「Draco Dormiens Nunquam Titillandus」

 低く呟く声を、ナルシッサは朧げな意識の中で聞いた。

「なぁに?」
「『眠れるドラゴンをくすぐるべからず』と言ったんですよ」

 ナルシッサは重たい頭をそろそろと持ち上げて辺りを見回した。ついさっきまでヒルウェルズ
家の客間にいたはずなのに、いつの間にか自宅の寝室に戻ってきている。長椅子に半分横た
わった状態だったナルシッサに、スネイプが緑色の液体が入ったワイングラスを差し出した。

「私、今夜はこれ以上飲みたくないわ」
「酔い覚ましですよ」

 促され渋々口を付けると、苦味のあるミントの香りが広がった。途端にぐつぐつと静かに沸騰
していた頭の中が、すうっと冷却されていくのを感じた。

「セブ、私のこと運んでくれたの?」
「大丈夫でしたよ」

 答えになっていない返答は、けれど全ての答えを含んでいて。

「ありがとう」

 もう一口グラスの中身を飲み込んで、ナルシッサは小さく微笑んだ。きっとおしゃべりな女性
客たちから、おおまかな事の顛末は伝わっているのだろう。

「さすがはドラゴン・プリンセスと皆が言っていましたよ」
「その呼び方、嫌いよ」

 激しいナルシッサの口調に、スネイプが驚いた顔でこちらを振り向いた。

「セブルスは、その呼び方の理由を知ってるの?」
「いいえ。ベラトリックスがたまにあなたのことをそう呼んでいるのを聞いていただけです」

 ナルシッサは手に持ったグラスの中身を見つめた。ミントの芳香が、瞬間的に昂ぶってしまっ
た神経を落ち着かせてくれる。

「私の家――ブラック家では子どもに名前を付けるとき、その子が生まれた瞬間、最も高い位
置にあった星の名を選ぶの」

 ベラトリックスの時はオリオン座。シリウスはオリオンの猟犬、おおいぬ座から。レギュラスは
『小さき王』を意味する獅子座の一等星だし、アンドロメダは星座の名前そのものだ。

「私のとき、なんだったと思う?」
「――竜座ですか」

 がっくり首を垂れて、正解、と呟く。
 強靭な男子ならばまだしも、全てを破壊しつくす狂暴な生き物として畏れられるドラゴンを、生
まれたばかりの女の子の名前に付けるわけにはいかない。まして竜座は勇者ヘラクレスと戦っ
た、100の首を持つドラゴンを見立てた星座である。
 母はそれでも慣習に従い、なんとか星にちなんだ名前を付けたがったらしいが、結局最後ま
で大反対した父の意見が通り、ブラック家の血を引く者の中でナルシッサだけは唯一、星では
なく花の名前を与えられた。

「それにしたってナルシッサ、よ。自分の両親ながらセンスを疑っちゃうわ」
「何故です」
「だって」

 何故なんて、聞くまでもない。同じ花の名前でも、ローズマリーとかマーガレットとか、もっと可
愛らしい名前はいくらでもあったはずなのに、よりにもよって『自己愛』だなんて。



「自分を愛せないものには他人も愛せませんよ――私のように」



 え? とスネイプを見上げると、彼はちょうど部屋の片隅のティーセットでナルシッサに紅茶を
いれるために、後姿を見せていた。

「…でも私、やっぱり自分のことしか考えられないのかもしれない」

 ポツリと呟き俯いてしまったナルシッサを、スネイプが不思議そうに見つめた。

「ルシウスの子どもが欲しいの」

 ワイングラスと交換で、馴染みの手描きの水仙があしらわれたティーカップを受け取った時
に、思わず零れてしまった、本当の気持ち。

「自然なことではありませんか」

 ううん、と首を横に振ってナルシッサは続けた。

「前はルシウスのために子どもを産んであげたいと思っていた。彼を喜ばせてあげられると思
って――でも今は違うの。私が彼の子どもを欲しいと願っているだけ」


 ルシウスの気持ちや、彼が置かれている状況まで思いやることなどできない。
 ただナルシッサが彼の子どもを産みたいと……2人の間に生まれた子どもを、この腕にしっ
かり抱き締めたいと、いつのまにかこんなにも強く、願うようになっていた。
 しかしそれは、ナルシッサの勝手に過ぎなくて。


「ルシウスが今どこで、何をしているか私は知らないの。もしかしたらすごく危険な目にあってい
るのかもしれないわ。でも私には何もしてあげられない―――なのにそれでも子どもが欲しい
と願わずにいられない。子どもが生まれたら、ルシウスが今よりもっと色んなものを抱えて、大
変になってしまうって分かっているのに」

 目頭が熱く、じんわりと潤む。瞬きしたら、涙が頬を転がってしまいそうだった。

 自分の無力さと、身勝手さと―――いたたまれないほどの寂しさで、胸が苦しくて。苦しくて。





「ドラゴンというのは一般に、暴れだすと手に負えないだけの生き物だと思われているようです
が」

 スネイプの手が伸びて、肩から落ちかけたナルシッサのケープをかけなおしてくれた。


「彼らは非常に愛情深い」



 深い闇が隠れる漆黒の瞳がほとんど優しいとさえ思える色合いで、ナルシッサを映し出して
いる。

「ドラゴンに近寄るのが最も危険だと言われているのは、産卵の季節です。彼らは卵を守るた
め、巣にあらゆる外敵を遠ざける工夫を凝らし、それでも一度愛するものに危機が迫れば、強
い魔法力を秘めたその身を挺して戦うのです」

 肩に添えられた両の手には、決して力など込められていないのに。


「あなたにこそ相応しい称号だと思いますよ――ドラゴン・プリンセス」


 おとぎ話に出てくる騎士もやはり、こんな風に力強い手をしているのだろうか、なんて考えてし
まいそうになった。


「傍から見ていると、あなた方は本当にお似合いですよ」

 まるで小さな子どもに言って聞かせるように穏やかな口調で、スネイプは言った。

「お互いのことを自分以上に愛して―――あなたたちなら2人並んで、光に照らされた道をどこ
までも歩いていけます」
「セブは?」

 優しいくせにどこか哀しげなスネイプに、思わずナルシッサは縋った。

「セブルスも一緒よね? ずっと私たちと一緒にいてくれるんでしょう?」

 スネイプはほんの一瞬、どう答えるべきか戸惑ったような表情を浮かべたが、やがてゆっくり
と頷いてくれた。

「もちろんです」

 彼が言いよどんだもう1つの答えは気になったけれど、それでもその一言がやっぱり嬉しく
て、ナルシッサはスネイプの首に腕を回した。

「ずーっと一緒よ。約束してね」

 体をピッタリ寄せて、子どものころそうしたみたいにぎゅっと力任せに抱き締める。たくさんの
感謝と大好き、の思いを込めて。


「何を約束するんだ?」

 突然寝室のドアが開いたかと思うと、不機嫌極まりない声が2人の間に落ちた。スネイプがビ
クッと体を震わせて、ナルシッサに抱き締められたまま恐る恐る背後を振り向く。

「あなた!」

 勢い良く立ち上がり、ルシウスに思い切り抱きつこうと手を広げたナルシッサだったが、不意
に眩暈に襲われよろけると、ベッドに手を付いてしまった。

「何をやっているんだ」
「ごめんなさい…ちょっと……気分が悪くて」

 呆れたようにナルシッサの腕を取って立たせようとするルシウスを制したのは、意外にもスネ
イプだった。

「ルシウス、今夜のことはまた後日改めてご報告します。我輩はこれで失礼いたします。それか
ら」

 苦虫を潰したような顔で自分を睨みつけるルシウスの視線を極力避けながら、スネイプは続
けた。

「明日は仕事を休まれることをおすすめします」
「なんでだ」
「一緒行かれた方がいいでしょうから…病院へ」

 しばらくの沈黙の後、ナルシッサが膠着状態の2人の男を見比べながら、おずおずと尋ね
た。

「どこか悪いの? 私」







「メリー・クリスマス!」

 ボン、と派手な音を立てて、ベラトリックスが暖炉から飛び出してきた。

「ベラ! 聞いてよルシウスったら酷いのよ!」
「酷くない! 私はただ常識というものを考慮してだな…」

 どうやら自分は妹夫婦の修羅場に登場してしまったらしいと、ダイニングの床へ暖炉の灰を
払い落としながら、ベラトリックスは察した。だからといって、出直そうだなんて考えるどころか、
面白そうとワクワクしてしまうのが関の山なのだけど。

「なによ、コウノトリがクリスマスプレゼントを運んできた家庭にしては不穏な空気じゃない?」

 ニヤニヤと笑いながら2人の顔を見比べる。珍しく結構本気でやりあっているらしく、ナルシッ
サの目もとは潤んでいるし、ルシウスも額に血管が浮かんでいる。

「だってね、ルシウスがセブに名付親になってもらっちゃダメって言うの!」
「そりゃダメだわ」

 ベラトリックスは妹の言い分を一刀両断した。いじりがいのある義弟となんだかんだ可愛い妹
とでは、どうやっても妹の肩を持ってしまうことが多いベラトリックスだが、今回ばかりはナルシ
ッサの分が圧倒的に悪そうだ。
 スネイプに勧められセントマンゴへ赴いた妹夫婦が、めでたい知らせをもらったのはつい先
日のこと。一番最初に気づいたのが、ナルシッサに抱きつかれたスネイプだったというのが、
ルシウスはひどくお気に召さない様子だった。

「ベラまで酷い!」
「馬鹿ねぇ。名付親なんて楽じゃないのよ? 名付子の誕生日やらクリスマスやら入学やら卒
業やらの度にプレゼントを贈って、産みの親に万が一のことがあったら責任を持って子どもを
引き受けなきゃならないんだから、押し付けられたって百害あって一利無しよ。大体あの根暗
薬学オタクにそんな甲斐性あるもんですか」
「ベラトリックスの言うとおりだ」

 最後の方のスネイプへの罵倒にはさすがに胸が痛んだが、ここぞとばかりにルシウスも畳み
掛ける。

「別にプレゼントなんて必要ないし、私とルシウスに何かあった場合はセブルスを遺産相続人
にしておけば問題ないでしょ」
「いや、問題大有りだから」

 ふくれっつらをする妹に、半ば呆れ、半ば面白がりながらベラトリックスは言った。

「大体なんでスネイプなのよ。あんな不幸が服着て歩いてるような辛気臭いのが名付親になっ
たら、子どもまで不幸体質で人生お先真っ暗確実よ?」
「だって私、この子に付けたい名前があるんだもの」

 ナルシッサがお腹を押えて、意地でも引かないという構えを見せる。

「何よ、まさかセブルスとか言い出すんじゃないでしょうね」
「違うわよ! セブはヒントをくれただけ。男の子だったら絶対に付けたい名前なの」
「付けたい名前っていうけど、実家じゃパパとママが今から最新版の星座表を取り寄せるって
大騒ぎしてるらしいわよ」
「いや、星から名前を取るのはブラック家のしきたりだろう! 私の子どもなんだから名前は私
が決める!」

 姉妹の言い合いにルシウスが慌てて割って入ってきた。さすがドクターの口から『2ヶ月です、
おめでとうございます』と言われた直後、感動のあまり踊り回り、ナルシッサがこのまま精神科
に連れて行くべきか真剣に悩むほどの大騒ぎを繰り広げただけある、とベラトリックスは思っ
た。

「あなたの子どもでもあるけど、産むのは私なんですからね、男の子だったら絶対に私が決め
た名前にさせていただきます!」

 ダイニングのテーブルを、ティーカップが跳ねるほどの勢いで叩くナルシッサは、なんだかと
ても逞しい。母は強しとはよく言ったものだ。
 ナルシッサの剣幕に口ごもったルシウスを見て、ベラトリックスは笑いをこらえて妹に尋ね
た。

「男だったら付けたい名前って言ってたわよね? 女だったらどうするつもり?」

 ナルシッサは目を丸くして、数回瞬きを繰り返したが。


「女の子だったらセブルスにお婿さんになってもらうっていうのはダメ?」




 クリスマスの朝からマルフォイ邸に、男女2人分の盛大なブーイングが響き渡った。









2007年の締めくくりはやっぱり大好きーなルシナルで。
大切な人へ大切な思いを込めて。これからもずっと、大好き。