促されるまま、ドラコは近くのドアの内側へと足を踏み入れた。天文学の授業で使う器具が詰
め込まれたその場所は、部屋というより物置に近い感じがしたが、そんなこと今はどうだってい
い。高い位置で切り取られた四角い窓から月光が差し込み、明かりのない部屋の中で互いの
表情に柔らかな翳りを付けて照らし出している。
ドアを閉めて向き直ったハリーの瞳は、光を反射したレンズに遮られていたが、自分を真っ
直ぐに見つめているのだと、ドラコは感じていた。
「君に言いたいことがある」
長い沈黙のあとで、ハリーがドラコに向かって一歩、足を踏み出して言った。
ドラコは凶暴な肉食獣に見据えられた獲物のように、指先一つ動かせず、立ちすくんでいた。
ハリーの視線が自分だけを捕えている、そう思っただけで瞬きすらままならなくなってしまう。
また一歩、ハリーが近付いてくる。肋骨を叩く鼓動の速度が増し、呼吸が乱れた。膝が震え
て、ちょっとでも気を抜いたら、そのまま倒れこんでしまいそうだ。
もう、ハリーはドラコの目の前にいる。触れ合っていないのがむしろ不自然なくらい、近くに。
先ほど月明かりを映していた丸いレンズは、ハリーの立ち位置がずれたことで、今は透明に
澄んでいた。深い緑色の瞳に、ドラコの影が揺らめいている。
男の眼をこうして近くに覗き込むことは、いくらでもあった。しかし彼らと違い、ハリーの眼には
微塵の残虐さも、嗜虐に酔う光もない。ただ、切ないまでに満ち溢れた、優しい想いが感じられ
るだけだ。それはドラコが知らないもののはずなのに、とても懐かしいような気がした。ドラコが
ずっと欲しかったもの。与えてほしかった想い。
ハリーの吐息を、頬に熱く感じた。
「好きだ」
告げられた瞬間、甘い衝撃がゆったりとドラコを満たした。
互いの唇は、ほとんど重なる直前だった。言葉を紡ぐ動きさえ、薄く紅い表皮は過敏に受け
止める。掠れた声音は振動となり、届いた鼓膜を心地よく震わせた。
「マルフォイ、僕は君が、好きなんだ」
―――限界だった。
極度の緊張を強いられていた身体が一気に弛緩し、そのまま崩れ落ちていく。
急にしゃがみこんでしまったドラコに、ハリーは驚きながら自らも膝をついて、ドラコと視線の
高さを合わせた。
「…驚かせちゃった?」
頬に触れられそうになり、ドラコは慌てて身を引こうとした。こんな、いたたまれないほどの熱
さを持った肌では、ハリーに簡単に自分の気持ちを知られてしまう。しかし思うように身体を動
かせずにいるドラコの頬を、やがて辿り着いた彼の手が包み込む。ハリーの手の平を自分の
頬よりさらに熱い、とドラコは感じた。頬で溶け合うハリーの体温と間近に見る瞳孔の煌めき
に、ドラコの胸を狂おしいまでの寂寥が走り抜ける。
「お前も、僕を抱きたいというのか」
胸の奥から込み上げる熱い塊を、喉に力を込めてぐっと押さえ込み、ドラコは言い放った。
「悪いが他を当たってくれ。僕はお前が嫌いだ」
気付いてはいけない。気付かせてはいけない。だから彼を拒まなくてはいけない。
たとえ、言葉だけでも。
「相手に不自由はしていないだろう―――英雄様」
言いながら、ドラコの腕はハリーの肩へと伸ばされていた。
自分の身体が、意思と全く正反対に動いていくのを、どうしても止められない。
「僕はお前が嫌いだ」
嫌い、と言った相手の身体を痛いくらい抱き締め、火照った頬を寄せる。ハリーの腕が自分
の身体に回され、髪に指先を差し入れられて、宥めるように何度か上下させられた。
「君が傷付けられてるのを見るのが、すごく嫌だったんだ」
耳元で囁かれるくすぐったさを、ドラコはうっとりと瞳を閉じて甘受した。
「ただの正義心か、じゃなきゃ君に同情してるとか……そういう気持ちがあるから、君にああい
うことをさせたくないんだと思ってた。でも、クリスマスからずっと考えてみて―――分かったん
だ」
君が好きなんだ、と。
告白を繰り返される内、どちらからともなく唇を寄せて啄ばみ合った。
いつしか支えを失い、固い床へ横たえられたドラコの上に、ハリーがかぶさってくる。背中が
痛くならないようにと気を使ってか、ハリーは床とドラコの背の間に腕を差し込み、身体の重み
も加減してしか預けてはこなかった。
全部くれればいいのに、とドラコは思う。
身体が痛くても構わない、ハリーの重みを全て受け止めたいと、口にすることはなく願った。
今だけ、このひと時だけ、彼の全てを受け止め、自分の全てを与えたい。骨が砕けるくらいき
つく抱かれ、抱き返したい。
「僕のこと嫌いだっていうくせに、時々すごく無防備な貌してるの、知ってる?」
忍び笑いを漏らしながら、ハリーがこめかみにキスを落とした。
「嫌ってる相手に見せるような顔じゃない。僕も最近、やっと分かったよ。あれは安心してる貌
なんだって。たぶん君は、自分では気付いてないんだろうけど、ずっと前から僕に心を許してい
たんだよ」
馬鹿、と唇だけで呟く。それくらい、ドラコだって気付いていた。ハリーから向けられる強い感
情のこもった視線―――どれほどドラコを嫌悪するものであっても、彼の瞳が自分を映すのな
ら、それで良かった。彼の視界に入っていけるのならば、それだけでドラコは心の安らぎを得る
ことができた。
つんつんと指に突き刺さる黒髪をドラコは自分がそうされたように愛しげに、ゆっくりと梳い
た。あまり手入れをされていないそれは、すぐに指へ絡みついたけれど。
「…ポッター…」
何度も何度も、ゆっくり解すように撫でる。
「マルフォイ…」
名前を呼び合って、唇を這わせる、ただそれだけのことが信じられないほど心地良い。
これまでにない充足感に爪先まで浸りながら、ドラコはハリーに気づかれないよう、ローブの
ポケットを探った。
ひんやりした感触のそれを右の手にしっかりと握り締め、そろそろとハリーの背の側へ、腕を
戻す。
「ポッター……本当は君が」
身体の内に凝った熱が、じわじわと解放の瞬間を求めて蠢いている。一度だけで構わないか
ら、何もかも曝け出してしまいたい、と思った。求めていたものは、望みさえすればすぐに手に
することができる。
「君が、好き……だ」
戒めていた想いが言葉として溢れ出した途端、全身を駆け抜ける悦びに眩暈がするほどだ
った。ハリーが大きく息を呑み、それからゆっくりと緊張を解いていくのが分かった。
彼が今、自分と同じくらい幸せならいいのに。
「ポッター…」
ハリーから少しだけ身体を離して、彼の顔を見ようとした。近すぎて焦点が合わないけれど、
自分が微笑んでいるのは、彼に見えているんだろうか。
「好きだ」
左手で彼の顔に触れた。レンズの隙間から潜り込ませた指で瞼に触れ、頬を辿り、唇の形を
なぞる。ちゃんと覚えておけるように。唇を寄せてドラコの方から重ねれば、抱かれる腕が強さ
を増した。
「好き…ずっと……大好き…」
熱っぽく、うわ言のように呟きながら、ドラコはハリーの肩に額を押し付けた。
好きな人に好き、と言われて。
好きな人に好き、と言えて。
そのどちらもが耐え難いほどの歓喜を呼び起こし、泣き出したくなってくる。
「君が好きだ」
くぐもった声で呟き、ドラコは手の中の物を確かめるように握り直した。
そっと眼を上げると、窓から忍び込んだ月明かりを背にハリーのシルエットと、その後ろに杖
を構えた自分の右手が見えた。
「ポッター」
これからやろうとしていることが正しいという確信は、ない。
それでもやらなくてはならないことだと知っている。
ドラコのために、ハリーのために。
だからきっと、後悔なんてしない。
「好きだ」
どうか彼がこの想いを、永遠に
「オブリビエイト」
忘れてくれますように――――

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