついた。
「どうしてあなたの方からも挨拶しなかったの? ついでに何か話しかけてあげれば……」
「今日の天気についてとか?」
ベーコンを口に捩じ込みながらロンが尋ねると、ハーマイオニーはもう一度ため息をつく。今
度はやや、わざとらしく。
「そうね。それだって何も言わないよりはマシかも。せっかくチョウの方からあなたにアプローチ
してきたっていうのに。今日はいい天気だね、チョウ。君の可愛い顔が良く見えて嬉しいよ。こ
んな日には君とピクニックに行きたいな、くらい言えないの?」
「言えない!」
ロンがベーコンを吐き出し、ハリーは真っ赤になって叫んだ。大広間中の人間が何事だろうと
こちらを見たので、ハリーは慌てて声を落とした。幸い、チョウはすでに出て行った後だった。
「そんなこと言えるわけないだろ。チョウだっていきなりそんなこと言われたら怒ると思うし……」
「馬鹿ね、怒るくらいなら最初から声をかけてくるわけないでしょう。あなた、チョウが髪型を変
えていたのに気が付いた?」
「それは分かった」
「僕は分かんなかったぞ」
ゲホゲホとむせながら大笑いしているロンは無視して、ハーマイオニーは言った。
「要するに彼女はあなたに新しい髪型を褒めてもらいたかったわけ。だから勇気を振り絞って
話しかけてきたのに、あなたときたら……」
「待てよ、どうしてそう言い切れるんだ?」
「分かるのよ。女同士だもの」
そう言われてしまうと『女でない』ロンとハリーにはなんとも言い返しようがない。
やれやれと肩をすくめ、気を取り直して朝食を再開しようとして、ふと大広間の向こう側にいる
マルフォイが目に入った。
彼は完全に食事の手を止め、呆然としていた。周囲の人間が話しかけても耳に入らない様
子で、何か一つの思いに完全に囚われてしまい、それ以外のことにまで考えが至らない――
―そんな様子だった。
大広間から出て、当然グリフィンドール塔に戻ろうとするロンとハーマイオニーに、先に戻って
いてくれと告げると、ちょっと変な顔をされた。一昨日の授業で教室に忘れ物をしたのを思い出
したから、なんて適当にでっち上げて、じゃあ一緒に行くよと言われたりしないうちに、さっさと
階段を駆け上がっていった。
二人にはまだ、言えずにいる。
これからもずっと、言えない気がした。
踊り場のところで立ち止まり、キラキラと七色の光を撒き散らすステンドグラスを見上げた。
昨日の夜、マルフォイはここに蹲っていた。屍骸のように。そして―――キス、された。
ハリーは無意識に自分の唇に指を当てた。思い出すだけで頬が火照って、心臓がドキドキす
る。チョウに話しかけられた時みたいに。
あの時の彼は正気ではなかったのだろうが、それでも彼がその口付けによって、まるで救い
を求めているかのように思えたのは、ハリーの思い上がりだろうか。
ゆっくり階段を上がり、それからしばらくあてどもなく校内をうろついて、やがて日差しの差し
込む校庭へ出た。みんなベンチや芝生の上に思い思いに座り、本を読んだりおしゃべりしてい
て、ハリーに注意を向ける生徒はいなかった。
ハーマイオニーではないが、本当に今朝は珍しく晴れ渡っていて、歩いていても気持ちがい
い。ぶらぶら歩きながら、いつの間にか温室の近くまで来ていた。ちょうどいいかもしれない。
ハリーはガラス戸を開けて中に入った。三年生のころ授業で使っていた温室だ。血吸い豆の
蔓には気をつけた方がいいが、特に危険な植物は置いていないはずだ。もう使っていない温
室や空き教室なんかだと、上級生がお取り込み中だったりすることもあるので下手に入ってい
けないが、ここなら大丈夫だろう。
止めた方がいいのかもしれない。しかし、マルフォイの秘密を垣間見てしまった以上、明日か
らまた知らん顔して彼に接するなどという器用な芸当を、ハリーは出来る自信がない。それなら
いっそ、理由も結果も全部知った上で……というのは単なる好奇心を正当化する、方便でしか
なかったが。
ハリーは深く息を吸い込むと、その名を呼んだ。彼の知りたいことを教えてくれる、名を。
「ドビー?」

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