バスルームの水音が止んだので、ハリーはソファから立ち上がった。
部屋のクローゼットに置かれていた、新しいバスローブを手にドアをノックする。
「開けるよ」
男同士でもその程度の気遣いは必要だろう、と声をかけてから開けると、マルフォイは髪か
ら滴をしたたらせ、途方に暮れた様子で振り向いた。変にタオルで身体を隠したりするから、か
えってドキッとさせられる。
「…ごめん」
恥ずかしげに目を伏せられて、つい謝ってしまう。視線をあらぬ方向へ彷徨わせたまま、マ
ルフォイの肩へバスローブをかけた。
「もう歩ける?」
手伝ってやりたくなるくらいたどたどしい手つきで、マルフォイがローブの紐を結び終えたとこ
ろでそう尋ねると、ムッとしたように眉根を寄せられる。さっきまで立つこともできなかったくせ
に、とマルフォイの気の強さに呆れながらも、普段の調子を取り戻しつつある彼に安心する思
いもあった。
「髪、乾かした方がいいな」
バスルームの向かいに置かれたドレッサーへマルフォイを座らせて、ハリーは滑らかなプラ
チナブロンドにドライヤーを当てはじめる。ドライヤーを不審げに眺めていたマルフォイは、突
然温風を吹き付けられて驚いたようだったが、自分で上手く操作できるとは思わなかったらし
く、大人しくされるがままになっていた。今は短く切りそろえた状態に戻った、細く艶やかな髪の
毛は、さらさらとハリーの荒れた手の上を滑っていく。
目を上げると、鏡の中でマルフォイと目が合った。なんとなく気まずくなって目をそらすと今度
は、はだけかかったローブの合わせから蹂躙の痕が散らばる肌が見え、ハリーはそのまま俯
いてしまう。
もっとちゃんと―――助けてやりたかった。
こんな風に、全てが終わってからではなく、マルフォイが傷付く前に。
それをしなかったのはたぶん、差し出した手を撥ね退けられるのが、怖かったからだ。
『忘れろ…僕に構うな』
マルフォイの声が、不意にリフレインした。
助けたいという思いと、それを拒否されたくない……拒否されるのが怖いという思いが、ハリ
ーの中でぶつかり合う。彼が自分の意思で選んだ行動を止める権利はない、なんていうのは
詭弁にすぎないのだと、気付いてしまった。ただマルフォイに、助けは要らないんだと言われる
のが怖くて、言い出せずにいたのだと。
ハリーの今の気持ちを素直に表す言葉があるとすれば、苦い後悔だけだった。どれだけ煙
たがられようとも、力ずくでも止めておけばよかった。傷付いたマルフォイの姿に、これほど打
ちのめされるくらいなら。
「……思うか…」
「ん? 何か言った?」
ドライヤーの音に掻き消され、中途半端にしか聞き取れなかった言葉を、いったん電源を切
って聞き返す。マルフォイはじっと鏡の中の自分を、その背後のハリーを見つめていた。
「僕が穢らわしいと思うか」
意外な言葉に瞠目し、何と答えればいいのか分からないでいるハリーへ、マルフォイは静か
に続けた。
「そう思われても仕方ない……僕は醜悪だ―――」
なぜマルフォイが自分が穢れていると言うのは想像がついた。男娼まがいの行為を働き、体
中に情欲の名残を刻んだ自身を嫌悪してのことだろう。けれど。
「…そんなこと…思ってない」
掠れそうになる声を操り、ハリーは精一杯、想いを伝えた。マルフォイの口元が皮肉っぽく歪
む。
「さすが…『英雄』だな」
ハリーの言葉をまるで信じていないかのように嘲笑うマルフォイの声は、しかし涙の音を含ん
で聞こえた。
不意にマルフォイは瞳を閉じ、そのままゆっくりと後ろへ体重を預けてきた。ハリーの胸元
に、乾ききっていないプラチナブロンドが広がる。
「マルフォイ…?」
戸惑って尋ねると、マルフォイは上目遣いに見上げてきた。水色の瞳が、零れるぎりぎりまで
潤んでいる。
「四年前の今日だ」
急に何を言い出すんだろうと思ったが、ややあってから考えが至り、ハリーの顔は強張った。
マルフォイは四年前の今日、初めて……蹂躙されたというのだ。四年前―――十一歳、ホグ
ワーツのまだ一年生だった頃の、クリスマスイブに。
「毎年クリスマスにはパーティーをするんだ。広間にツリーを…ホグワーツのなんかより、ずっと
綺麗な……パーティーには父上が大勢の友人をお招きして―――」
言葉が途切れ、マルフォイの唇が先を躊躇うかのように上下した。
「僕は自分の部屋で眠っていた―――夜中に息苦しくて目を覚ますと、『誰か』が僕に圧し掛か
って……」
その時のことを思い出してか、仰け反らせた細い首が微かに痙攣した。
「…なにもできなかった…逃げることも、抗うことも……僕は声すらあげられなかった…」
ゴトリ、と音を立ててドライヤーがハリーの手から落ちる。次の瞬間、ハリーは必死にマルフォ
イを抱き締めた。
「苦しい」
そう言われても、絡めた腕の力を緩めたりなんかしない。マルフォイも本気でハリーを振り払
おうとはしなかった。
ハリーの体温と、隠しようもなく高まっていく鼓動とを、背中に感じているはずのマルフォイ
は、不思議なくらい穏やかな貌をしている。それは紛れもなく、安らぎという名の感情により導
き出されるもので―――そんなマルフォイを見るのは初めてのはずなのに、何故か彼がそん
な表情をするのがすごく自然で、見慣れたものであるかのように思えた。
どれくらいそうして抱いていただろう。マルフォイが小さな声で、喉が渇いた、と呟いた。
痺れるくらい強く、彼の身体に回していた腕を解いて、床に転がったドライヤーを拾い上げ
る。手早く乾かし終えて、ハリーはマルフォイをソファの方へ連れて行った。マルフォイがシャワ
ーを浴びている間に見つけておいたティーセットで、紅茶の用意をする。
「おい、まだ早いだろ」
ちゃっちゃと掻き混ぜて、ティーバッグを引き上げようとするハリーに、マルフォイがしかめ面
をしてみせた。人にやらせておいて偉そうなのは、相変わらずだ。ハリーがカップを差し出す
と、「砂糖。二つ」との指示までされた。少し甘すぎるんじゃないかと思いながらも、ハリーは大
き目の角砂糖を二つ、所望通りに入れてやった。
「熱いから気をつけろよ」
湯気の立つカップへ恐る恐る口を近づけ、ふぅっと息を吹きかけて冷まそうとする仕草は小さ
い子供みたいで、なんだか可愛かった。
「…なんだよ」
知らず知らず口元を綻ばせていたハリーに気付き、マルフォイが睨みつけてくる。
「近いな、と思って」
「何が」
「僕らの距離」
きつく吊りあがっていた目元が丸くなり、マルフォイはたちまち真っ赤になった。分かりやすい
反応に、ハリーの笑みが深くなる。
「変な意味じゃないけどさ…君との距離がずいぶん近付いた気がしてる」
「気のせいだろ」
そっぽを向いたマルフォイの耳朶に、血が集まっているのがはっきり見て取れた。
「最初に距離を作ったのはお前だ」
ハリーはハッとした。マルフォイの語尾が僅かに震えている。
最初、というのは、初めてホグワーツ特急に乗った日のことだろう。期待に溢れた、楽しい列
車の旅へと乱入してきた―――彼。
『友達は自分で選ぶよ』
ロンドンの、ちょっと不機嫌に曇った空の色を映した瞳がめいっぱい見開かれ、悔しげに、哀
しげに歪む。
ハリーは両手でマルフォイの手を、ティーカップごと包んだ。
困惑を隠せずにいるマルフォイの耳元へ囁きかける。
「あの時の君の手は、もっと小さかったっけ」
差し出した手を撥ね退けられる。それを恐れて手を差し伸べなかったのはハリーだ。
出合った頃のマルフォイは、そんな恐れを微塵も抱いていなかったに違いない。なのにハリ
ーは彼を拒絶し、傷つけた。
「でも色は白いままだね」
白くて、柔らかくて、傷一つない手の平。水仕事でもなんでもやらされていた自分とは違いす
ぎるそれを、初めて見たときにはびっくりした。
「最初から相当強気だったよね、君」
「…あの頃の僕とは違う。今は……自分がどれほど弱く、汚れているか知ってしまった」
茶化したつもりだった台詞にさえ暗いトーンで返され、ハリーはため息をついた。
「そんな風に思ってるのは君だけだろ」
しかしマルフォイは違う、と首を横に振った。
「父上もそのようにお考えだ」
マルフォイはさり気なくハリーの手を外し、カップをテーブルへ置いた。
「父上はどうすることもできず、いいようにされてしまった僕に酷くお怒りだった…僕が弱いから
穢されたのだと。この行為は弱い僕に対する罪であり、罰なのだ、と」
でも、とマルフォイは続けた。
「こんな僕でも父上だけは愛してくださる。いくら僕が穢れようとも、護って―――救ってくださる
んだ」
「ちょっと待て。君は父親に言われてこういうことをしてるんじゃないのか」
ハリーの指摘にマルフォイの頬が赤らみ、答えを告げる。
「なんでこんなことをさせる奴が、君を救ってくれることになるのさ」
「僕は弱い」
不機嫌で鋭くなったハリーの声と対照的に、マルフォイは落ち着いていた。
「自分自身を護れないくらい…弱くて……でも父上のおっしゃるとおりにしていれば、僕は救わ
れる」
マルフォイがソファの横に置かれた自分の服へ、手を伸ばした。寝室の方で先ほど見つけ、
乱れきった室内に置きっぱなしにしておくのが忍びなく、ハリーがこっそり持ってきておいたの
だ。ジャケットのポケットを探り、見覚えのある丸いケースを取り出す。
「この薬も父上が作ってくださったんだ」
蓋を開けて薬を掬い、慣れた様子で傷口をなぞり出す。
傷が塞がれば、それで綺麗になれるとでもいうのだろうか。身体の傷が癒えれば、全てが消
えてなくなるとでも―――ハリーはマルフォイの肌のぬくもりが残る手の平を、爪が食い込むほ
ど強く握り締めた。
「……家に帰らないと」
衣擦れの音でハリーは我に返る。目を上げると、マルフォイは自嘲的な笑みを浮かべてい
た。
「僕を待っている方がいるんだ」
諦めたように、長い睫毛が伏せられた。
「なんで…そんなこと……」
なぜ、マルフォイはそんなことをハリーに言うのだろう。
マルフォイを待ち受ける相手が、彼の両親などではないということを、言外に漂わせて。
もしかしたら彼は―――止めてほしいのだろうか。ハリーに引き止めて、家に帰さないでもら
いたいと願っているのだろうか。
しかしマルフォイは、ハリーの言葉を別の意味に捉えたようだった。
「お前に理解してもらえるとは思ってない。それでも僕は…父上に逆らえない。僕を護ってくださ
るのは父上だけだから」
少しだけ、本当に少しだけ微笑んで、マルフォイは言った。それはひどく辛そうなくせに、どこ
か恍惚とした表情で。
それを目にした途端、自身の内で弾けた凶暴な感情を抑えきれず、気付けばハリーはマル
フォイをソファの上に押し倒していた。
「―――ッ…!」
驚き、もがくマルフォイを押さえ込み、唇を合わせようとする。マルフォイは先ほどまでの落ち
着きが嘘のような恐慌状態で、必死に身を捩ってハリーから逃れようとした。それでも肩を押さ
え込んで、無理やり口付ける。触れ合った瞬間、目が眩むばかりの刺激が脊髄を走り抜けた。
マルフォイと、互いに意識のある上で唇を重ねるのは初めてだったが、こんなにも……チョウ
と一度だけ交わした、アクシデントみたいなキスとは比べ物にならないくらい刺激的で、心臓が
飛び出しそうだった。何度も角度を変えては口付けを繰り返し、ほのかにルージュの香りが残
る唇へ噛み付いたりする。乱暴にしてはいけない、と分かっていたつもりだったが、一度吹き飛
んだ歯止めは、もう使い物にならなかった。
「家になんて帰るな」
キスの合間に、荒い息の下でマルフォイに命じる。
「家に帰るな。このままホグワーツか……僕と一緒に来るんだ」
「…どこへ…?」
問う声はか細く、親を見失った幼子のそれに似ていた。
「……僕の…プリペット通りの…」
グリモールドプレイスへはマルフォイを連れて行けないことを思い出し、ハリーはとっさにダー
ズリー家を挙げることしかできなかった。あそこは『ハリーの家』では決してない。けれど大嫌い
なあの家は、マグルの住処だ。マルフォイを追うものがあったとしても、少なくとも休みの間くら
いはどうにか、彼を匿っておけるのではないだろうか。
「あそこでなら君を護ることができる…!」
ふっとマルフォイの身体から力が抜けた。代わりに仰向けのままじっと、ハリーを正面から見
据える。
「お前が、僕を護る……?」
不思議そうに言葉と、その意味を反芻するマルフォイを、ハリーはきつく抱き締めた。
「どうして……」
その時、部屋の暖炉がエメラルドグリーンの炎を吹き上げた。マルフォイがハッとした様子
で、思い切りハリーを突き飛ばす。起こった出来事についていけないハリーに構わず、マルフ
ォイは丸い薬のケースだけ掴むと、一目散に暖炉の方へ駆けていった。
「マルフォイ…!」
「僕に構うなといったはずだ、ポッター!」
暖炉の前でいったん振り返り、マルフォイが叫んだ。
「思い上がるな。お前に僕を護れるはずがない!」
それだけ言うと、マルフォイは鮮やかに燃え盛るエメラルドグリーンの炎へと、身を躍らせた。
ハリーが止める間もなく、マルフォイを飲み込んだ炎はあっけなく静まっていく。
「マルフォイ……」
呆然と呟くハリーの前で、暖炉は何事もなかったかのように、灰一つ残さず静まり返ってい
た。

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