ハーマイオニーの奮闘も虚しく、ハグリットの授業は過去最悪を更新する出来ばえだった。
 でも原因はハグリットにあるわけではない。アンブリッジと一部のスリザリン生―――マルフォ
イとその取り巻きどものせいだ。
 視察の結果を考えるとハリーは気が重くて夕食もあまり進まなかったが、ハーマイオニーは
逆に食べて怒りを収める方法に出たようだった。
 これでもかと盛られたマッシュポテトを綺麗に平らげ、デザートのフルーツケーキに至っては
一人でホール半分を制覇する勢いだ。周りの生徒は揃って呆れ顔だが、賢明にも余計なこと
を言うのは控えている。なにしろ飼育学のあとのハーマイオニーときたら怒りで髪の毛が普段
以上に逆立つのでは、と本気で心配になってくる荒みようだったのだ。
「本当に最低だよな。マルフォイって」
 こちらも授業が終わった直後は相当頭にきていた様子だったのに、ハーマイオニーの食欲に
度肝を抜かれて怒りが一時沈静化したらしいロンが、僅かに残されたケーキを確保しつつ言っ
た。
「森から戻るとき僕に言ったこと覚えてるだろ?」
 言いながらそばかすだらけの頬が少し赤くなる。
 ハリーは黙って頷き、皿の上の温野菜を端に寄せた。ダドリーは茹でたニンジンやブロッコリ
ーの類が大嫌いで、プリペット通りのあの家でハリーはそれをよく代わりに食べさせられてい
た。いまでも夏休みに帰るたびダドリーが食べ残した野菜を始末する役目を強いられている。
そのせいか身体に良いのは分かっていてもホグワーツではつい野菜を避けてしまう。
 マルフォイは―――セストラルが見えるようになればクアッフルも見えるようになるんじゃない
か、なんてロンをからかうためだけに人の死さえ平然と持ち出してみせる彼は、大切な人の死
を身近に感じたこともなければ、もちろん誰かの残飯で飢えをしのぐというような屈辱的な経験
もしたことないのだろう。
 恵まれて育ったと言えば聞こえはいいがそれを免罪符に誰もが自分を許し、慈しんでくれると
思ったら大間違いだ。
 マルフォイを殴ったことを少しでも後悔した自分にハリーは腹を立てていた。後悔するならも
っと痛めつけてやらなかったことこそ後悔すべきだった。

「本当に酷い、不平等で偏見に満ちた、腐りきった女よ」
 かなり大きなケーキの一切れをほとんど丸呑みにしてハーマイオニーがアンブリッジに対す
る評価を与えた。
「それにマルフォイって信じられないくらい低脳ね。あの女にしっぽを振っていい気になってるみ
たいだけど、見てらっしゃい。今にそのしっぽを掴んでやるから」
 その時、一羽のフクロウが大広間の天井を低く横切っていった。朝の一斉配達の時間以外
にもフクロウたちが手紙や小包を抱えて大広間を行き来するのは珍しいことでもない。
 しかしそのフクロウは―――

「噂をすれば。マルフォイだぜ」

 ロンがつまらなさそうに言った。毎日といっていいほどお菓子や手紙を運んでくる一際大きい
フクロウは、一直線にスリザリンのテーブルへ向かっていく。
 一羽だけ飛び込んできたフクロウに広間中の視線が集まったのは一瞬のことで皆すぐに食
事やおしゃべりに戻っていったが、ハリーはなんとなくその動きを目で追っていた。
 足に結わえた手紙を外してもらいマルフォイに頭を撫ぜられるとそれが合図のようにフクロウ
は飛び去っていく。
 受け取った小さな白い封筒を手に取り表を返すと、マルフォイの眉が僅かに寄せられた。そ
して封筒はそのままローブの内ポケットにしまい込まれる。
(見せびらかしたくなるような内容じゃないってわけだ)
 珍しく小言でも書かれてくる心当たりがあったのだろうか。たったそれだけのことで少し気分
が持ち直した。

「マルフォイが本当にしっぽを振っているのは魔法省かもね」
 ハーマイオニーのひそめた声に、ハリーは視線を戻した。
「どうせ今日の授業みたいにマルフォイはあることないことアンブリッジに報告しているに違い 
ないわ。それをアンブリッジが魔法省に報告して魔法省はますますホグワーツを締め付けて…
…結局のところスリザリンの連中にとってだけ居心地の良い学校を作ろうとしているんだから」
「冗談じゃないよ」
 ロンが呻く。
「それに魔法省の内部にも『あちら側』の人間はいるわけでしょう? マルフォイの父親だって
魔法省に対してそれなりの発言力を持っているみたいだし、そんなやつらにホグワーツの運営
を手伝わせてみなさいよ。ホグワーツ・デスイーター・養成学校がめでたくグランドオープンだ
わ」
 自分で言っておいてぞっとしたのか、ハーマイオニーはぶるりと肩を震わせた。
 カボチャジュースをコップに注ぎ足しながら肩越しにマルフォイを盗み見ようとすると、彼はち
ょうど席を立つところだった。大広間の出口へ向かう横顔はハリーの位置からは影になってい
て、表情を読み取ることはできない。

「しっぽを掴む、か」

呟きは低すぎて誰にも届かなかった。






 寮に戻るとハリーは忍びの地図を取り出した。なにやってるのさ、と覗き込んでくるロンには
曖昧な返事だけ返しておいてアンブリッジの部屋をチェックする。点は一つだけ、アンブリッジ
のものだった。マルフォイはいつも通り取り巻きどもに囲まれてスリザリンの談話室にいる。
 土曜日の夜、アンブリッジの部屋にマルフォイがいたことにハリーは疑惑を抱いていた。ホグ
ワーツの乗っ取り……はオーバーかもしれないが、いずれにせよ良からぬ相談事でもしていた
のかもしれない。アンブリッジにはマルフォイの消灯破りを容認、もしかしたら強要する程の何
か、他の生徒や教師達には知られたくない隠し事があるとしか思えなかった。
 もしまたマルフォイが不自然な時間にアンブリッジの部屋を訪ねているようだったら、後をつ
けて様子を窺ってやろうと思った。ハーマイオニーの言っていた『しっぽを掴む』というやつだ。
けれどロンやハーマイオニーには何も言わないでおいた。上手くいく確信があるわけではなか
ったし、二人に教えるのは実際にしっぽを掴んでからでも遅くはないと思ったからだ。



 マルフォイが動いたのは金曜の夜だった。
 便利な地図を使っての見張りも夜の間中ずっと目を離さないわけにはいかないし、さすがに
三日を過ぎて何の動きもないと飽きてくる。大した期待もせず、暇つぶしくらいの気持ちで地図
を広げたハリーは、マルフォイがスリザリン寮の『外』にいるのを発見して心臓が跳び上がるの
を感じた。しかも階段を上っている。
 サイドテーブルの時計に目をやると消灯時間まであと五分というところだ。微妙な時間ではあ
るけれど、せっかくの機会を見過ごす手はない。
 ハリーは部屋の片隅で騒がしくカードゲームに興じるシェーマスたちを見やった。透明マント
もあるしこっそり抜け出すことは可能だろう。できればロンと一緒に行きたかったがあいにく監
督生の彼はハーマイオニーと消灯の点呼中だ。
 そこまで考えてマルフォイも監督生だったことを思い出す。この時間はどこの寮でも監督生が
下級生の部屋を回って点呼をしているはずなのに、マルフォイはその仕事もサボってどこへ行
こうというのだろう。
 ハリーは決心してベッドのカーテンを閉め、毛布の下に枕を押し込んでちょっと見た感じでは
頭から毛布をかぶって寝ているかのように細工した。そして透明マントを着込んでこっそり寝室
を抜け出す。ドアを閉める直前、ディーンが「あれ、ドアが…」と言ったのが聞こえたが振り返ら
なかった。
 仮にハリーがいなくなったのがばれても、あの三人にはロンが適当にごまかしておいてくれる
だろう。そういう意味ではロンが一緒でなかったのはかえって好都合だったかもしれない。
 まばらに上級生がいるだけの談話室を足音を忍ばせて通り抜け廊下に出たら、あとは全速
力で階段を駆け下りた。マルフォイが四階のアンブリッジの部屋に向かっているのだとしたらか
なり急がないと先回りできない。ただ向こうは上りだがこちらは下りだ。
 息を切らしてアンブリッジの部屋近くまで辿り着くと、はたして廊下の反対側の角からマルフォ
イが姿を現すところだった。
 ハリーは息を整えながら音を立てないようにマントの中でジーンズのポケットを探った。なか
なか目的の物が指に触れず、忘れてきたかと焦りだしたところでそれをパーカーの方に移動さ
せていたことを思い出す。
 無事に『伸び耳』を取り出したハリーはアンブリッジの部屋のドアから少し離れた壁のくぼみ
に身を寄せ、それを使うチャンスを待った。
 マルフォイは予想に違わずアンブリッジの部屋の前まで来ると、羽織っていた普段用のロー
ブをゆっくりと脱いだ。驚いたことにローブの下はスタンドカラーのシャツに濃紺のスーツという
いでたちだ。今からどこかに出かけようとでもいうのだろうか。
 スーツの襟元を正し、ローブを綺麗にたたんで左腕に抱えるとマルフォイは深く息を吸い込ん
でからドアをノックした。
 すぐに、お入りなさいという甘ったるい声が返ってきて、ハリーはマントの中で舌を出した。マ
ルフォイがドアを開けるとオレンジ色の室内の明かりがサッと廊下に溢れ出し、彼のどこか強
張った面持ちを照らした。しかしその硬い表情が作り物のように整った額から顎、細い首に至
る横顔のシルエットを一層強調している。
 一瞬その横顔に目を奪われかけたが、すぐにマルフォイは室内に姿を消し、ドアが閉められ
ると同時にオレンジ色の明かりも途絶え、冷え冷えとした石畳の廊下に立ち込める闇だけが残
された。ハリーは辺りを窺いながらそっと伸び耳の先端をドアに向かって投げつけた。伸び耳
は邪魔よけ呪文を施していないドアの隙間からするすると室内に忍び込む。


『夜遅くに申し訳ありません、アンブリッジ先生』

『まぁまぁ、わたくしはちっとも構いませんよ。素晴らしいお父様のお仕事を手伝う優秀な生徒さ
んを助けて差し上げられるのが嬉しいくらい』


 アンブリッジのあのニターっとした笑みを連想させる声に鳥肌が立ちそうだったが、それより
もいきなり飛び出した重要な情報にハリーは伸び耳を痛いくらい自分の耳へ押し当てた。


『もしもいつかのように帰りが遅くなるようでしたら、わたくしは先に休んでいますからね。このド
アはあなたが部屋を出たら自然と鍵がかかるようにしておきますから、どうぞ時間は気にせず
ゆっくりしてらっしゃいな』


 明日は休日だから少々のお寝坊はスネイプ先生も大目に見てくださるでしょう、とアンブリッ
ジは続けた。


『なにしろあのルシウスの代役で出席するパーティーですものね。たった十五歳で! 立派なこ
とですよ、ミスター・マルフォイ。魔法省のみなさんがいらしていたら、どうぞよろしくお伝えして
おいてくださいね』


 マルフォイが愛想良く、はいと答えて部屋の中を歩く音がした。伸び耳をしっかり耳に差し込
み、空いた手で杖を振って明かりを得るとハリーは忍びの地図を広げなおした。マルフォイの
点がアンブリッジの部屋の隅へ移動している。アンブリッジがいるのはハリーが罰則のとき座
らされたテーブルのあたりだ。とするとマルフォイのいる場所は―――ポン、と弾けるような音
が伸び耳を通して聞こえたのと、マルフォイが立っていたのは暖炉の前だったんだ、と気付い
たのはほぼ同時だった。忍びの地図の上から、マルフォイを示す点は消えていた。
 伸び耳からは続いてアンブリッジがスリッパをぱたぱたひきずる音、引き出しを開けて紙をガ
サゴソさせる音、インク瓶の蓋を開ける音などが聞こえてきたが、『半獣……残忍かつ非常に
危険で………教師としての素質、ゼロ』と呟く声がしたところでドアから外した。

 とりあえず収穫は全くないわけではなかった。アンブリッジが「いつかのように」と言っていたこ
とからしてもマルフォイが夜、ホグワーツを抜け出しているのは一度や二度ではないらしい。ル
シウス・マルフォイの代理でパーティーに出席するとか言っていたが、その集まりがデスイータ
ーの集会でないという保証はない。そんなこと、アンブリッジは想像もしないだろうが。
 これがマルフォイのしっぽになるかどうかまでは分からないが、もしアンブリッジと共謀して更
に不穏な動きをするようだったらマクゴナガルやダンブルドアに告げ口……いや、相談する材
料にはなるだろう。
 ひとまず寮に帰ろうと思って地図を見ると、なんと折り悪くピーブズがグリフィンドール塔に続く
唯一の階段を陣取っている。おまけによほどの馬鹿騒ぎをしているのか、フィルチまでがすご
い速さでそちらに向かっている。これではしばらく帰れそうもない。
 ハリーは透明マントをかぶりなおして床に腰を下ろした。少し時間を置いてから帰ることにし
よう。床も寄りかかった壁も冷え切った石で寒くなったが、壁のくぼみは背を預けるのにちょう
どいい具合だ。
 反対側の壁に四角く切り取られた窓からは満月に近い月の光が差し込んでいた。銀色の澄
んだ光は冷たそうだったけれど、その光に包まれていると荒れた気持ちが少しずつ癒されてい
くのが自分でも分かる。ハリーはそのままそっと目を閉じた。
 眠ってはいけない、こんなところで。もちろん眠るわけではない。

 ただ、少しだけ―――――

 意識が沈む直前、マルフォイの横顔が見えた気がした。







 きしむような物音でハリーは目を覚ました。目を覚ます―――いつの間にかすっかり眠り込
んでいたらしい。それもかなり不自然な格好で。寝違えたような痛みを感じる身体を伸ばそうと
首をひねった途端、すぐ傍らに人が立っていることに気づきハリーはぎくりと動きを止めた。
(…マルフォイ……?)
 一気に自分が今、どういう状況にいるかを思い出す。マルフォイがアンブリッジの部屋へ入っ
ていくのを見届けてから、どれほどの時間がたったのだろうか。
 ほのかな月明かりのみに照らされた暗闇の中でも、それがマルフォイだと分かったのは柔ら
かにきらめくプラチナブロンドのせいだ。
 アンブリッジの部屋のドアを静かに閉めたマルフォイはハリーに背を向けて歩き出す。けれど
その歩調は不自然に遅く、足元も覚束ないようだった。酒でも飲んで相当に酔っているのだろ
うか、と首をかしげていると唐突にマルフォイが膝を崩した。
 思わず立ち上がってしまってからハッとして、ハリーは自分の身体が透明マントによってしっ
かり隠されていることを確認する。そして今度は慎重に、靴音を立てないようにしてゆっくりマル
フォイに近づいた。
 冷たい石畳の廊下にぺたりと膝を付いて蹲るようにしているマルフォイの身体からは、かなり
近くに身を寄せてみてもアルコールの匂いは感じられない。
 俯いた顔の表情は窺い知ることが出来なかったが、頬にかかる柔らかな金糸が小刻みに震
えているのが分かる。具合が悪いのだとすればいくらマルフォイとはいえこのまま放っておくわ
けにもいかないだろうが、夜中の校内をうろついていた理由をマダム・ポンフリーになんと説明
すればいいのか。
 迷うハリーの前で、マルフォイは自分の身体を抱きこむようにして細い指をローブに食い込ま
せた。そんなにきつく爪を立てたら、生地が裂けてしまうんじゃないかというほど。
 細い手だな……真っ白で、華奢な作りをしている。ローブとジャケットの袖口から覗く肌に無
意識の内に目を奪われていたハリーは、指から手首の方へ視線をずらし、そこに見つけた意
外なものに眉を寄せた。
 マルフォイの手首にはぐるりと囲むように、紅いあざが残っていた。それもまるで付けられた
直後のように、鮮やかに。
 よく見ようとハリーが身をかがめた瞬間、マルフォイが伏せていた顔をあげた。
 長い睫に縁取られた色の薄い瞳が真っ赤に充血している。ハリーはとっさに、彼が泣いたの
ではないかと思った。
 マルフォイがふらつきながら立ち上がった。まだ危なげに、それでも壁に手を付くことで身体
を支えながら歩を進める。
 月の光が白い頬の上に幾筋かの涙の跡を見つけさせ、ハリーはマルフォイが泣いたのでは
ないかと思ったことが間違いではなかったのだと知った。





『なんで?』





なんで寮を抜け出した?

なんで泣いている?


なんでそんなに―――辛そうなんだ……?



浮かぶ疑問のどれをも口にすることのできないまま。
ハリーは徐々に遠ざかり、月明かりの差し込まない暗がりへ溶け込んでいくマルフォイの背中
を見つめていた。