呪文を最後まで唱え終えるより先に、素早く振り上げられたハリーの手によって、杖はドラコ
の手を離れた。
床の上を、杖が転がっていく音が虚しく響く。
「罠にはめたつもりか?」
呆然と杖の落ちた先を目で追っていたドラコへ、恐いくらいに張り詰めた声でハリーは尋ね
た。
「僕を好きだって言って…気を引いておいて、忘れさせようって? 自分に都合の悪い記憶は
全部、忘れさせようと…?」
ハリーの言葉は、怒りに喘いで途切れ、震えていた。荒々しくドラコに馬乗りになり、肩へ手を
かけてそのまま床へと押し付けてくる。
「好きって言ったのは―――僕を罠にはめるための嘘?」
緑色の瞳が怒りだけではなく、想いを踏みにじられた苦しみをも映し出している。彼を傷付け
たことに対する気の狂うような罪悪感にかられ、ドラコは小さく首を横に振った。
「好きだ、ポッター」
だったらどうして、と眦を上げて詰め寄るハリーを正視できなくて、ドラコは彼から目を逸らし、
僅かに唇を動かした。
「お前に好きになってもらえて嬉しかった……でも…ポッター…忘れた方がいい」
勇気を振り絞って頭上の彼を見やると、ハリーは理解できない、というように眉を寄せてい
た。やはりちゃんと、言わなくては。
好きな人に傷付かないでいてもらうために、好きだという想いを消してもらわなくてはならない
のだと。
「僕は、父上の意思に背くことは許されない」
『―――約束だ。このことを誰にも知られないように。そうすれば……』
四年前、父に言われた言葉が、その声音までも鮮やかに蘇る。
あの冬の朝、ドラコは広いベッドの上で、シーツに包まり泣いていた。
窓辺に積もった雪が、昇りきる直前の太陽の光を反射し、キラキラと輝いていたのを覚えて
いる。いつも何気なく見ていたはずの光景が、二度と手にできない幸福であるかのように思え
て、涙が止まらなかった。
明け方に現れた父は、いつも以上に厳しい顔をしていた。なすがままに篭絡させられた息子
を不甲斐なく思い、怒っていたのだろう。
『なんと脆弱な』
汚らしいものを見る目つきで、吐き捨てるように父は言った。
『これがどういうことか、お前は分かっているのか』
身体の芯が凍るような恐怖にドラコは、伏せた顔を上げることもできなかった。ぽたぽたとシ
ーツに垂れた涙の作る染みを、意味も無く見つめていた。
耐え切れないほどに重苦しい沈黙の後、父はふっと身に纏う空気を和らげ、ドラコへ近付い
てきた。
不意に左肩へ痛みを覚え、泣き濡れた瞳でそちらを見やると、父の指が男の噛んだ痕をな
ぞっている。
『痛むか? 覚えておきなさい、これがお前が受けねばならない罰だ』
痺れるような痛みはしかし、傷口を癒す薬がもたらすものだった。再生を始めた自分の肌
が、紅い痕を周囲から包み込むように覆い隠していくのを、ドラコは涙にぼやけた視界の端で
ぼうっと眺めていた。
『―――約束だ。このことを誰にも知られないように。そうすれば……私がお前を罪の穢れか
ら救ってやろう』
泣き疲れてずたずたになったドラコの精神は、父の前に全くの無防備だった。剥き出しの心
に、言葉が強烈な力でもって襲いかかる。
『お前は私の血を引く、ただ一人の大切な子供だ。お前が私に背かない限り、私は何があろう
とお前を愛し、護ってやれるだろう』
薬が肌に浸透していくのと共に、薄い唇から紡がれる言葉は、妙に頭に馴染んで沁み通って
きた。なんでもいい、楽になりたいと、脳細胞がルシウスの言葉に追従しようと疼く。逆らおうと
すると、全身の神経が引き裂かれるように痛んだ。
『お前は私にのみ従っていればいい』
「父上が望まれれば、僕は他の男の慰み者になる」
与えられて縋ったはずの救いの手は、ドラコを更なる罪の深淵へと突き落とすものだった。
けれどいったん握り締めた手を自分の方から放すことは、ドラコにはできない。
ルシウスがドラコを見限ることはあっても、その逆は起こりえない。
「父上が望まれるなら、いつか『あの方』の元へいくかもしれない」
レンズの向こう側で一瞬、切れ長の瞳が鋭さを増した。しかしそれはすぐに絶望によって消し
去られ、ハリーは打ちのめされた表情になった。
「そんなに父親が大切なのか…?」
ドラコの肩を押さえつけているハリーの手の平が、じっとりと汗ばんできているのを布越しに
感じた。
「父上は僕を愛して…」
「愛してる子供を慰み者にできる親なんていると思うか!? あいつは―――君の父親は本気
で誰かを愛したことなんてあるのか?」
「でも父上は僕を護ってくださる!」
ハリーの激昂に身を竦ませながらも、ドラコは必死で叫んだ。
「僕の穢れを癒し、救えるのは父上だけだ!」
どうにかして反論し、ハリーの言葉に耳を傾けないようにしていなければ、心が壊れてしまい
そうだった。
「君の傷は全部、あいつのせいだろ? それを治してもらって喜ぶなんて、おめでたいにもほど
があるよ! 大体、最初に君を好きにしたっていう男だって、あいつが手引きしたかもしれない
って考えなかったのか?」
「嫌だ…」
それ以上聞きたくなくて、ドラコは両手で耳を覆い小さく頭を振ったが、それはハリーの神経
を逆撫でする結果を生んだ。
「君はあいつから解放されるべきだ! 君が…一人で立ち向かえないっていうなら、僕がルシ
ウスを…!」
「やめろっ…!」
伸ばした腕を振り回し、狂ったようにハリーの胸を押しやる。ハリーは父を……どうしようとい
うのだろう。クィブラーの記事が頭をよぎった。ああいう風にして、じわじわと周りから包囲して
いくつもりなのか。それともそんなまどろっこしいやり方じゃなく、喉元に杖を付き付ける?
ルシウスが窮地に立たされると考えただけで、胸が苦しくなり、とてつもない惧れが背筋を這
い上がった。父の身に何かあったら―――導いてくれる手を失ったら、どこまでも続く暗闇の中
で、どこへ歩いていけばいいのか分からなくなってしまう。
「君をあいつから解放させてやる。どんな手を使っても」
「…また、コガネムシに何か書かせる気か」
「クィブラーなんて小手始めだ」
ハリーは真剣な顔をしていた。君を護る、と言ったクリスマスと同じ。
「君がそれを望まなくたってもう、関係ない」
彼はいつだって一直線だ。欲しいものを欲しいと言って、無茶を無茶とも思わず突っ込んでい
く。そしていつだって、欲しいものをちゃんと手に入れる。勝利も、喜びも、賞賛も、友達も。
「僕は君が好きだって気持ちを、絶対に忘れたりしない。だから……君も忘れたりしないで」
額にキスを落とされる。忘れるな、というのは諦めるな、と言われているような気がした。
最初から無理だと決めつけないで。殻を破って出ておいで、と誘われているように。
闇の外にはきっと、陽の差す温かな場所を見つけられるから、と。
「僕を好きだって、言ったじゃないか」
少し淋しそうに、ハリーが言った。
「僕は君が好きだ―――だから君を助けて、護ってあげたい」
目の前に差し伸べられた手を頑なに拒み、真の救いにもなるものを、忌まわしいの誘惑であ
るように拒絶し続ける自分が、愚かに思えた。
それでも一方で、いつか捨てられたらと怯える心を捨てきれない。ルシウスと違い、ハリーと
自分の間にはもともと、血のように確かな絆があるわけではない。あるのはただ、互いを求め
合う想いという、曖昧な感情の弱い繋がりだけだ。いつ、何の拍子で壊れるともしれない。ルシ
ウスの元を逃げ出し、ハリーの腕の中に飛び込んで……けれどハリーとの脆い繋がりがいつ
か、何の前触れもなく消えてしまったら―――?
茎を折られた花のように項垂れたまま、何も応えられずにいるドラコへ、ハリーは焦れたよう
に再び口付けた。
「君を護るのは、僕だ」
降り注ぐキスの雨の中で、強く抱きしめられ、頬をすりつけられた。
「僕のこと、好きなんだろ」
見おろされ、ドラコはピンで留められた蝶のように動きを封じ込められた。ハリーも荒い呼吸
を押し殺し、目をしばたたかせて、みなぎる緊張に耐えているようだった。
「ドラコ、好きだって言って。僕が好きだって、もう一度…」
ドラコの細い肩を何度も揉むようにさすりながら、ハリーが懇願を滲ませて言った。
「…ポッター……」
ドラコが甘くその名を呼んだ。
「言って、ドラコ」
「ポッター…僕は…君が…」
溢れかけた涙を、奥歯を食いしばって堰き止める。
「好き、だ…った…」
深緑の瞳が生気を失い、凍りついた。
「ハリー」
もう二度と、誰かを好きになったりしない。こんな苦しい思い、二度としたくない。
「本当に……お前だけが好きだったよ……」
罪の色の花を摘み取って、雪の下に埋めてしまおう。
誰にも見つからないように―――真っ白な雪の下に。
それが出来る唯一の人は誰なのか……僕は良く知っている。

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