体の上に覆いかぶさっていた男が舌打ちし、ベッドから降りていった。
 重苦しさが急に消え去ったことに、ドラコは恐る恐る眼を開ける。
 男は乱暴にカーテンを寄せ、窓を開けたかとおもうとまたすぐに閉めた。フクロウの低い鳴き
声と羽音が微かに聞こえてくる。
 こちらを振り返った男は肩をすくめて、ライティングテーブルからペーパーナイフを取り上げ
た。手には金色の封蝋が施された、黒い封筒を持っている。それを見たドラコはハッとして起き
上がった。あれは魔法省がいくつかある段階の中でも最も緊急の際に用いるものだったはず
だ。
 封を切り、取り出した羊皮紙の便箋に目を通すうち、男の顔が険しくなっていく。読み終えて
便箋と封筒をまとめて握りつぶすと、他の者に読まれないための魔法をかけられていたそれら
は細かな灰となって舞い上がり、やがて空気中に吸い込まれるようにして消えていった。
「なにか、あったんですか」
 無言で身支度を始めた男へ、思い切ってそう尋ねたが何も答えはくれなかった。
 サッと杖を振るい、乱れたガウン姿からネクタイを締めたマグル風のスーツ姿へと身なりを整
え、男はドラコに向き直った。
「二時間以内に戻らなかったら学校へ帰っていろ」
 足早に廊下へ出て行こうとする男の背に、ドラコは堪らず再び問いかけた。
「ダンブルドアのことですか」
 男の動きが一瞬止まったが、返事の代わりに彼は振り返ることなく、「帰るときにばれないよ
うにしろ」とだけ言い放ち、ホテルの部屋を出て行った。
 男が去ったのをドアが閉まる音で確認し、ドラコは長いため息をついた。時計を見ると、約束
の時間に大分遅れてしまったため、ここへ来てから三十分と経っていない。
 「ザ・クィブラー」の一件があってから、男たちからの呼び出しの回数は目に見えて減った。ス
キャンダルをなにより恐れるお偉方は、渦中の人物とはひとまず距離を置こうとしたのだろう。
それでも気まぐれに何度か相手をさせられることはあったが、ドラコはこれまで以上に、関係が
ばれないように気を使うよう、無言の圧力を感じていた。
 クィブラーの騒ぎもひとまず収まり、また頻繁に呼び出され始めたのが二ケ月前くらいからだ
っただろうか。しかしここ数週間というもの、将来に重大な影響を与えるO.W.Lを考慮してか、ル
シウスから深夜にホグワーツを抜け出せと指示されることはなかった。その代わりのように試
験が終了した日にさっそく、出向くよう言われていた。久しぶりの逢瀬だというのに遅刻をしたド
ラコに男は当然、機嫌の悪そうな様子だった。理由を尋ねられたので、他寮生と喧嘩をして呪
いをかけられていたと言うと、少し意外そうな顔をされた。きっと呪いをかけたのは年下の女の
子だと言ったら、もっと驚いたに違いない。
 ドラコはシーツの中から這い出して、床に投げ出されていた自分のガウンを引き寄せ、身に
付けた。
 二時間以内に戻らなければ帰れというのは、裏を返せば少なくとも二時間はこうして待ってい
なければならない、ということだ。このまま今日は終わり、というのならば一刻も早くシャワーを
浴びて、身体中に纏わり付いた汗と男の匂いを流し去りたかった。
 あの手紙の内容はどんなものだったのだろう。
 ドラコが相手をさせられる男たちはほとんどが現職で、ある程度以上の地位についている者
たちだったが、情事の最中に仕事で呼び出されるというのは珍しい。よほどの急用……そう、
たとえば、魔法大臣とその部下を一撃の下に看破し、未だ行方をくらましているダンブルドアが
捕まった、とか。彼の隠れ家に踏み込んだとき、一緒にいたのはなんとあの―――ハリー・ポ
ッターだった、とか。
 とりとめもない想像を巡らせながらドラコは窓辺へ歩み寄り、低い猫足のソファに腰かけて暗
い空を見上げた。ホグワーツから見るのと違い、ロンドンの夜空は霧と雲とが厚く層を作り、そ
の先にあるはずの星からは、一条の光も届きはしない。

「ポッター」

 今頃、どこでなにをしているのだろう。
 悄然とアンブリッジに引き立てられていったハリーの後姿が、脳裏に浮かんだ。





 昼間行われたO.W.Lの最終科目、魔法史の試験中にハリーは額を押さえて倒れこんだ。
 何かが起こる、という胸騒ぎは現実のものとなった。いつもハリーへの想いを振り切るつもり
でくぐり抜けていく、アンブリッジの部屋の暖炉。そこに首を突っ込み、熱心に何事か話しかけ
ているハリーを見た瞬間、心臓が止まるかと思った。

『助けてください』

 アンブリッジに命じられてスネイプを呼びに行ったとき、喉元までその言葉が出かかった。
 それを押さえ込んだのはひたすらに、その言葉を「言うべきではない」という思いからだ。
 ハリーを助けて欲しい、というには自分はあまりに不自然な立場だ。そもそも彼を窮地に追い
やる手助けさえしておいて、何を今更戸惑っているのだろう。
 注意力が散漫になったところを攻撃されて意識を失い、気付いたときにはホスピタル・ウィン
グのベッドの上だった。
 不意をつかれた、と言ってしまえばそれまでだ。だが、本当に攻撃を予感していなかったのだ
ろうか。ジニー・ウィーズリーに呪いをかけられ倒れこむ直前、ドラコは握り締めていたはずの
ハリーの杖を、確かに自ら宙に放った。それが彼の元に届けばいいと願ったのかどうか、とっ
さのことで覚えてはいないけれど。



 ハリーを好きでいるのは止めよう、と決めた。好きだと告げられ、ドラコを護ると言ってくれた
彼の元へ、いつ逃げ込んでもいいのだと分かった。嬉しいはずなのに、同時に怖くなった。希
望でいっぱいに満たされてしまうのは、ドラコにとって喜びよりも恐怖の方が大きかった。
 逃げ場所は所詮、一時の逃避の場でしかない。いつかはそこを出て、歩みださなければなら
ない。その時、導いてくれる手を必ず見つけられると、どうして言えるだろう。希望が絶望に摩
り替わる時が来ないと、誰が断言できるだろう。
 高みに昇れば昇っただけ、人は失墜を恐れるようになる。臆病な自分にはその恐怖に耐え
る力がない。それならいっそ、元々いた絶望という名の大地でまどろんでいたかった。実際、ド
ラコは不確かな『明日』ではなく、陽の差さない『今』を選び、ハリーに背を向けた。
 だからアンブリッジの親衛隊として、ハリーとこれまで以上の敵対関係になっても、心を痛め
てはいけないはずだった。
 差し出した手を二度とも、拒まれたのだ。ハリーはきっともう、ドラコを好きではなくなったどこ
ろか嫌って……憎んでさえいるだろう。それでも想いを忘れることはできず、ハリーからきつい
眼差しを向けられるたび、胸が締め付けられるように痛んでしまう。ドラコの中で、ハリーへの
想いは日を追うごとに、消滅するどころか募っていく一方だった。彼の腕に飛び込むことができ
なかった以上、捨てるより他ない想いをまだ、捨てきれずにいる未練がましさに嫌気がした。
 顔を合わせなければ、声を聞かなければ―――触れ合わなければ、いつか忘れてしまえる
日が来ると思っていた。なのに、間近で見たのはほんの数回かぎりの彼の瞳も、唇も、絡め合
わせた指も全部、まざまざと思い出すことができる。本当は忘れたくなんかない。彼への想い、
そして彼の全てを。

「ハリー」

 そういえば天文塔でハリーに口付けたとき、自分は彼の名前を呼んでいた。
 あんな状況だったのにごく自然にそうできたのは、ハリーの方から名前を呼んでくれたからだ
と思う。
 ドラコ、と。







 一定しないリズムで断続的に、何かを叩く音がする。
 閉じていた瞼の内に白い光を意識し、ドラコはふっと眠りから覚めた。
 気付かない内に、ソファの上で寝てしまったようだ。手足の先が冷たくなり、動かそうとすると
軽い痺れが走った。寝過ごしたかと慌てたが、窓の外はようやく白み始めた頃合で、まだ夜明
けまでは時間がありそうだった。
 結局、昨夜の男はあれきり帰って来なかったのか―――考えは、尚も続くノックの音に中断
された。
 目を上げると、窓を大きな灰色のフクロウが忙しなく突っついている。窓をあけ、途端に異様
な光景に気付いた。ロンドンの空いっぱい、フクロウが飛び回っている。
 呆然と見上げていると、窓枠にしがみついたフクロウは早く取れ、とでも言うようにドラコの指
を突っつき、脚から下げた布袋を差し出した。中には新聞らしきものが束になってが入ってい
る。戸惑いながら一枚引き抜くと、フクロウはホーと一声鳴いて外へ飛び立っていった。
 号外、魔法省・戦慄の一夜、『名前を呼んではいけないあの人』、魔法界の英雄との攻防? 
……大きな文字と、破壊された魔法省のロビーで慌てふためく人々を撮った写真に、まず目が
いった。
 混乱し、紙面を彷徨っていた視線が、その名の上でぴたりと止まる。貪るように記事を読んで
いく内、ドラコの顔からすうっと血の気が引いていった。
 記事には昨夜、魔法省に『あの方』が自らお出向きになり―――「偶然居合わせた」ハリー・
ポッターと魔法省のある物、を巡り争った…とある。そして従った者たちはほとんどが捕えら
れ、即日……アズカバンへ送られることとなった、と。


「…父上…ッ!」


 アズカバンに送られた者のリストに載せられた、ルシウス・マルフォイという文字に、ドラコは
自身の思考が真っ白になっていくのを感じた。