吹き抜けの天井を一直線に貫くようにして置かれたツリーを見上げ、ハリーはぐったりとソフ
ァへと腰を下ろした。着飾った大人たちで込み合ったホテルのロビーで、大分よれたセーター
にジーンズという格好のハリーは、自分が先ほどから一度ならず批判的な視線をぶつけられて
いる事実に気付いてはいた。しかしそんなことよりも気がかりなのはマルフォイで―――今、ど
こにいるのだろう?
ハーマイオニーに後押しされるようにして病院を飛び出し、必死になって走った。イブの人ご
みを掻き分けて、マルフォイが入っていったホテルに向かって。だが、辿り着いたところでマル
フォイがどの部屋にいるかなんて、分かるはずもなかった。そもそもチラリと見えたに過ぎない
白金が、本当にマルフォイだったのかさえ定かではない。
それでも引き下がる気には到底なれず、無茶を承知で客室の廊下を全て駆け回った。リネン
を抱えたメイドたちが目を丸くしているのも構わず、何度も、何度も―――そうしている内にど
こかのドアが開いて、綺麗にタイを結び、髪を整えたマルフォイが当たり前のように出てくるん
じゃないか、とでもいうように。気取った声で蔑みを隠そうともせず彼は言うだろう、「なにを騒
いでいるんだ、ポッター」と。
たまにはクリスマスをマグル風に過ごしてみようと、両親とここに滞在しているんだ。それなの
にお前ときたら、だらしない格好でドタバタと……これだからまともな家族のいないやつは……
ハリーが怒って背を向けるのを、マルフォイがせせら笑う。そんな風なら、どれほど良いだろ
う。
しかし現実にマルフォイを見つけることは叶わず、さすがに息の上がってきたハリーは再び
戻ってきたロビーで、呼吸を整えながらクリスマスツリーを眺めていた。
ツリーの天辺で、作り物の星が煌いている。枝にぶら下げられた何百もの飾りは、キラキラし
たボールやお菓子みたいな人形に玩具。それらを指差し、見上げる人々の顔つきはどれも明
るい。一年に一度だけ、誰もが幸せな気持ちを共有できる聖なる日を、心から楽しんでいる。
「……マグルの……」
ロビーのざわめきの中、そこだけ切り取られたようにはっきりと耳に届いた単語に、ハリーは
ソファーの背に預けていた上体を、勢いよく戻した。
ハリーの知る限り、普通のマグルが『マグルの』なんて言い方をすることは決してない。
それを使うのは自分たちと同じ側の、魔法を使う者だけだ。
「息子さんのプレゼントですか」
「いや、娘の方でね。女の子なのにマグルの電化製品なんぞに夢中で、家内が心配している
よ」
特に声を潜めるでもなく、ごく自然に会話を交わす中年男性の二人組を、ハリーは気付かれ
ないようにそっと、ソファーの陰から見つめた。着ている背広はやや流行遅れで、体にぴったり
合っているとは言い難く思えたが、取り立ててマグルと違って見えるところはない。
「我が家のプリンセスのご所望とあらば仕方がないさ。私は買い物を済ませてから『漏れ鍋』へ
戻るよ。君はどうする?」
娘がマグルの電化製品に夢中だと嘆いた方の男が肩をすくめてそう言うと、もう一人の、彼
より少し若い男は、ダイアゴン横丁に注文しておいたプレゼントを受け取ってから帰ると答え
た。
「それじゃ『漏れ鍋』で落ち合うことにしようか。お互いに帰りが一人だと怪しまれるかもしれな
いからな」
歯を剥き出しにした笑い顔には品性の欠片もなく、ハリーは胃がムカムカしてくるのを感じ
た。男たちはチェックアウトを済ませるつもりなのか、フロントカウンターへ向かっていく。ハリー
は絨毯を踏みしめ、そっと彼らに近づいた。マグルのホテルに用があったのは単なる偶然なの
か、それとも―――。
「大丈夫なんでしょうかね、『彼』は」
若い男の方が、大して興味もなさそうに言った。
「あの程度で気を失われたんじゃ割りに合いませんけどね。まさかマグルに見つかるなんてこ
とは…」
「部屋は明日の朝まで使えることになっているから、いくらなんでもそれまでには目を覚ますだ
ろう」
支払いさえ先に済ませておけば、ホテルの人間が勝手に部屋に入ることはない、と言いなが
ら男は背広のポケットから鍵を取り出す。ハリーは鍵の柄の部分に刻まれたルームナンバー
を、目を細めて必死で読み取ろうとした。5・1…3……いや、8だ。
「今日のは大して強い薬ではなかったから、シャワーでも浴びればすっかり元通りになるだろう
さ」
そこまで聞けばもう十分だった。ハリーは彼らの顔面を思い切り殴りつけたい衝動をぐっと押
し堪え、男たちに背を向けた。
絶望的な心のどこかにそれでもまだ、希望を抱いてハリーは大理石のプレートに518と刻印さ
れた扉の前に立っていた。ドア、と呼ぶには重厚すぎる雰囲気が、ハリーを圧倒する。まるでマ
ルフォイを取り巻く世界や―――大人たちのように。
深く息を吸い込んでから、そっと扉を押す。古い建物の内装だけ手を加えてそのまま使って
いるホテルでは、いまだに客室がオートロック化されていないところもあるというが、ここはまさ
しくそんなホテルの一つなのだろう。
室内に、人の気配はなかった。
詰めていた息を吐き出し、歩を進める。
手前のドアを引くと、そこにはジャガー織のソファーやオーク材の家具がセンス良く配置され
ていた。不安に脈打つ胸を押さえ、ハリーは部屋を見回す。早くも傾き始めた陽が、レースの
カーテンを薄らと染め上げていた。部屋は掃除が行き届いていて、六角形の室内灯が付きっ
ぱなしになっている他、誰かがいたという痕跡すらないように思える。
ホッとしながらも、ハリーは奥のドアが細く開いているのに気付いていた。
大丈夫だと自分に言い聞かせても、本能の警鐘が鳴り響くのを止められないまま部屋を横
切り、思い切ってノブを引く。
暗い部屋に光が差し込み、ベッドの上の少女を照らした。
少女は真っ白なシーツに豊かな金糸を波打たせ横たわっていた。人形のように長い睫毛が、
美しい半円を描く瞼を縁取っている。いたいけな姿と裏腹に、薄く開いた唇は艶めかしいほど、
真っ赤に塗りたくられていたが、それがかえって少女の幼い容貌を引き立たせてる感じがし
た。瑞々しい乳白色の肌を包むのは、本の挿絵でしか見たことのない古めかしい形をした、黒
いビスチェとパニエだった。
「…マルフォイ……?」
喉が痙攣して、上手く言葉を発することができなかった。
まるで等身大のアンティーク・ドールのように、生きた証を何ひとつ見出せない少女の顔は確
かに―――ドラコ・マルフォイのものだった。
「マルフォイッ…!」
吼えるように彼の名を呼ぶとベッドに飛び乗り、肩を掴んで揺さぶった。ビスチェの紐が解
け、膨らみの無い胸が剥き出しになる。しかしマルフォイが瞳を開けることはなかった。
呼吸すらしていると感じられない彼の様子に、考えたくもない、恐ろしい疑念が浮かぶ。
戦慄きながら薄い彼の胸元へ、祈る思いで耳を押し当てた。
トクン、とマルフォイの心臓が脈打つ音を捉えるまでの間が、どれほど長く感じられただろう。
ゆっくり息を吐き出し、彼の背に回した腕から力が抜けていく。知らないうちにマルフォイを抱
き締めるようにしていたのだと、その時になって気が付いた。
ふわりと頬をくすぐる感触があったが、それは長く伸びたブロンドの巻き毛のものだった。か
らかわれているような腹立たしさを覚えながらも、ハリーはそれに触れたい、という欲求に抗う
ことはできなかった。
夢のように淡い色の、朧ろげな一房へと指を伸ばす。
ハリーが指を金糸に絡めた途端、柔らかな手触りは消えた。
ふわふわと煙るように漂っていた髪の毛は、触れられたのが合図であったかのように、見る
見る内に短くなっていった。驚くハリーの前で、マルフォイのプラチナブロンドは見慣れた長さに
まで戻る。
一瞬その様子に目を奪われていたハリーだったが、小さな呻き声に我に返った。
「大丈夫か、マルフォイ」
軽く頬を叩き、マルフォイに覚醒を促す。揃った長い睫毛が震えて、ゆっくりとブルーグレーの
瞳が姿を現した。瞬きを繰り返し、やがて薄暗い部屋の中でもハリーのシルエットを認識でき
たらしい。マルフォイは小さなため息と共に、掠れた声で言った。
「……なん…で……いるんだ…」
告げられた言葉は、それはないだろうと言いたくなるようなものだったが、ハリーはとりあえず
マルフォイの声を聞けたことで、おかしいくらいにホッとしていた。
「起きられるか?」
マルフォイは気だるげに頷いたが、意思とは裏腹に身体はハリーが支えていなかったら、今
にもベッドへ沈んでしまいそうだった。薬が回っているのだろうか、意識はほとんど保てていな
い様子だ。水色の瞳は再び閉ざされてしまい、ハリーは焦った。
薬を抜くには―――この前はたしか、ドビーが気付け薬みたいなのを持ってきてくれたけれ
ど―――ふと先ほどロビーで、男の一人が「シャワーでも浴びれば……」と言っていたのが思
い出された。
「マルフォイ、起きろ。バスルームはどっちだ?」
耳元で大声を出してやると、マルフォイはうるさそうに眉を顰めた。
「…起きてる…」
「起きろ!」
放っておけばそのまま、意識を手放してしまいそうなマルフォイを叱咤して、乱れたベッドから
引きずり下ろす。
自分の肩につかまらせてバスルームまで連れて行こうとしたが、それすら容易ではなかっ
た。寝室を抜け出すところまではなんとか引っ張っていけたが、逆に疲れるので、いっそ抱えあ
げてしまうことにした。
嫌がるだろうな、とか結構重いんだろうなとか考えていたが、マルフォイは半分意識を飛ばし
ていたおかげで反発もせず、意外とスムーズにバスルームまで運ぶことができた。
しかしハリーが驚いたのは、マルフォイの軽さだった。幾重にもレースを縫いつけたパニエと
ビスチェを纏っているにも関わらず、質量をほとんど感じさせない。クラシックな猫足のバスタブ
にマルフォイを横たえてから、ハリーは明るい照明の下でつい、彼の身体をしげしげと眺めてし
まった。
もともと線が細い方だと思ってはいたが、脱げかかったビスチェの隙間から覗く胸元は、肋骨
の形が分かるくらい肉付きが悪い。薄い肌は、下に通う血管が浮き出る白さだ。そこに残され
た無数の赤い痣から目を背け、ビスチェとパニエを取り去ってしまう。邪念はなく、ただシャワ
ーを浴びせるためにそうしているはずなのに、マルフォイの肌が露わになるにつれ、徐々にど
うしようもない胸苦しさを感じ始めてしまう。
やがて全ての衣類が取り払われ、マルフォイの身体が包み隠すことなく目の前に現れる。男
の身体だというのに、白い肌に覆われた彼のそれは吸い込まれるような魅力を放ちながら、ど
こか神聖な感じすらした。この華奢な身体を日毎夜毎、幾人もの男たちが賎しい欲望のままに
踏み荒らしていくのかと思うと、ハリーは怒りに似た思いが込み上げ、頭の芯が灼けるようだっ
た。
ノズルを取り上げると、湯の温度を調節して、そっとマルフォイの身体へかけてやる。あまり
に赤い唇の色が気に入らなくて、ハリーは指で紅を拭おうとした。僅かに覗いた白い歯がハリ
ーの親指に当たり、ただそれだけのことが妙にドキリとする。
「…ポッター…」
呼ばれて目を上げると、いつの間にかマルフォイが薄く瞳を開け、天井と立ち昇る湯気を、ぼ
んやりと見つめていた。
「気分は?」
良いわけがないだろう。それでも尋ねるとマルフォイは小さく首を振って、「大丈夫だ」と呟い
た。
「…もう平気だ。一人でできる」
やっと感覚が戻ってきたらしい手でハリーからノズルを受け取ると、マルフォイは弱々しい声
でそう言った。
まだ一人にしておくには危なっかしく感じられる動きだったが、情事の余韻が色濃く残る身体
を見られたくないのだろう、というのは理解できた。
「なにかあったら、呼んで」
バスルームを出る前にそう声をかけたが、返事はなかった。
マルフォイはバスタブの中に蹲って、壁の方を向いていた。
泣いているのかもしれないと思ったけれど、ハリーはそれ以上何も言えずに、バスルームの
ドアを閉めた。

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