シュル、と衣擦れの音を立ててハンカチが解けていく。
「何やってんのさ、ハリー?」
 半熟卵を口に運ぶ手を止めて、ロンが目をぱちくりさせた。
 自分で自分の手首にハンカチを巻きつけて解くという行為は、たしかに驚かれても仕方のな
いことで。
「ちょっと、ね」
 そうきつく巻いたわけではない布の痕は手首にうっすら浮いているだけだ。
 しかし手首を一巡するその痕の残り方は―――ハリーはスリザリンのテーブルの方に首をひ
ねった。授業がなく、ホグズミードにいくでもない休日の食事時間は、多少緩やかに設定されて
いる。
 決められた時間内に食べに来ればいいのだから、なにも今、マルフォイがテーブルについて
いないというのはおかしな事でもなかったが………昨夜からずっとこんな調子で、気付けばマ
ルフォイのことばかり考えている。おかげでハリーが寝室に帰ってからも、なかなか眠りは訪れ
なかった。
 しかしいくら気にかかることがあろうとも、それで眠気が解消されるはずもない。こみ上げてき
た欠伸をかみ殺し、再びオートミールにとりかかったハリーへ、ハーマイオニーが冷ややかに
言った。
「ハリー。あなた、また夜更かししてたわね」
 そのままじろりと視線をずらされたので、ロンがむきになって否定する。
「僕はやってないぞ!」
「あら珍しい。それじゃハリー一人で真夜中の冒険にくりだしたってわけね」
 語るに落ちるとはこのことだろう。ハリーのため息でロンは自分の失敗にようやく気付いたよ
うだが、もちろん手遅れだ。
「べつに冒険てわけじゃないさ。ただ昨夜はちょっと遅くまで部屋でチェスしてたんだ―――トー
マスと」
 ハーマイオニーは疑わしげな目つきをしたが、それ以上追求してはこなかった。ロンは黙って
トーストにかじりついている。ハーマイオニーと目を合わせたら、速攻でばれると分かっている
らしい。
「忘れてないでしょうね、ハリー。今、少しでも規則破りをしたら普段の何倍もの罰則が……」
「僕は罰則なんて怖くない」
 淡々と言ったつもりだったが、語気が多少荒くなってしまった。ハーマイオニーがもどかしげ
に首を振った。
「あなただけのことじゃないのよ。あなたが万一、退学にでもなったら私たちだって―――」
「やめろよ、朝から。縁起でもない」
 ぶすっとした声でロンが遮った。ちょうど食べ終えた下級生たちが立ち上がり、近くを通り過
ぎていくところだったので話はそこで途切れた。
 ぺちゃくちゃと賑やかにしゃべり、互いにわざとぶつかり合いながら歩いていく背の低い集団
は、大広間の入り口で彼らとは大分身長差のある一群とすれ違った。
 視界の端を掠めたきらめきにハリーがはっとして目を上げると、そこには確かに淡いプラチ
ナブロンドが得意気に揺らめいている。
 途端に昨夜の出来事がまざまざと思い起こされ、ハリーは手にしたスプーンを知らないうちに
硬く握り締めていた。
 マルフォイは一見いつもと変わらない様子だったが、顔色がほとんど血の気のないほど青白
くなっていて、それは遠目にもはっきりと分かる。
 食事を中断し、息さえ詰めて彼を見つめているシチェーションの不自然は承知で、それでも
ハリーはマルフォイから目を離せずにいた。
 マルフォイが目元にかかった前髪を払おうとしてか、軽く腕を持ち上げた。その瞬間、袖口が
ずれてほっそりとした手首が晒される。ハリーは自分の心臓がドクンと音を立てるのを感じた。
あの、赤いあざが脳裏を過ぎる。けれど。


(…そんな……)


 その肌は陽の光が差し込む大広間の下、夜目に見るよりさらに白く―――しかし傷一つな
い。
 すべらかな大理石か蝋細工のようなそれは、血が通っているものだとは到底思えなかった。





「なにか隠してるわね」
 一般的に女の方が嘘をつくのも見破るのも上手いというが、いたずら関係のそれを見破るハ
ーマイオニーにはもはや動物的嗅覚が備わっていると言えるかもしれない。ロンが提出用の羊
皮紙からハーマイオニーへ、そしてハリーへと視線を移動させた。
「まあね」
 否定したところで仕方がない。さっきから談話室の片隅で、十分おきくらいの間隔で忍びの地
図を取り出し、しばらく眺めてからまたポケットにしまう、という行為を繰り返していたのだ。
 積み上げられた宿題の山は夕食後から一つも減っていない。ハーマイオニーがお説教を始
めないほうが不思議だ。
「夜の散歩に出かける機会を狙っているのなら……」
「『変身術のレポートの代わりに、マクゴナガル先生に地図を提出してもらいます!』だろ? 言
っとくけどハーマイオニー、君がそれをやったら二度とDAの会合を開けなくなって、OWL の『闇
の魔術に対する防衛術』で悲惨な成績を取るしかなくなるんだぜ。早まるなよ」
 ロンに茶化されたハーマイオニーはムッとして横を向いてしまった。これで変身術のレポート
は自力でやらざるを得なくなったが、ハーマイオニーにやかましく介入されずに済んだのは助
かった。
 再び地図を取り出したハリーに、ロンが何か言いたげに口を開きかけたが、目の前でハーマ
イオニーがむくれながらもまだこちらを窺っていたので、諦めてレポートに戻った。
 二人に悪いという思いも多少あったが、説明を始めれば昨夜のことに触れないわけにはい
かなくなる。もっとも、話してしまったところでハリー自身に都合が悪いわけではない。ハーマイ
オニーは消灯破りを咎めるかもしれないが……しかし暗い廊下に蹲り、震えていたマルフォイ
の姿を思い出すたび、しゃべろうという気が削がれていく。
 あのマルフォイの様子をどうやって表現できるというのだろう。
 辛そうだった、とか悲しそうだった、とかそれだけではなくて。
 白い肌も、淡くきらめくプラチナブロンドも、細い指や首筋も――――手首に残されたあざさ
え、どこか繊細で儚げで。
 まるで夢のようだった。


(本当に夢だったのかも)

 形だけ羽ペンを取り上げながら、ぼんやりとハリーは考えた。
(今朝見たときは確かに……無かったよなあ)
 あれほどくっきりと付けられていた手首のあざが、たった一晩で綺麗に消えてしまうものなの
だろうか。しかもあんな風に残る傷の意味は一つしか思い浮かばない。
 忍びの地図をしまったのと反対側のポケットから、くしゃくしゃに突っ込んであったハンカチを
取り出して、手首に巻きつけた。そのままキリキリと引き絞っていけば、鬱血の赤い痕が刻ま
れるだろう。昨夜のマルフォイのように。
「そういえばさっき、マルフォイがいなかったのに気付いた?」
 ハリーの不可解な行動に、いちいち面白くないという顔をして見せていたハーマイオニーが分
厚い本を閉じて尋ねた。
「さっきって夕食のとき?」
「ええ。私たちと時間が違うだけかと思ったけれど、彼の『お友達』やパーキンソンはいつもどお
りの時間に来て食べていたもの。きっとマルフォイだけ別に食事をしているんだわ」
「へー、よく見てるよな。僕は食欲がなくなるからスリザリンのテーブルはなるべく見ないように
してるんだよ。ハリーは気が付いてた?」
 羽ペンをインク壺に挿し、一呼吸置いてからハリーは答えた。

「いや、僕も気付かなかった。というか気にしてなかった」

 ハーマイオニーの蜂蜜色の目を真っ直ぐ見つめたまま、嘘をつく。ロンよりは嘘が上手いつ
もりだ。
 特に不審に思ったようでもなく、ハーマイオニーはちょっと肩をすくめると新しい本のページを
めくり始めた。ハリーは彼女に気付かれない程度に、小さく息をついた。
 ハンカチをポケットに戻し、代わりに地図を取り出して性懲りも無く覗き込む。
 地図の上に『ない』ことを何度と無く確認したマルフォイの点は、やはり見つからなかった。
 いつからいないのか分からないが、少なくとも夕食の後からはずっと。


 マルフォイはホグワーツにいない。


 ハリーは地図をそっと閉じた。