「あいつはお前の父親の友達だろう?怖くなんかないだろう?」
開け放たれた正面扉から、明るい夏の日差しと無邪気な笑い声が入り込んでくる。
光を背にした緑色の眼は、これ以上ないくらい深く、暗い色をしているとドラコは思った。
「何様だと思ってるんだ、ポッター」
自分の声が他人のもののように響く。
「父上を牢獄なんかに入れさせるものか―――」
「もう入れたと思ったけどな」
レンズの向こう側から覗く瞳には、強い憎悪のみが燃え上がっていた。
どんな感情でも構わない、ただハリーが自分を見てさえくれればひそかに安堵していられた
時期もあった。けれど彼のひたむきな愛情を教えられてからは、それも苦しみでしかなくなっ
た。
互いに杖を突き突きつけ合う、不穏に張り詰めた空気は教師たち―――スネイプと聖マンゴ
から退院してきたマクゴナガルの登場により、強制的に萎まされた。
「さあ、ポッター、マルフォイ。こんな素晴らしいお天気の日には外に出るべきだと思いますよ」
マクゴナガルに見送られる中、ハリーはドラコに一瞥もくれず踵を返した。
「大丈夫かね、ドラコ」
ハリーの姿が見えなくなった頃、それでも動こうとしないドラコをスネイプがチラリと見やった。
「何が、ですか」
未だ杖をローブにしまうことなく、関節が白くなるくらい握り締めていたドラコは、ふっと口元を
緩めて彼を見上げる。
「父上のことでしたら…」
「ルシウスではない。君のことだ」
じっとドラコを見下ろす彼は、暗くどこか哀しみを耐えた眼をしていて、少しだけハリーと似て
いる気がした。
「もちろん」
クラッブとゴイルはマクゴナガルの荷物を抱え、一足先に彼女の部屋へと行ってしまった。ド
ラコは右側の扉の前へ立った。暗い地下へ続く階段が伸びている。たった今、陽の差す外へ
出ようと上がってきた階段へ、ドラコは再び足をかけた。
「大丈夫、ですよ」
扉の閉じる音がぽっかりと口を開けた空間に、やけに寒々しく響いた。
自室に戻るとドラコは制服のネクタイをむしり取り、疲れきった体をベッドへ投げ出した。い
や、疲弊しているのは肉体ではなく精神の方だ。
父の逮捕はドラコを徹底的に打ちのめした。もうこの夏、屋敷に帰ってもそこに父はいない。
ドラコにとってルシウスは絶対的な存在だった。恐れる一方でその庇護下から抜け出そうとし
なかったのは、彼に捕えられていたいとも思っていたからだ。その父をドラコは―――失ってし
まった。
加えて、魔法省での出来事がより明確な形で報道されるにつれ、ドラコはホグワーツでの身
の置き場を少しずつなくしていった。スリザリンに属していたおかげで、寮の中には自分と同様
の立場の生徒が複数いたし、内心はどうあれ他の生徒たちからもあからさまに不躾な態度を
とられることはなかった。だが、一歩寮の外へ出れば、そこには何の遠慮もない。クィディッチ
の選手や監督生などをやって目立っていたのが仇となり、ドラコは他のデス・イーターを家族に
持つ生徒たちより一層、侮蔑と警戒の標的とされた。
ここ数日、まともに眠れた夜はない。周囲から浴びせられる冷ややかな空気の中での食事
も、耐え切れず残してしまうことが多かった。そして、先ほどのハリーとのやりとり。
魔法省から帰還したハリーを見たのは、あれが初めてだった。怒りと哀しみが不思議に混ざ
り合った……酷く辛そうで、痛々しく思えた。今までのような勝利に酔った凱旋とは、明らかに
違う。
しばらくそのままベッドに横になった後、こうしていても仕方がないと自分に言い聞かせてやっ
と、ドラコは起き上がった。
ふと壁にかけられた鏡に目をやると、頬がこけ、青白く静脈が浮き上がった顔が映った。目
の下に薄紫の隈がはかれ、病人のように蒼ざめて見える。だが同様に白い首から続く、浮き
上がった鎖骨の窪みには、血を思わせる紅い染みが散らばっていた。肌の柔らかそうな部分
に集中して残されたそれは、父が捕えられた夜、付けられたものだ。いつもならすぐに薬で治し
ているはずなのに、そんなことはすっかり忘れていた。
クローゼットから塗り薬を取り出し、この先、誰が自分のためにこの薬を調合してくれるのだ
ろうとぼんやり考える。もっとも、ルシウスがあの方に仕えていると知れ渡った今、それでもドラ
コを抱きたがる人物がいるとは思えなかったが。
―――面白い。あの野良犬がポッターの名付け親というわけか。
新学期、ホームで父の言った言葉を思い出す。
珍しく付き添っていた母が傍らで、口元に薄らと笑みを浮かべて『シリウス・ブラック』と呟い
た。
指名手配中の脱獄犯、シリウス・ブラックはハリー・ポッターの名付け親だと、昨日の予言者
新聞が大々的に報じ、ホグワーツ中が大騒ぎになるよりずっと前から、ドラコはそのことを知っ
ていた。しかし記事には続けて、ドラコの知らない情報もあった。シリウス・ブラックは魔法省の
乱闘で命を落とした、ただ一人の人物だ、と。
名付け親、というものがどういった位置づけになるのか、ドラコには分からない。血の繋がっ
た家族とは恐らく……違う。だが、物心ついた頃にはすでに独りぼっちだったハリーにとって
は、やはり大切な人だったのだろうか。そう考えれば、ハリーのあの塞ぎこんだ様子も納得で
きた。
薬ケースの蓋を開けると、薬草の香りに脳髄が痺れていくのが分かる。ゆっくりと、ゆっくりと
―――催眠にかけられるように。早くこれを塗らなければ…罪という名の傷口へ。そうして消し
てしまわなければ、ドラコは傷を目にするたび罪の意識に苛まれ、やがて押しつぶされ、壊れ
てしまう。
何十回と繰り返したとおり、ドラコは細い指を薬に伸ばした。
『君はあいつから解放されるべきだ!』
なぜ唐突に、その言葉が耳元に蘇ったのか、分からない。
でも、あの真っ直ぐ自分に注がれる緑色の瞳を忘れることなんて、できるはずがない。
つんつんはねた髪の毛も、優しい声も、熱い吐息も、体温も。何一つ、忘れたくなんかない。
ぱちん、と音を立てて薬ケースの蓋が閉まった。
『君を護るのは、僕だ』
彼はそう言った。本当はまだ、誰かを護れるほど強くないくせに。まだ、護られるべき立場に
あるくせに。
ハリー・ポッターだって、誰かに縋らずにいられないはずなのに―――ドラコは手の中の薬を
見つめた。
彼は誰に縋るんだろう。
自分自身に? それとも他の誰か?
ドラコは俯けていた顔を上げた。
太陽が照りつける校庭から、鬱蒼とした森の中に一歩入った途端、気温が一気に下がった
ように思えた。温度のせいばかりではなく、どうしようもない恐れから肌が粟立つのを感じる。
普段なら決して寄り付かないその場所へ、ドラコは意を決して踏み込んでいった。
玄関ホールから出て行ったハリーがどこに行ったのか、ドラコが知るはずもない。しかしなん
となく、彼は一人になれる場所を探していたんじゃないかと思った。それは何の根拠もない、推
量でしかなかったが。
ハリーが柔らかい芝生の上に寝そべって、他の生徒達とおしゃべりしながら日向ぼっこして
いるとはどうしても思えなくて、ドラコは荒れた裏庭や壊れかけた温室といった、人気のなさそう
な場所を片端から見て回った。しかしハリーの姿はどこにもなく、最後に残ったのがこの森だっ
た。
もしかしたら森番の大男のところへ行ったのかもしれない、と考えながら、ドラコは自分がハ
リーを見つけて、どうしたいのか分からずにいた。ただ、ハリーにはあんな風に哀しげな顔をし
て欲しくない。慰める、というのはおこがましい気がしたが、今の彼を一人にしておきたくなかっ
た。ともかく無性に彼に逢いたい、という気持ちに突き動かされ、ドラコは森を彷徨った。
道標らしきものは何もない。授業で慣れた道を外れれば、迷って抜け出せなくなってしまう危
険を理解した上で、ドラコは敢えて細い道を選んで入っていった。
手の平をきつく握り締めると、薬ケースに彫りこまれた文様が跡をつけるのが分かる。
こんなに必死で走ったのは久しぶりだ。もしかしたら…一年生のとき、ハリーと一緒に罰則で
夜のこの森へつれてこられた時以来かもしれない。得体の知れない恐怖を目の当たりにし、彼
を置いて一人、逃げ出してしまった。彼と一緒に走り出したと思ったのに――――
不意に視界が開けたと思うと、そこは湖のほとりだった。
目の前の地面がなだらかに傾きながら、水辺へと続いている。
握っていた手の平が解け、丸いケースが滑り落ちた。それは始めゆっくりと、徐々に勢いをつ
けて斜面を転がっていく。しかしドラコの視線はただ一点から動かずにいた。
視線の先に彼が、いる。
踏みしめた足元で小枝が割れ、物音に彼は振り返ろうとした。
薬が湖面に漣を立て、沈んでいくのが見える。跳ね上がった飛沫が傾き始めた陽光を反射
し、キラキラ輝いた。
「ポッター!」
夢中で駆け寄って、彼の背を抱き締めた。 触れた瞬間、電気が走ったような衝撃を覚え
る。止める間もなくドラコの両眼から、堰を切ったように涙が溢れた。
「…マルフォイ…?」
いきなり背中に飛びつかれ、わんわん泣きじゃくられたハリーは、困惑した様子だった。彼の
肩に額を押し当て、ドラコは震えながら涙を溢し続けた。
彼に再び触れることが叶ったなら、告げたい言葉はいくらでもあった。それなのに実際ハリー
を前にしてドラコは、涙に邪魔され何も言えなくなってしまう。シナリオは白紙だ。
「……ポッ…ター…」
しゃくり上げながら名前を呼ぶとハリーは、前へ回されたドラコの指を自分の手でそっと包み
込んでくれた。ドラコの指、一本一本を優しく、その存在を確かめるかのように形をなぞってい
く。
「―――大丈夫…ここに…いるよ」
手の甲を持ち上げられ、口付けられた。
こんなのはおかしい。ドラコは、ハリーを慰めたいと思っていたはずなのに。それなのに泣い
ているのは自分で、戸惑いながらも宥めようとしてくれているのは、彼だなんて。
必死で落ち着きを取り戻し、乱れた息を整えようとするが、上手くいかない。そんなドラコをハ
リーは辛抱強くあやすようにしながら、待っていてくれた。
「…一回しか言わないから…よく聞いておけ」
何度も息を吸い、言いかけては飲み込んだ言葉を、やっとの思いで吐き出した。
微かな緊張が、ハリーから伝わってくる。ドラコは大きく息を吸った。
ちゃんと、伝えられますように。
「……ありが…とう…っ」
情けないくらい掠れた声に、馬鹿にされるんじゃないかと思った。おまけにこの期に及んでま
だ、プライドを捨てきれず、『一回しか言わない』なんて。どこまでも高飛車な物言いで。だけど
これが、ドラコにできる精一杯だった。
どこまでハリーに伝わったかは分からない。たった一言の『ありがとう』に、どれだけの想いが
込められているか。
「君が好きだ」
告白は、感謝の言葉より、ずっと楽に言うことができた。しかしハリーは身体を固くしたまま、
一言も声を発しなかった。それも当たり前かもしれない。彼を振り払ってまで追い縋った父が牢
に繋がれた途端、媚びる相手を変えた蝙蝠のように思われても仕方がない。
しかしどこに行こうと、罪人の烙印を押されようと、ドラコの中で父という存在が遠いものにな
ることは、ない。彼がドラコの中で絶対的な位置を占めている事実に変わりはない。もし、この
場に父が現れたら、なりふり構わず彼の足元に跪いてしまうかもしれない。それでも今、この瞬
間だけはこうしてハリーの傍にいたかった。
手に、熱いものを感じた。
気付けばハリーは小さくすすり上げていた。ドラコの手を握り締め、大切な宝物のように頬に
押し当てている。
なんて痛々しく泣くんだろう、と思った。押し殺され、閉じこめられた苦しみが、ようやく流れ出
たかのようだ。彼の苦しみが少しでも和らげばいいと思いながら、ドラコは眼鏡の隙間から、彼
の睫毛にかかった水滴をそっと拭ってやった。
「君を護るね」
ゆっくりと体の向きを変えたハリーが、今度はドラコを正面からかき抱き、囁いた。
潤み、濃さを増したエメラルドの瞳はどこまでも穏やかで、安らぎに満ちていた。
ドラコは彼と見詰め合ったまま、襟元のボタンを外した。
「ポッター…見ろ」
薄くなりかけたものではあるが、生々しい鬱血の証に、ハリーが傷ましいとしか言いようのな
い表情になった。彼を安心させるつもりで、ドラコは微かに微笑んで見せた。
「この傷は、僕が治す」
自身が持つ、治癒の力を信じて。
罪を隠すのではなく―――時間はかかってもきちんと癒していければいいと思う。自分の力
で。
「この傷が全部消えたら、真っ先にお前のところへ行く」
きっとその時、ドラコは本当に赦される気がする。
ハリーからではない。自分自身から、穢らわしく、弱い自分を赦してやれる。
そんな気がした。
緑色の瞳がいたずらっぽく笑う。
「それじゃ、約束」
小指を絡め、一瞬視線を交わらせた後、唇を合わせた。
約束のキスはとろけそうに甘く、優しく。
喜びと幸せだけに浸りながら、ドラコは何度もハリーと口付けを交わした。

あとがき
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