小鳥の羽根が触れるように素早く口付けて、舌先を潜り込ませる。
唇を押し付けたまま時折薄く瞼を持ち上げると、大抵の男たちは満足げな表情になる。
金で足を広げる娼婦も唇を許すのは心から慕う相手だけ―――そんな古風な言い伝えを信
じてでもいるのだろうか。
「いい子だ」
低く囁いた口元が胸の真っ白な広がりに寄せられ、強く吸い上げられる。
鼠の鳴くような音が鼓膜を引っ掻いた。
「見てごらん。いい色に染まった」
照明を落とした一角に掛けられた鏡の中に、気味が悪いほど白い裸体が映っている。その
胸元に散る、醜悪な赤色の花弁。
「こちらへおいで」
欲望に掠れ、上ずった声へ、ドラコは鏡の中から微笑を返した。
階下の談話室から、柱時計が鳴る音が振動となって伝わってくる。鐘の音は二回。深夜の二
時ということか。
(眠れない……)
ハリーは苛々と寝返りを打った。カーテンの外側からはとっくに寝静まったルームメイトたち
が立てる、軽い寝息やシーツをがさごそさせる音が時折聞こえてくる。
小さく舌打ちすると、ハリーは諦めてベッドの上に起き上がった。枕の下から忍びの地図と杖
を取り出す。少しだけ躊躇ってから、結局小声で呪文を唱えた。
(なんだってマルフォイがこんなに気になるんだ)
明かりとなる杖先をかざして、羊皮紙に現れだした地図を読み取ろうとする。
地図の上、つまりホグワーツにいないマルフォイを求め、ベッドに入ってから地図を広げた回
数は両手にあまる。
昨日の睡眠不足も手伝って、ベッドに潜り込んでしまえばぐっすり眠れるものだと思っていた
のに、目を閉じればマルフォイの顔ばかりが浮かんできた。いつもの偉そうに取り澄ました顔、
意地悪く口端を歪めた顔、スネイプやアンブリッジに向ける媚を隠した笑顔、昨夜の何かをじっ
と堪えているかのような顔……それからクィディッチの試合の直後に見せた、不思議な表情―
――次々と水面に映る影のように、おぼろげに形を作っては崩れ、やがて互いに重なり合って
いく。
ハリーはスリザリン寮からアンブリッジの部屋の辺りを中心に、地図の名前を指で辿っていっ
た。しかしマルフォイの名前が必ずあると期待していたわけではない。時間も時間だし、今夜は
ホグワーツに帰ってこないつもりなのかもしれない。
「いた」
思わず呟きがもれる。ハリーは杖を地図に近づけスペルを確かめた。見間違えではない。
彼を示す点は確かに地図の中にあった。
しかしその点は、どうあってもスリザリン寮のベッドの中とは思えない場所で、微動だにしてい
なかった。
カツン、カツンという音が、動くものの何も無い廊下に響く。
壁の肖像画のほとんどは思い思いの姿勢を取って眠っていたが、たまに目を開けて「どな
た?」と尋ねるものもあった。だが暗がりの中に実体を捉えられないと分かると、ゴーストの悪
戯だと合点して、すぐにまた目を閉じてしまう。
ハリーは透明マントの下で、声を出さずに笑った。
しかし笑ってしまったのは神経が張り詰めていて、ちょっとした刺激にも過敏に反応している
からだということは、自分でも分かっている。
緊張している。シリウスとハーマイオニーを乗せてバックビークを操った時よりも、ホーンテー
ルを前にファイアボルトを呼び寄せた時よりも、たぶん、ずっと。
歩きながら地図に目をやり、位置を確認する。あと少しだ。
マルフォイの点はある階段の踊り場近くで、さっきから全く動いていなかった。
場所から考えて、アンブリッジの部屋からスリザリン寮へ戻る最中なのだろうと推測できた
が、なぜ彼は『動いていない』のか。
夜の校内を歩き回っているところを見つかれば、いくらアンブリッジがついていようとも、マル
フォイだって面倒なことになるだろう。
(まさか僕をおびき出すつもり……なわけないよな。地図が嘘をつくはずもないし)
どちらもありえないことだった。でも、いっそその『ありえない』状態であればいい、とどこかで
思っている自分がいる。
恐る恐る覗き込んだ踊り場ではミセス・ノリスが深夜のパトロールをしているだけで、マルフォ
イは自分の部屋でぐっすり眠っているのなら。まんまと引っかかった自分をせせら笑っていたと
しても、それはそれで良いかもしれない、と。
我ながら馬鹿なことを考えているとは思うけれど。
足元に注意しながら、階段を降りていく。あと二階分降りれば、マルフォイがいるはずの踊り
場に着く――――あと、一階分……あと二十段……十段………
階段の一番上に立ったハリーは、踊り場を見下ろした。
踊り場の高い位置に嵌め込まれたステンドグラスを通し、淡く色づいた月明かりがマルフォイ
を照らし出している。
自分自身をかばうかのように身体を丸め、力なく横たわるそれはどこか、ピンで留められた
美しい蝶の標本を思わせた。
「マルフォイ……ッ」
ステンドグラスの影に照らされたマルフォイは、この世のものとは思えない―――美しさだっ
た。
もちろんハリーはその姿に呆然と見とれていたわけではない。姿を見られる心配も忘れ、動
きの邪魔になるマントを脱ぎ捨てると、すぐに階段を駆け下りた。
石畳の床に膝を付き、生気の無い頬に触れた。ぞっとするほど冷え切っている。
「…マルフォイ……マルフォイ…」
彼はこのまま目を覚まさないのではないかと思った。それでもどうすることもできず、ただ名
前を呼び続ける。
とにかく誰か大人を呼びに行くべきだろうか、とハリーが立ち上がりかけた時に、マルフォイ
の睫がかすかに震えた気がした。
「マルフォイ、聞こえるか? ……マルフォイ…」
ゆるゆると瞼が持ち上げられ、水色の瞳がハリーを映し出す。ごく自然にハリーの口から安
堵のため息が零れた。
「こんなところで何して……!」
語りかけた言葉はしかし、最後まで紡がれることはなかった。マルフォイが急に身を起こした
かと思うと、思いもよらない素早さで飛び掛ってきたのだ。
自分を打ち据えて逃げ出すつもりかと思ったが、マルフォイは逆にハリーへしがみついてき
た。首に腕を回されて、ぶつかるように抱きつかれる。ふわりと鼻先を掠めた白金の一房から
石鹸の香りが立ち昇った。
「ちょっ……と…」
突然の事態にうろたえるハリーに、マルフォイはいきなり口付けてきた。押し当てられた唇か
ら、彼が全身で震えているのが直に伝わる。
驚愕に目を見張り、されるがままになっているところで、口内に火傷しそうに熱い存在を感じ
る。その正体が強引に潜り込んできたマルフォイの舌だと気付いた途端、ハリーの思考は真っ
白になった。そして気付けばハリーは石畳の床の上に押し倒されていた。
「マルフォイ!」
折れそうに細い肩を掴んで押しのけると、酷く傷付いた貌をされた。
その表情にハッとさせられながらも、ハリーは必死でマルフォイの瞳を覗き込む。いつもは冷
たく澄んでいるアイスブルーの瞳は、今は熱に浮かされたように潤みきっていて焦点を結んで
いない。おかしな魔法か、呪いでもかけられたのだろうか。理性が残されているようには見えな
い。マルフォイはハリーの胸に手をついたまま、苦しげに浅い呼吸を繰り返していた。先ほどあ
んなに冷たかった雪肌には赤みが戻り、しっとり汗ばんでいる。
「……どう…したんだよ……?」
額に張り付いた前髪を払ってやりながらそう尋ねると、マルフォイの瞳が突如、カッと見開か
れた。
「…あ…あぁ―――」
呻き声を上げてハリーの上からマルフォイが退いた。立ち上がろうとして、脚に力が入らなか
ったのかカクン、と膝を折ってしまうが、それでも這い蹲るような格好でハリーから離れようとす
る。
「おい、そっちは……!」
マルフォイが石作りの階段を踏み外して転がり落ちたのと、ハリーが腕をいっぱいに伸ばし
て彼の身体を抱きこんだのと、ほとんど同時だった。
紅い傷痕が刻まれた手首が、暗闇の中に頼りなく投げ出されるのが見えた。
「――――ッ……!」
硬い石段を、マルフォイを抱えたまま次々転がり落ちていく。後頭部を強打して火花が散っ
た。
(……誰かッ……)
朝になってマルフォイ共々、首の骨が折れた状態で見つかったらみんなになんと思われるだ
ろう。真夜中の決闘で刺し違え? 冗談じゃない。
誰かどうにかしてくれ、と心の中で叫んだ瞬間、パチンという音が耳元で鳴った。
落下の衝撃は、意外にも穏やかだった。
(床にしちゃずいぶん柔らかいな……)
ショックで感覚がおかしくなっているのだろうかと首を傾げる内、もしかしてマルフォイを下敷
きにしてしまったのではないかと気付いて、ハリーは慌てて飛び起きた。そしてそのまま動きを
止める。プラチナブロンドが自分の膝の上に収まっていたからだ。
ホッとして辺りを見回すと、驚いたことにそこは廊下の一角などではなく、重厚な造りの寝室
のベッド上だった。適度に落とされた照明が気持ちを落ち着けてくれる。
「……スリザリン…?」
深緑色のベッドカバーや、蛇を模ったレリーフから反射的にスリザリン寮を連想した。
「はい!」
と、聞き覚えのあるキンキン声がハリーの独り言に勢い良く答える。ぎょっとして声のした方を
見れば、毛足の長い絨毯の上に緑色のテニスボールが二つ―――いや、テニスボールみた
いな目を持った屋敷しもべ妖精が立っていた。
「ドビー……君一人で僕らをここまで運んできたの?」
「はい! ドビーめがお二方をお運びいたしました!」
そういえば屋敷しもべ妖精は魔法使いとは違ったやり方で『姿あらわし』できたはずだ。階段
を転げ落ちていく最中聞こえたあの音は、ドビーが出没するときに鳴らす指の音だったのか。
「助かったよ、ドビー。それで…ここはどこ?」
ドビーがタイミングよく自分たちの前に現れてくれたのは少しばかり不思議だったが、それよ
りも飛ばされた場所の方が気になった。よりにもよってスリザリン寮に運んでくれなくても――
―実はこちらはスネイプ教授のお部屋でございます、なんて教えられるくらいなら、今からでも
首を折りにいった方がマシだ。
「スリザリンの監督生さまのお部屋です!」
ドビーの返事にハリーは眉を上げ、膝の上で気を失っているらしいマルフォイを見やった。監
督生の部屋、つまりここはマルフォイの寝室ということか。しかし部屋にベッドは一つしか見当
たらない。
「スリザリンじゃ監督生は一人部屋なのか。それってずるくないか。ロンやハーマイオニーは監
督生になっても今までどおりみんなと一緒だぞ………ドビー、何やってんの?」
いまだぐったりとしているマルフォイを、ひとまずベッドの上に横たえながらブツブツ呟くハリー
をよそに、ドビーはクローゼットに頭を突っ込んだり、テーブルの引き出しを盛んに開閉してい
る。探しものをしているようだ。
あんまり勝手にいじらない方がいいんじゃないか、と思って見ていると、ドビーは目的の物を
見つけたらしく、嬉しそうに飛び跳ねながらベッドによじ登ってきた。
「ハリー・ポッター! こちらがお薬でございます」
ドビーは腕に抱えていたものをどさっとシーツの上に落とした。昔の映画にでも出てきそうな
バルブ付きの香水瓶と、丸く平べったい金属製のケースだ。香水瓶の中で薄紫の液体が魅惑
的に揺らめいた。
「薬? ああ、マルフォイにか。これをどうしろって……」
「ハリー・ポッターの秘密のマントはクローゼットにかけておきました。床に置いたままではしわ
になります」
「そりゃどうも。それでこれを……」
「どうぞよろしく、ハリー・ポッター!」
ドビーが指を鳴らしたかと思うと、次の瞬間、消えていた。
残されたのはハリーと、ドビーの置いていった薬、そして意識を失ったままのマルフォイ。
「僕にやれ……って…?」
薬の容器と瞳を閉じたマルフォイの顔とを見比べて、ハリーはがくりと脱力した。
とりあえず使い方がはっきりしている香水瓶の方を取り上げ、バルブを二三度押して液体を
空中に飛散させる。甘そうな色と裏腹に、かなりきつい薬草の匂いがした。
「まさか飲み薬ってことはないよな」
苦味のある香りに顔をしかめながら、マルフォイの顔に軽く薬を吹き付ける。ぴくりと彼の瞼
が動いたのでバルブから手を離したが、マルフォイが目を覚ます気配はない。
ハリーは丸い薬缶に手を伸ばした。持ち上げてみると、手の平に収まるサイズから想像して
いたのより、だいぶ重い。純銀でできているのだろうか、全面に複雑な模様が掘り込まれてい
る。特に蓋の部分の装飾は手が込んでいた。うねうねと蛇のように絡まった蔦が何かの文字を
作っている―――W? いや、Mだ。マルフォイの頭文字なのだろう。
そういえばこんなようなものが、グリモールド・プレイスの客間にごろごろあったっけ、と思い
出してハリーは蓋を開けようとしていた手を止めた。
中から瘡蓋粉や、それよりもっとタチの悪いものがでてきたらどうしよう。
チラリと視線をマルフォイに送ると、彼は息をしているかどうかもほとんど分からない状態で
ベッドに沈んでいた。ハリーは諦めてぐっと唇を結ぶと、なるべく息をしないようにして一気に蓋
を開けた。
幸い、ケースの中身は開けた途端に噛み付いてきたり、全身に気持ち悪い吹き出物を作ら
せるようなものではなかった。上質のカスタードクリームのようなそれに、見た目だけで安心は
できないと警戒しながらも、つい最近使った跡があるのを見つけて慎重に指を浸す。塗り薬だ
ろうという予想はついた。
しばらく逡巡した後、ローブの袖をまくってマルフォイの手首を引っ張り出し、ライトの明かり
の下に晒す。そこにはまぎれもなく、昨夜見たのと同じ傷痕が残されていた。
とろりとした薬をつけたハリーの指先が、紅い痕をなぞってゆく。まるで何かに縛られた痕の
ような、それを。
薬の効果は一目瞭然で、反対側の手首に同じようにして薬を塗りこんでいる間にも、あれほ
ど鮮やかだった傷痕は見る見る内に消えていってしまった。昨日もマルフォイはこうやって傷を
消したんだろうか。
薬缶の蓋を閉めようと身体をひねった時に、乱れた襟元から続く首筋に紅い痕を見つけ、ハ
リーの顔が強張った。
経験はなくとも、それが何なのか、どうやってできるものかということは知っていた。そしてハ
リーにはその時、『分かった』。
シャツのボタンに手をかけるのを、ほとんどためらいはしなかった。
黒いシルクに覆われていたマルフォイの上半身があらわになっていくのを、ハリーは自分が
そうさせているという自覚をしないまま眺めていた。
隠すものを奪われた白い肌には、無数の鬱血の痕と引っかいたような蚯蚓腫れが鮮烈に刻
まれている。爪痕と思しきものもいくつもあった。マルフォイのものではない、もっと大きな。
中でもとりわけ酷い、じくじくと鮮血が滲んでいる傷にハリーはそっと指を這わせた。
クリーム状の薬が赤い血と混ざり合いながら、肌に吸い込まれていく。
と、マルフォイが身じろぎした。
「い……や…止めて……もう―――」
弱々しく身を捩り、薄く開いた唇から熱い吐息と共に許しを請う。
閉じたの眦から一筋の涙が溢れ出したかと思うと、止めどもなく滴り、頬を濡らしていく。
その有様は可哀相で、儚げで、それでいて息を呑むほどに――――扇情的だった。

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