「あと2分待って、セブ!」
吹き抜けの螺旋階段に反響する悲鳴に、スネイプは思わず耳を押えた。
「慌てなくても大丈夫ですよ」
一応、上を向いて返事をしてみたものの、たぶん届かなかったに違いない。
スネイプは階段の踊り場にはめ込まれた鏡に映った、着慣れない燕尾服姿の自分を眺め、
改めてゲンナリした。前髪の隙間から覗く、血の巡りが悪い細面の顔は我ながら吸血鬼のよう
だった。ルシウスが貸してくれた最高級の正装も、中身がこれでは衣装負けもいいところだ。
「セブルスぅ…ちょっと来てぇ…」
頭上から名前を呼ばれたと思うと、ひょいと2階の手すりから顔を覗かせたナルシッサが、な
んとも情けない顔でスネイプを手招きしていた。内心、やれやれと思いながら階段を上りかけ
たスネイプだったが
「後ろのボタンがうまくしめられないの」
と続けられて、思わず足が止まった。
(後ろのボタン……我輩にしめろと!?)
瞬時にスネイプの脳裏を、とても人にはお見せ出来ないあんな妄想やこんな妄想がバッファ
ローのごとく走り抜けていった。
「ねぇねぇセブルス、これ直せる?」
顔を真っ赤にして固まったスネイプにしびれを切らしたのか、上階からナルシッサが駆け下り
てくる。
「うわあああああぁぁっぁぁぁぁッ! いけません、我輩がルシウスに殺されます!!」
「どうして?」
キョトン、と小首を傾げたナルシッサは珍しく取り乱したスネイプに、ビーズ刺繍のクラッチバ
ッグを差し出した。
「ほらこれ、後ろのボタンで留めるようになってるんだけど、しまらなくて…」
背面で3つのボタンを留めるデザインになっているクラッチバッグは、確かに半分口を開いた
ままになっていた。
「……なんでもありません」
冷や汗を拭いながら、スネイプは手際よくひっかかっていたボタンを外し、クラッチバッグを本
来あるべき姿へ戻してやった。
「さすがね。ありがとう、セブ! しもべ妖精に言いつけたら余計変になっちゃったのよ。セブが
いて助かったわ」
「どうも…」
暗にしもべ妖精と同格扱いされている気もしたが、ナルシッサに悪気がないことは明々白々
なので怒ることもできない。
「今何時? 急がないと遅れちゃうかしら」
「今更急ぐこともないでしょう。すでに遅刻は確実ですから」
ナルシッサは階段を降りながら、せっかくいい具合に収まったクラッチバッグをもう一度開け
て、底の方から招待状を引っ張りだすのに苦戦している。スネイプは先回りして、ダイニングの
ドアを開けて彼女を待った。
オフホワイトのイブニングドレスが、ホールのシャンデリアに照らされ優雅な光沢を放ち、高
貴な印象を与える。肩に羽織ったシルバーフォックスも、齢より幼く見えがちなナルシッサを大
人っぽく演出していた。デコルテの開きは彼女らしく控えめだが、大粒のアメジストとパールを
あしらったチョーカー風のネックレスが華やかさを添えている。
「今日は髪を下ろしているんですね」
フルーパウダーを掬いながら、スネイプが何気なく言った。特に手を入れた様子のない金髪
は、暖炉の炎を受けてキラキラと輝いている。
「そうなの、アップにしている時間がなくて…やっぱりセブルスでも気づいちゃう? おかしいか
しら?」
ふんわりと石鹸の香りがするブロンドをかきあげ、ナルシッサが不安げに尋ねた。セブルス"
でも"というのはどういう意味だろうかと少々傷付きつつも、スネイプは首を振った。
「いえ、夜会の時はまとめ髪にされることが多いようなので、たまには新鮮でいいと思います。
昔を思い出しました」
「昔って、ホグワーツにいた頃?」
「ええ」
ナルシッサはそれでも気になるのか、暖炉の上の鏡を覗き込み、しきりに髪をいじっている。
下手をすると、今からアップスタイルに直してくると言い出しかねない雰囲気だ。いくら気の進ま
ない代理出席とはいえ、さすがに自分がついていながらメインディッシュ後の到着になってはま
ずいと思い、スネイプは少々焦った。
「こうしたらちょっとはマシかしら?」
ナルシッサがサイドテーブルにかがみこみ、花瓶から一輪の花を取り上げて左の耳元に差し
た。
「水仙ですか…」
「駄目?」
深いブルーの瞳が困ったように潤んで、自分を見上げてくる。どんなに大人びたドレスを纏お
うと、こういうときの表情は昔と全く同じだ。
「綺麗ですよ」
思わず、滅多に見せることのない自然な笑みがこぼれ落ちるのを感じて、スネイプはナルシ
ッサに手を差し伸べた。
なんとか遅刻はアミューズだけで済んだヒルウェルズ家の夕食会は、客のほとんどが古くか
ら面識のある、伝統ある純血一族の当主とその妻ばかりだった。
マルフォイ家のダイニングよりも一回り手狭だが、歴史を重ねたドアや樫のテーブルの木目
にはさすが、と言わざるをえない。出される食事も、舌が肥えた客人たちを満足させるだけの
レベルは十分に保っている。
しかし自分の両親に近い招待客と共に、当たり障りのないお天気やゴシップ、聞き飽きた昔
話だけをよすがに4時間近くをやり過ごすためのセットとしては、やはり物足りないものがある。
スネイプは黙々とフォークとナイフを操り、話しかけられたときだけ最低限の受け答えをして
いる。彼にエスコートしてもらった回数は今月に入ってからだけでも片手を超える。ナルシッサ
は改めて申し訳なさでいっぱいになった。今夜ルシウスが帰ってきたら、深夜であろうと明け方
であろうと、きっちりお説教しなくては。
「シシィ、あなた香水を変えた?」
メインディッシュが運ばれてきた時、右隣に座った夫人から尋ねられ、ナルシッサはいいえと
答えた。ナルシッサを子ども時代から知る彼女は大陸風を気取ってか、ナルシッサを呼ぶとき
に、わざとらしく母音を伸ばしてシシィと発音する。
「実は今日は何もつけていないんです、時間が全然なくて」
領地内の池でヒルウェルズ氏自らしとめたという鴨肉を口へ運びながら、ナルシッサはこっそ
り告白した。
「そうなの? それにしてはとてもいい薔薇の香りが…」
「それはきっとバス・エッセンスのせいですわ」
ナルシッサは明るく言った。
「私、ローズバスが大好きですの」
「まあ、それで……」
夫人がテーブルの反対側に座る彼女の夫と目配せしあったのに気づいたが、どういう意味な
のかまでは分からなかった。
その話題はそれきり続かず、ナルシッサは特に気にもとめなかったけれど。
「それではレディの皆さんはあちらへ」
料理の皿が下げられ、テーブルについていた客人たちは揃って席を立った。食事の最中は
料理を楽しむことがかろうじてメインだが、ここからはデザートと紅茶だけでたっぷり2時間はお
しゃべりをもたせなければならないのだ。
ダイニングを出て左右の客間へ、男性と女性に別れて案内される。スネイプに小さく手を振
り、口の動きだけでごめんなさいと伝える。彼はそんなナルシッサに、口端を微かにあげただ
けの微笑みで、大丈夫と答えてくれた。
女性客が通された客間は重厚なダイニングと打って変わり、明るいピンクの花柄の壁紙が映
える、ロココ風の造りだった。
「残念ですけれど、今日はちょっと早めにお暇させていただかないといけませんの。子どもたち
と約束してしまって」
ハチミツ色のカクテルを取り上げながら、一人の女性客が詫びた。彼女はベラトリックスと同
学年で、今夜の招待客の中では若い方だったが、すでに3児の母親だ。
「子どもが小さいうちは、少々の不自由は仕方ありませんわ」
「何年も続くことではありませんし」
周りの夫人たちが口々に彼女を気遣う。なんとなく嫌な展開になりそうな予感がして、ナルシ
ッサは黙ってすみれの花が描かれたティーカップに口を付けた。
「シシィ、あなたも」
そらきた、とナルシッサは心の中で毒づいた。他人に口を出される問題ではないと思うが、そ
うも開き直れない。
「マルフォイ家とブラック家、魔法界の二大名家の発展のためにも、コウノトリのご機嫌を取ら
なくてはいけませんよ」
「あら、ブラック家の繁栄はご心配ないでしょう」
ナルシッサがどう切り抜けようか考えあぐねているうちに、横からブルネットの女性が口を挟
んだ。食事の時に出されたワインのせいだろうか、顔がやや赤い。
「アンドロメダ・ブラックとなんでしたっけ…マグル生まれの間に」
ナルシッサは頬の内側がカッと燃え立つのを感じた。
「マグルの血まで取り込んで、ブラック家はもう怖いもの無しですわね」
あからさまな嘲笑に、体が震えた。ティーカップが手の中でカチャカチャと耳障りな音を立て
る。
「マルフォイ家の方は、ここのところずい分事業に熱を入れているとか。ルシウス・マルフォイは
休み無くお忙しいようですけれど、お元気?」
アンドロメダのことを持ち出したブルネットの女性が、挑発的な薄笑いを浮かべてカクテルグ
ラスをもてあそび、こちらを眺めた。
「あまり熱を入れすぎないように忠告された方がよろしくてよ? マルフォイの名誉のためにも」
ここに招かれているような魔法界の名家は、いわば有産階級である。『労働は恥』の考えの
下、先祖の残した財産で生活している者がほとんどだ。ルシウスのように精力的に働くことは、
彼らの間では決して評価されないというのもよく知っている。だけど。
不穏な空気を感じ取ったヒルウェルズ夫人が、慌て気味にブルネットの彼女へデザートをす
すめた。
「ミセス・ブロートン、コケモモのプディングはいかが?」
「それにお仕事ばかりされていると家庭に目がいかなくなりがちですし」
ヒルウェルズ夫人が差し出したプディングの皿を無視して、彼女はさらに声を高くした。ブロー
トンという名前に聞き覚えがあるような気がして、ナルシッサは眉を寄せた。
「奥様に寂しい思いをさせるようでは夫として失格ですわ」
どこからともなくクスクスという忍び笑いが漏れる。ルシウスではなく、スネイプがエスコートし
ていることを言われているのだと思った。しかし次に発せられた言葉に、ナルシッサは愕然とし
た。
「マルフォイ家の子ども部屋は空っぽでも、遊戯室は来る者拒まずのようでしてね。混血だろう
とお気になさらない」
その手の話に鈍いナルシッサでも、はっきり分かった。ナルシッサとスネイプの間のことを揶
揄されているのだ。そして先ほどの忍び笑いや、ナルシッサがお風呂に入っていたと言った時
の意味ありげな目配せを思うと、そういった想像をしているのは彼女1人きりでは決してないの
だろう。
目の前が真っ赤になるほどの憤りと、同時に、それを正面から否定してくれる唯一の存在で
あるルシウスが、ここにいないことに対する惨めさがない交ぜになって、ナルシッサを襲う。
ティーカップをサイドテーブルの上に置き、ナルシッサは自分より一回りは上のブロートン夫人
を睨みつけた。小気味良さげな表情に、一層腹立たしさが募る。その時不意に、ブロートンと
いう名前にどうして聞き覚えがあったのかを思い出した。
「お言葉を返すようですが」
ゆっくりと、深く息を吸い込んで、波立った心を静めてから。
「主人はマルフォイの名誉にかけて、信念に基づいた行動をしていると信じております」
ナルシッサは花が綻ぶような笑顔を向けた。
「これまでに築き上げられた何世紀にも渡るマルフォイの財。それを守り、育てるために主人
はできるかぎりのことをしております」
敵の思わぬ反撃に、ブロートン夫人は面食らった様子だった。
「過ぎ去った栄光に縋り、自らは何も行動を起こさなければ、一時どのように隆盛を誇ろうと、
いずれ滅びの時がやってまいります。それこそ連綿と受け継がれてきた私たちの血と名誉に
対する冒涜ではないでしょうか。ミセス・ブロートン?」
ルシウスの仕事は、早い話が資産の運用である。労働を恥とする純血の一族は経済の動向
に疎く、莫大な財産管理も極めてずさんに行っている者が多い。ブロートン家はつい最近、ル
シウスが関わった仕事の影響で、資産の大半を失ったと聞いていた。
傷を負って吼えるだけの犬にとどめは必要ない。ただ、自分の立場を分からせてやればい
い。
「それに私、ご存知の通り目的のためには手段を選ばないスリザリン出身でして」
ナルシッサは微笑んだまま立ち上がり、薔薇の花びらが浮かんだカクテルを取り上げた。薄
いピンク色の液体が揺れるグラスを、ブロートン夫人へ軽くかかげてみせる。
「少しでも私を不快に感じさせる物事に対しては、あらゆる非情な手段を用いて、徹底的に破
滅させるまで追い詰めてしまうかもしれませんわよ?」
ブロートン夫人の顔色が明らかに変わるのを見届けてから、ナルシッサはグラスの中身を一
気にあおった。

|