蝶番を軋ませて重いドアが閉まりきると、ドラコはドアに背を預けた形で冷たい石の床にへた
り込んだ。深緑のカバーに覆われた寝台に、ともかく自分の領域に戻ってこられたのだという
実感が湧き、心から安堵した。すぐには立ち上がる気にもなれず、気だるげに長いため息をつ
く。胸ポケットに飾られた真紅の薔薇が一片の花弁を落とし、微かな芳香を漂わせていた。
むせ返るように甘い香を放つそれは、今日の「男」からのリクエストだった。バレンタインには
赤い薔薇が必要だろう、と。
一面に薔薇の花弁を敷き詰めたベッドに、一瞬言葉を失った。あまりに悪趣味が過ぎて、け
れど嫌悪を表すことはもちろん許されない。綺麗だろう、と言われて仕方なく浮かべたぎこちな
い笑みに、それでも彼は満足げな様子だった。
故意だったのか、単なる過失か―――薔薇の花から取り除きそびれていた棘のせいで、ドラ
コの肌にはいくつもの小さな傷が付けられている。血が噴き出すほどではなかったが、シャワ
ーを浴びると傷付いた表皮に湯が沁みて、ひりひりと痛んだ。
顔にかかった前髪をかきあげようとして、手首にとぐろを巻いた蛇のような縞模様が赤く茹で
あがっているのを見つけ、ドラコは再度ため息を漏らした。
―――きっとあの女は綺麗な肌をしているんだろう…東洋人の肌は美しいというからな……
あの、チョウ・チャンとかいう女は。
ドラコは眼を瞑り、シーカーとして何度か対峙した際目にした、スニッチへと伸ばされた白い
手首を思い浮かべた。そこにはもちろん、禍々しい傷痕などあるはずもない。
ハリー・ポッターがチョウ・チャンをデートに、それもバレンタインのデートに誘った、という噂を
耳にしたのはいつのことだっただろう。たしか休暇が終わってすぐだったような気がする。
つまらなさそうに、しかし好奇心を隠しきれずにいる面持ちで、噂話を教えてくれたのはパン
ジー・パーキンソンだった。あの時の衝撃をなんとたとえればいいのだろう。ハリーが女の子と
デートすると知り、ドラコは滑稽なくらい狼狽していた。
ハリーとチョウ、それぞれの悪口を次から次へとまくし立てるパンジーの声は、ただ耳をすり
抜けて行くだけで、足元の大地が音を立てて崩れ去っていくというのは、こんな感じだろうかと、
ドラコはぼんやり考えた。
クリスマスのあとホグワーツへ戻ってきてから、ハリーはドラコを一度も正面から見ようとはし
なかった。
アンブリッジの部屋の外で彼が待っていることも―――当たり前のようになくなり、繋がりか
けたと信じた細い糸は、あっけなく千切れてしまったのだと思い知らされた。
『思い上がるな。お前に僕を護れるはずがない!』
ドラコをプリペット通りへ連れて行こうとした…連れて行こうとしてくれたハリーは真剣そのも
ので、彼は本気で、全力をかけてドラコを護ろうとしてくれていた。プリペット通りとは、ハリーの
口ぶりからしておそらく彼が休暇を過ごしている、マグルの家のことだろう。今年は休暇に入る
前に、赤毛の一家と連れ添ってホグワーツから姿を消していたが、思えばハリーは学校が完
全に閉じられる夏休み以外はいつも、家に帰ることなく休暇を過ごしていた。ハリーが両親の
亡き後、彼を引き取ったマグルの家庭で不遇を強いられてきたらしいことは、魔法界に関わる
ものなら誰もが知っている。
今年のクリスマス休暇を、ハリーはウィーズリー家に招かれていたのかもしれない。だが、そ
こへドラコを連れて行くことはできないと判断して、『プリペット通りへ帰ろう』と言ったのだろう
か。彼にとってはさぞかし居心地の悪いであろう場所へ、ドラコを護るだけのために。
そんな彼に投げつけた自分の言葉は、あまりに幼い。たとえ彼の申し出を拒むにしても、もう
少し言い方というものがあっただろう。あの時は突然、屋敷からの通路が開いたことを報せる
炎が上がったことと、直前の―――ハリーからの口付けに心を乱されていて、そこまで考えが
至らなかったのだが、そんなことまでハリーが分かるはずもない。彼に残されたのは、単に拒
絶されたという事実だけだ。
ドラコは自分の唇に、指先でそっと触れた。
あれからハリー以外、何人の唇と触れ合ってきただろう。
口付けてきたハリーは、圧倒的な力でドラコを組み敷きながらも僅かに震え、決めたら一直
線に進んでいくだけの彼に似合わず、瞳に迷いを滲ませていた。取り返しのつかない自らの行
動を、恐れてでもいるかのように。
彼は悩み抜いた末、ドラコへ触れたに違いない。気まぐれでああいった行動をとったり、うわ
べだけの表情で取り繕えるほど、彼は器用ではない。ずっと彼を見てきたから、分かる。
しかしドラコは彼を拒否してしまった。差し出した手を撥ね退けられた時に感じる悲しみと怒り
は、ドラコもよく知っている。ホグワーツに入学した日、列車の中でハリーに手を取ってもらえな
かった時、自分の中に渦巻いた諸々の感情を、きっと彼も感じたことだろう。
(服……着替えないと…)
自分に言い聞かせて、ドラコはようやく立ち上がった。ジャケットを脱ぎ、ソファへと投げ出
す。襟元の開いた部屋着には袖を通しただけで、ボタンを留める前に、ドラコはクローゼットの
奥から薬を取り出した。気付け薬を嗅ぎ、荒れた気持ちを落ち着ける。それから小さな錠剤
は、身体からアルコールを抜くために。少量だったが、かなりきつい酒に付き合わされたので、
明日の朝まで残っていてはまずい。最後に円形のケースの蓋を開けて、塗り薬を指に掬う。ト
ロリとしたそれは、肌触りの良さそうな見た目と違い、皮膚に伸ばすと薬草の苦い匂いと共に
突き刺さる刺激が浸透し、傷付いた肌を内側からさらに苛む。それでも薬効は著しく、情事の
際に付けられる程度のものならば、一晩で消える。
これらの薬は全て父が自ら調合し、ドラコに持たせたものだ。足りなくなった頃合を見計ら
い、新しいものが送られてくる。中でも蓋にマルフォイ家の紋章が彫られた、丸いケースに入っ
た塗り薬は、ドラコにとって特別なものだった。薬が、というだけでなくその容器さえ。
手の平に乗せるとずしりと重く、浮き彫りにされた紋章が自身の属する場所を改めて告げて
いるように思えた。初めてこのケースを手にした時に、とても逃れられないと直感した。マルフ
ォイ家から、そして父から。
傷を作らせているのは父だが、その傷を癒すのもまた、父に他ならない。ドラコの肌に花開
いた紅い花弁を、再び白い肌の下へ隠すことが出来るのは、ルシウス・マルフォイだけだ。
ハリーはルシウスの代わりにならない。ルシウスに代わって、ドラコを護ることも、癒すことも
彼にはできない。
酷く、胸が痛んだ。
はにかんだ笑みを浮かべたハリー・ポッターは、いつも見るよりちょっとだけ幼く見える。
『ザ・クィブラー』の表紙を飾る笑顔の彼へ、そんな場合ではないのに不覚にも、微笑み返し
そうになった。
『「生き残った男の子」ハリー・ポッターが真実を語る』
派手な書体で大見出しが付いたその記事は、例によっておおげさな表現で脚色された部分
も多々あったが、去年の六月、実際に起こった出来事、そしてその場に居合わせた人々の名
前に関して、極めて正確に書かれていた。
もちろん、ルシウス・マルフォイの名も。
談話室の隅に固まって、就寝前のヒソヒソ話に興じていた下級生を、パンジー・パーキンソン
が苛々と睨みつけて舌打ちした。彼女は今朝から、小声で話し合う集団を見つけたら即座に睨
むと決めたらしい。話題はクィブラーのインタビュー記事に決まっているからだ。
「ポッターって本当に意地が悪いわ。ちょっと有名人だからって、あんな酷いでたらめを書かせ
たりして」
なるべく普段と変わりないように振る舞おうと心がけていても、どうしてもふさぎ気味になって
しまうドラコを気にかけてだろう、パンジーはしきりに話しかけてくる。
「どうせもじゃもじゃ頭でっかちのグレンジャーが入れ知恵したに決まってるわ。それにしたって
『ザ・クィブラー』みたいな三流雑誌を使うしかないなんて、馬鹿みたい。まともな出版社じゃ相
手にしてもらえなかったってことね。あんな嘘だらけの記事、誰も信じたりしないわ」
可愛い笑顔で覗き込まれてやっと、ドラコは僅かに笑顔を作ることができた。
しかし、ドラコは『嘘だらけの記事』こそが真実だと知っている。
記事を読んだホグワーツの生徒たちの反応は様々だったが、大半はクィブラーの言うことを
鵜呑みにしていいのか、あるいは日刊予言者新聞を信じるべきなのか、判断を付けられない
でいるようだった。
だが彼らが遅かれ早かれ、迷いながらもクィブラーの記事を、事実として受け止めていくだろ
うことを、ドラコは予測していた。ダンブルドアをはじめとする教職員の大半が、クィブラーを支
持していることに加え、ほとんどの生徒たちはもともとハリー・ポッターが好きで、彼に憧れてい
る。本当は彼の言葉を真実だと受け入れ、信じたいと願っていた。大人たちに禁じられても、な
お。クィブラーはそんな彼らの隠れた思いを、一気に解き放つ起爆剤になった。
表面では半信半疑を装っても、ハリーを見つめる目つきは昨日までと違い、明らかに好意と
信頼の密度が増している。
ハリーはそんな視線に慣れすぎて、今更気付いていないかもしれないが、ドラコにはそれが
分かる。ハリー・ポッターへ憧憬を抱く者の一人として。
ハリー・ポッターはドラコの憧れだった。彼に憧れない子供なんていない。
ホグワーツでは同級生として、一番の友人になる。何の根拠があったわけでもないのに、そう
信じていた。
クラッブやゴイルをはじめとして、ホグワーツへ来る前に顔を合わせた同年代の子供たち
は、誰もが競ってドラコと仲良くなりたがった。
今となっては彼らが本心からそうしていたのか、知る術もないけれど、ドラコが友達とはそう
いうものだと錯覚するには、それで十分だった。
もしもあの時、ハリーと握手を交わせていたら……ドラコは慣れ親しんだ、黒と緑で統一され
た談話室を見回した。暖炉と蝋燭の火、そして生徒たちのひそやかな興奮とで室内は、空気
が揺らめくほどの熱気を孕んでいる気がする。
「そういえば先生に呼ばれていたんだった」
ちょっと行ってくる、と立ち上がり、談話室を抜け出した。囁き声が一瞬大きくなってすぐにし
ぼんだのを、背中に感じる。ドラコが出て行くのを見て、何か言い合った連中を、パンジーが一
睨みで黙らせたのだろう。
カツン、カツンと靴音を立てて、廊下を歩く。いつかの夜のように。
誰に呼び出されていたわけでもない、ただ冷たい夜風に当たり、少しの間、一人で考えたい
ことがたくさんあった。そのどれもが、父ではなくハリーに根ざしたもので、ドラコは戸惑う一方
で冷静に自身を内から眺めていた。自分の中でハリーの存在はこんなにも、大きいのだと。
本当に大切なものは失ってみないと分からない、なんて言うけれど、それは愚か者だけだ。
ドラコは自分にとってハリーが大切だと分かっていた。失う前から、なくしたときのことを考え
ると、怖くて怖くてたまらなかった。
ハリーと初めて並んで歩いた夜のことを、何ひとつ忘れてなんかいない。彼の腕がドラコの背
に、そしてドラコの腕は彼の肩へ。彼のぬくもりさえ覚えている。心が、身体が、彼の全てを覚
えている。
彼が暗い廊下で待っていてくれた時、ドラコはいつも救われる思いがした。
同情、憐憫―――向けられて嬉しくなるような感情ではない。
それでも尚、彼が自分に何か知らの思いをぶつけてきてくれることが、ドラコの心を不思議な
までに落ち着かせていた。
誰かに秘密を知られてしまうことを何より恐ろしいと思っていたが、ハリーに知られてからは
それよりも彼を失うことの方が何倍も恐ろしかった。ただ、横に並んで歩くだけの彼を失うこと
が。
行くあてのない足は自然と天文塔の方へ向かった。なんとなく高いところで、風を感じてみた
かった。消灯時刻まではまだ時間がある。しばらく星空でも眺めて、気持ちを整理しておこう
と、屋上へ続く階段を上りかけた時だった。
「マルフォイ」
忘れようもないその声に、ドラコは動きを止めた。
名前を呼ばれるたび、泣きたいような衝動に駆られる、その声。
振り返ってはいけない、このまま前だけ見つめて歩いていけばいい。そうしなくてはいけな
い。
持ち上げようとした足はその場から動かすことができず、固まっている。そんなドラコの手首
を、背後から捕まれた。
高い体温を感じて、ドラコは心臓が脈打つ音を聞いた気がした。
自分のものか、彼のものか、それすら判りかねるほど近くに、彼を感じて。

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