私には何ができるでしょう
ゆるぎない愛情で私を包み込み こんなにも私を幸せにしてくれた あなた
他の誰にも奪われたくない たった一人 私の大切な人
愛しのドラゴン・プリンセス
ダイニングルームのドアを開けた途端、微かな違和感を感じた。
いつもと変わりない、とびきり優雅な所作で振り向いたルシウスの表情には、何もおかしなも
のなど見当たらなかったけれど。
「おはようございます、あなた」
暖炉の前に立つルシウスの元まで移動し、小さく伸び上がってこの日最初のキスをねだる。
軽く櫛を入れただけの金髪は、収まり悪くふわふわと顔の周りを漂ったが、ルシウスから数
度、なだめるように撫でられただけで、魔法でもかけられたかのように大人しく落ち着いた。
「もうお出かけの時間?」
午前6時前を指す柱時計とルシウスの顔を見比べ、ちょっぴり唇を尖らせてみる。妻に一声も
かけずにベッドを抜け出した、薄情な夫への恨み言としては可愛いものだ。12月早朝の窓の
外は、まだ陽が昇らず薄暗い。曇ったガラスの向こうに、白い雪にデコレートされた庭が見え
た。
尖がってしまったナルシッサの唇を人差し指でつつき、ルシウスは苦笑した。
「起こすのが忍びないほど、よく眠っていたんだぞ」
「クリスマス休暇もないくらいお忙しい旦那様を持ったせいで、エスコート不在のパーティー三昧
にクタクタなんですの」
スーツの上に外出用のマントを着込み、出かける準備を隙なくこなしているルシウスに、わざ
と乱暴に抱きついてやった。襟元が若干乱れてしまった気もするが、細かいことにはこだわら
ない主義だ。
「それはすまないと思っている。今夜の夕食会はエスコート相手を用意しておいたから許してく
れ」
乱れた襟元をさらりと直し、シルクのマフラーをまとったルシウスは、憎たらしいほどハンサム
だった。もっとよく見ていたいのに、ルシウスはナルシッサの頬に素早くキスを落とすとフルー
パウダーの小箱を取り上げ、暖炉へ向き直ってしまう。
「またセブルスに押し付けたわね」
「グレイバックよりましだろう。スネイプには7時前に迎えに来るように言ってあるから、それまで
には支度を整えておくんだぞ。ヒルウェルズ夫人は時間にうるさい方だから」
「いっそグレイバックをお供に連れて行って、生涯パーティー出入り禁止を言い渡されたいくら
いよ」
言っても無駄だと分かっているが、華やかなパーティー自体は嫌いでなくても、こう連日続くと
いいかげん食傷気味にもなってくる。
「我慢してくれ」
フルーパウダーを投げ入れられた炎が、破裂音と共にエメラルドグリーンに色を変える。後ろ
を向いたルシウスのプラチナブロンドが、以前自分が贈った黒いリボンでまとめられているの
を見て、朝から下降を続けていたナルシッサの機嫌はようやく持ち直した。
「イブは家にいられそうですの?」
しかしすでにエメラルドグリーンの炎に足を踏み入れていたルシウスは、返事をする前に姿を
消してしまっていた。
ナルシッサの問いかけは炎の音で掻き消されてしまったのか、それとも聞こえなかったふりを
したのか。吐きかけたため息はそのまま欠伸に変わってしまった。
このところ、ルシウスは少しおかしい。
元々家にこもっているようなタイプでもなかったが、ホグワーツ時代から学業にせよスポーツ
にせよ、何か1つに深くのめりこむというよりは、あらゆることをそつなくこなし、「ほどほどの」成
果をあげることで評価を得てきたルシウスのことである。仕事といっても適当なところで切り上
げ、ナルシッサと過ごす時間を極端に削ることなど、これまでにはなかった。
それがここ数ヶ月、週末も関係なく仕事に明け暮れ、毎晩のように零時過ぎの帰宅が続いて
いる。今朝のように朝食も摂らず、暗い内から出かけていくことも度々だ。
唯一の救いは、どんなに遅くなろうとも必ず一度は帰宅する、というポリシーを貫いてくれてい
ることだが、それにしても一昨日のように午前4時に屋敷の門をくぐるというのは関心しない。
間違いなくナルシッサに言っているだけではない何か――『仕事』があるのだろうが、それを聞
かない、というのは夫婦間の暗黙のルールだ。
「体を壊さなければいいのだけど」
まあ、一度思い切り倒れてもらえれば、しばらくは家で安静に過ごしてもらえてかえっていい
かもしれないが。
そんな呑気なことを考えていると、不意に暖炉の中の灰が音を立てて崩れ落ちた。その途
端、ダイニングに入った時に感じた違和感がなんだったのか分かった気がして、ナルシッサは
軽く開いた口元に手を当てた。
暖炉の前に敷いたラグの上を舞う細かな灰をしばらく眺めた後、ナルシッサはガウンのポケ
ットから杖を取り出して、暖炉に向けて一振りした。
先ほどの違和感の正体は、恐らく臭いだ。瞬間的ではあったが暖炉で薪を焚く時には感じら
れない、何か別のものを燃やす臭いが感じられた。ルシウスが何かを燃やしたとすれば、それ
は何のために? ナルシッサに見られてはまずいものだったのだろうか。
ルシウスの秘密を暴くような後ろめたさと不安、そして少しばかりワクワクする気持ちで、
徐々に時間を逆行していく灰の塊をナルシッサは見つめていた。
そしてナルシッサの予想通り、炎から飛び出した灰の一部は明らかに薪以外の何かの形を
取り戻していった。やがてそれは大きめの紙に姿を変え、ナルシッサの足元に広がった。
拾い上げてみると、それは今日の日付の『日刊予言者新聞』の1ページだった。政治や経済の
話でも大きな事件の記事でもない。
ただ、ルシウスが燃やしたと思われる『日刊予言者新聞』には、5人の男の子とお腹の大きく
なった妻に囲まれて、幸せいっぱいの笑顔を見せるアーサー・ウィーズリーの写真がでかでか
と載っていた。
一人きりのアフタヌーンティーを終えると、ナルシッサはしもべ妖精に命じてローズバスを用
意させた。大理石をくりぬいたバスタブに、色とりどりの薔薇の花びらが浮かんでいる。バスロ
ーブを脱ぎ捨てて、お気に入りのローズエッセンスが仄かに香るお湯に肩まで浸かると、ナル
シッサは昼寝から覚めた猫のように思い切り手足を伸ばした。
身支度を整えるために、余裕を持っても2時間。しばらくはくつろいでいられる。
バスルームは片側の壁が一面、全て鏡張りになっている。濡れた金髪を纏わりつかせた自
分の顔はひどく幼く見えた。
胸元に張り付いた薄紫色の花びらをそっと剥がし、ナルシッサは凹凸のほとんどない自身の
体を見下ろした。かろうじてくびれてはいるものの、ちっとも色っぽくないウエストラインを辿り、
ペタンコのお腹を撫でる。
「コウノトリはまだかしら」
今朝ルシウスが焼き捨てたウィーズリー家の家族写真を思い出し、ナルシッサは首を振っ
た。あの分なら遠からず、ウィーズリー家は子ども達だけでクィデッチチームが組めるようにな
るだろう。
『私はルシウスさまのためになら、なんだって出来るし、なんにだってなってみせます。クィディッ
チチームが作れるくらい子供を産んで、ルシウスさまを絶対に幸せにしてみせます』
小指を絡めて交わした約束から時は流れ、ルシウスと結婚して7年。7年といえば、子どもが1
人ホグワーツに入学して、卒業できるだけの年月だ。
それだけの時間がたったというのに、ナルシッサはまだルシウスとの約束を果たせないでい
る。そろそろルシウスの親族はもとより、ブラック家側からも子どもはまだからとせっつかれだ
していた。
ナルシッサはそうっと瞼を落とした。そうすると薔薇の甘い香りにふんわりと包み込まれる気
分になれた。
子どもが欲しいと思う。その理由は?
昔はただ、子どもが産まれればルシウスが喜ぶと、無邪気に信じていた。
でも今のルシウスは――本当に子どもを欲しいと思っているのだろうか。マルフォイ家の跡継
ぎ、という意味ではなく、ナルシッサとルシウスの間に産まれる"子ども"を。
『今はまだあなたに言えないことがある。いつか必ず―――時がきたら伝える』
未来を共に歩んでいきたいと願ったナルシッサに、ルシウスは言った。
ナルシッサには踏み込めない世界、隠されてしまった本心。ルシウスからまだ、教えてもらっ
ていない。
それはそれでいいと思う。ルシウスが秘密にしたがっていることを、無理に暴く必要なんてど
こにもない。けれど、時々不安に感じてしまうのだ。自分はルシウスにとって、重荷になってい
るのではないか、と。
ナルシッサが待っているから、どんなに遅い時間でも家に帰ってくる。
ナルシッサがお疲れ様と彼を迎え入れるから、仕事が忙しいのだと優しい嘘をつく。
彼を支えてあげたいと願うナルシッサの存在そのものが、逆にルシウスを追い詰めているの
ではないだろうか。
そこへ今、子どもという新たな負荷がかかることを、果たしてルシウスに望むべきなのかどう
か。
ナルシッサには分からなかった。

|