それは音というよりも震動だった。
 音を伝える空気の震えが、壁を伝い、屋敷全体を揺さぶった。
 発声源である屋根裏は、惨憺たる有様になっていた。押し込められていた年代物の家具の
大半は木片と化し、妖しげな骨董品の数々の残骸が、その上に散乱している。
 爆風により半分近く吹き飛ばされた屋根の合間から見える、吸い込まれそうに青く、澄んだ
空の下、ハリーは肩を上下させて荒い呼吸を繰り返した。開ききった瞳は、仰向けに倒れたト
ンクスに釘付けとなっている。
 死なせてはいないと、思う。
 込める魔力の抑制が効かなかったとはいえ、あくまでもハリーが唱えたのは武装解除呪文に
すぎないのだから。
 しかしトンクスがほんの僅か、瞼を動かす様子も見せないのを見ると、先ほど自分がそうした
ように、気絶したふりをして体勢を立て直そうというわけではないみたいだ。
 なぜただの武装解除呪文が、ここまでの破壊力を持ってしまったのか……ハリーはいつしか
握り締めていた写真に、視線を落とした。
 まだ顎の線が、そこまでとんがっていないドラコを写したそれは、ハリーの手の内にあったお
かげで破損を免れている。



『あなたに怪我をさせたいわけじゃないの』



 震える手で杖をハリーの喉元に押し付け、トンクスはハリーに必死で言い募った。



『お願い。ウィゼンガモットに行かないで、ハリー。あなたは正義心が強いから…それが悪いだ
なんて思わない。だけど正しい道が、いつも人を幸せにするとは限らないのよ』



 それから彼女はドラコに関係する、ハリーが知らなかった様々な事を取りとめも無くしゃべり
だした。
 魔法省は闇勢力の残党に渡る恐れがある、という理由をつけて、死喰人たちの家財を没
収、管理する方針を固めていること、ウイルトシャー州にあるマルフォイ家の邸宅などもすでに
その対象とされていること、アズカバンに繋がれて久しいルシウス・マルフォイは今後、死喰人
の指導的立場にあったとして科せられる刑は更に重くなりこそすれ、生きて出獄できる見込み
はないだろうこと、彼の妻ナルシッサは死喰人としてマークされているわけではないが、ドラコ
がホグワーツを去った時期と前後して行方が分からなくなっており、数人の闇払いを中心とす
る魔法省のチームが捜索に当たっているものの、未だ所在を確認できていないこと―――新
聞には載っていなかったそれらの情報は、トンクスが闇払いの立場にあり、かつマルフォイ家
とも近い血縁関係にあるからこそ、知り得たものなのか、それとも彼女自身が奔走し、懸命に
収集したものなのか……恐らく両方なのだろうが、ハリーはその圧倒的な量に、ただ驚嘆する
しかなかった。
 トンクスにできたのだ。ハリーにできなかったわけがない。それなのになぜ、やらなかったの
か……ハリーが魔法省にちょっと頭を下げさえすれば、欲しい情報はもっと早い内に全て、手
に入っていたはずだ。それなのに、ハリーはまた動き損ねた。
 馬鹿みたいに血眼になって、逃げた小鳥を追いかけているんだと、気付かれたくない。何の
役にも立たないちっぽけな自尊心を、後生大事に取って置いたりしたせいで。
 そんなもの、捨てておくべきだったのだ。ドラコが一度でも、ハリーの腕に身を委ねてくれた、
あの瞬間に。



『何十年も塀の中に閉じ込めるのが、マルフォイの幸せだって言うの?』



 咽喉を糸で絞られたような声で問いかけると、トンクスは力無く首を振った。

『あの子はたぶん、アズカバンには行かないわ』

 睫毛に載った涙の粒を、数えられそうなほど近くに、トンクスの顔はあった。細くしなやかなプ
ラチナブロンドが、ハリーの頬に触れそうになる。



『アズカバンもディメンターを失った今は、マグルの監獄と変わらないわ。むしろ警備の面で劣
るくらい…まだ公表はされていないけど、脱獄のリスクを犯してまで、危険分子を生かしておく
必要はないと魔法省は判断して、決定したの―――裁判が終わり次第、死喰人は神秘部に引
き渡すって』



 頭からスッと逆流した血が、耳の奥で沸き立つのを感じた。獲物を誘き寄せるかのように薄
気味悪くはためく黒いヴェールと、水槽の底に沈められた無数の脳を思い出し、背筋に悪寒が
走る。

『神秘部は生と死の境界を知り尽くしてる…だからきっと考えられる限り、一番楽に死ねるわ』



 トンクスの瞳は再び溢れ出した涙でいっぱいで、本当に苦しそうな、辛そうな貌をしていた。い
つだったか鏡越しに垣間見た、背を丸め、トイレの片隅で泣いていたドラコと同じ顔だと思っ
た。
 あの時ハリーが、ドラコに抱いた感情は同情や哀れみではなく、むしろ憤りと猜疑だった。



―――どうして泣いたりするんだ。どうして僕のところへこないで、一人で泣いてるんだ……!



 もしもハリーがあの時もう一度、ドラコに手を差し伸べていたら、今、こんなに悲しい思いをす
ることなんて、なかった。
 夢に彼の姿を見ては、虚しく目覚める夜もなかった。
 トンクスの涙だって、見ることはなかった―――彼女はいつも通り、明るいピンク色の髪の毛
をくしゃくしゃにして、笑っていただろう……ひょっとしたら、同じように笑っているドラコの隣で。





『あの子をこのまま、逝かせてあげて―――』





 敬虔な祈りを捧げるように、トンクスが頭を垂れた。その瞬間、ハリーは迷わず目の前の杖
を払いのけた。そして―――……
 どこからか、子守唄が聞こえてくる気がした。粉々に砕け散ったオルゴールは、もう二度と音
を立てるはずもないのに。しかしそれもやがて途絶え、バタバタと階段を駆け上がってくる物音
に掻き消されていく。
 勢い良くドアが開けられ目を開けると、爆発音を聞いて駆けつけたらしいハーマイオニー、ロ
ン、ルーピンがあっけに取られた顔をしていた。
「…何があったの?」
 ハーマイオニーが恐々、屋根裏部屋を覗き込み、床に臥したトンクスを見て悲鳴を上げた。
 しかしハリーは気にもしなかった。自分が見つけたものが、直感的にこの状況を打破する助
けになると分かっていた。
「―――トンクスに謝っておいて」
 巻き付く邪魔な布切れを剥ぎ取り、ハリーはそれに跨った。

「それから、心配しないでって」

 シーカーだったドラコが愛用していたニンバス2001は、かつて彼が身につけていた厚手のロ
ーブが犠牲になったことで、大した傷を負わずにすんでいた。
 敵チームの象徴でしかなかったニンバス2001に、ハリーが乗ったことはない。触れるのだっ
て、もしかしたらこれが初めてかもしれない。
 だけど乗れない、だなんて考えもしなかった。あるのはただ、早く行かなければという思いだ
けで。



「ハリー!」



 ザラついた埃の感触がする床を蹴り上げ、一気に天井近くまで浮かび上がった。ぽっかり、
穴を開けてしまった屋根の先に広がる空へ躍り出ようとした時、名前を呼ぶ声に思わず動きを
止めてしまう。

「どこに行くの?」

 振り向くと、ルーピンがトンクスを抱き起こし、戸惑ったようにこちらを見上げているのが見え
た。ハーマイオニーとロンはハリーの真下で、降り注ぐ太陽の光を眩しそうに受けている。そし
て屋根裏の入り口に、燃えるように赤い髪が見えた。彼女だけは下を向いている。ほんの少
し、胸が痛んだ。



「―――ごめん、ジニー」



 自分にしか聞こえなかったんじゃないだろうか、というくらい小さな呟きが、彼女に届いたかど
うかは分からない。
 けれどハリーは振り切るように背を向けると、あとは真っ直ぐに前だけ見つめてグリモールド
プレイス十二番地から、青い空を目がけて飛び立っていった。
 同じ空の下、自分を誰よりも必要としている―――そして自分が誰よりも欲している、彼の元
へ。










 裁判は恐ろしく単調に続いていた。
 何度となく繰り返される、同じ質問―――返答のちょっとした言い違いを咎められては、再び
事実関係を確認させられる。
 劇的な展開への期待を裏切られた傍聴人はおろか、陪審員たちの方にもそろそろうんざり
だという空気が漂い始めていた。しかしドラコは努めて冷静に、尋問官からの質問に対して答
えるだけだった。ありのままの、事実を。
 今更なにも、隠すことなんてなかった。

「なぜ、従った」

 しかしヴォルデモートの命に従った理由を聞かれた時、それまでにない躊躇いが、ドラコを襲
った。
 家族を殺すと脅された―――そう言うのは簡単だ。嘘ではない。ヴォルデモートが意に沿わ
ない人物を従わせる時、もっとも頻繁に用いてきた方法だ。ドラコもまた、例外ではなかった。
 けれどそれをこの場で口にすることを、拒否する思いがどこかにあった。
 法廷にはドラコの見知った顔がいくつもある。そのほとんどは、ルシウスを介して知ったもの
だ。ルシウスの『友人』だった者たちも……幾人かは一段高くなった階段状の陪審員席で、赤
紫のローブにWのバッチを光らせている。
 ルシウスによってドラコがさせられてきたことを知っている者の前で、家族を守りたかったと主
張するのは、滑稽な茶番のように感じられた。

 ドラコにとってマルフォイの『家』は全てだった。たとえその家の名の下にどれほど理不尽な行
いを強要されることがあろうとも。その思いは今も変わらない。それどころか両親と離れ離れに
なって以来、日ごとに増してさえいる。
 そんな思いなど、あの家を外から眺めているだけの他人には解りはしないだろう。理解を求
めも、期待もしていない。この気持ちは、自分の中でだけひっそりと持っていられればいい、そ
う思っていた。
 だから、ドラコは言い出せなかった。
 家族を殺されるのがたまらなく怖かった…そう告げたとき、あからさまに嘲笑されるのではな
いかと思うと、舌が凍りついたように動かない。

 随所に破綻の影が見えていた不自然な父子の関係でありながら、なお父親を愛していると?
 父の背中に隠れ、息子に一切手助けを与えなかった母親を守るために、自らを危険に晒し
たと?

 自分が過ごしてきた、どこかおかしな家族のあり方を知る人々に、そう嗤われるのは耐えら
れない。まるで両親や、彼らとの思い出まで、汚されてしまうような気がして。
 ドラコ自身、これが他人と共有できない複雑な感情だと分かってはいたが、この思いを否定さ
れるくらいならいっそ、誰にも見せずに自分の中に埋めておいてしまいたかった。


「黙秘ということは、自らの意思で『あの人』に従った……我々はそう理解するが…」

 静かに睫毛を伏せ、俯いてしまったドラコに尋問官が冷たく言い放つ。その時、ガラスの割れ
る音がした。

(え……?)

 高い天井に反響した金属質の音に驚いて見上げると、次の瞬間、ウィゼンガモットのWと公
正を示す天秤を描いたステンドグラスが、大音響と共に崩壊した。
 女性の甲高い金切り声が上がる。傍聴人席は慌てふためき立ち上がり、身を守るべく椅子
の下に潜り込んだり、逃げ出そうとドアに殺到してぶつかり合ったりする人々で、一瞬にしてパ
ニックに陥った。静止を呼びかける廷吏の大声が、混乱にむしろ拍車をかけてしまう。
 腕さえ重い鎖によって絡め取られているドラコは、けれどどうすることもできなかった。鳥篭を
模した被告人席の中で、降りしきるガラスの破片を全身に浴びるしかない―――そう覚悟を決
めた次の瞬間、ドラコはキラキラと光を反射しながら舞い散る、色鮮やかな無数のガラスの真
ん中に、黒い影を見つけていた。



(―――――ッ……!)






 幻を見ているのだと思った。
 優に十階分はあろうかという高さから、急降下してくる黒い影。
 まだ遠くて、顔なんて見えるはずもないのに、ドラコにはそれが『誰』なのか、はっきりとした予
感があった。
 彼の飛び方は、よく知っている。何度も見た。姿勢は低く。思い切り加速できるように。自分で
は気付いていないだろうけど、スピードをつけて上空から地面へ向かう時、ほんの少しだけ右
に傾いてしまう癖。教科書通り、お手本のようなスタイルではないのに、どうしようもなく惹き付
けられる飛び方。

 彼と視線が合った―――と思った途端、彼はドラコに向かって空中から杖を向けた。杖先か
ら発せられる光に、ドラコは眩しさと恐怖から目をきつく閉じる。それらの出来事は全て数秒の
内に起きたのだが、まるで映画のスローモーションかのように一つ一つ、くっきりと鮮明に網膜
へ焼きついた。
 再びドラコが目を開けたのは、派手な衝撃音を合図にしてだった。
 恐る恐る目を開けると、目の前の床に砕け散ったステンドグラスが小さな山を築いている。法
廷内は相変わらず混乱の坩堝で、悲鳴と怒号が飛び交っている。
 だが、ドラコの耳には何も届かなかった。周囲の一切が音と色彩を失い、遠ざかっていくよう
な気がした。自分の周りだけ、急激に時が遡って行く気がする。



『…助けが必要なら、そう言って』



 ドラコは彼の名を呼ばなかった。助けて欲しいだなんて、一度も言わなかった。
 なのに、なんで彼が、ここに。



 ガシャリ、と山が崩れた。その下からピンピンはねた黒髪が這い出てくる。
 くしゃくしゃの前髪の下から、緑色の瞳が真っ直ぐにドラコを射抜いた。



『君を護るね』





「――――やあ」






 体からガラスの破片を叩き落としながら、彼はゆっくり立ち上がった。
 そして、不思議なくらい柔らかく、優しく微笑んだ。






「遅れてごめん」





 それは二年前、ドラコに向けられたのと全く同じ―――ハリー・ポッターの笑顔だった。