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埃っぽい床に倒れこんだハリーへ、彼女はゆっくりと近付いてきた。
未だ音を鳴らし続けるオルゴールを拾い上げ、蓋を閉じる。
屋根裏部屋に静寂が訪れた。
「ごめんね。手加減、できなかった」
彼女がこんなに感情の無い声を出すだなんて、知らなかった。
握り締めていた日刊予言者新聞と数枚の羊皮紙を、するりと抜き取られる。
そしてハリーは空気の動きで、自分に向かって再び杖が向けられるのを感じた。
「オブリビ……」
「ステュービファイ!」
二度目の呪文を唱えられる前に、ハリーは敏捷な動きで立ち上がった。体の下でひそかに
構えていた杖を振り上げ、無我夢中で失神術を繰り出す。
突然の反撃に彼女は目を見張り、咄嗟に赤い閃光を避けようと体を大きくひねった。反射的
に高く持ち上げられた両の腕から、よろめいた拍子に抱えていたオルゴールが取り落とされ
る。オルゴールは一度床にぶつかった後、勢い良く跳ね上がり―――次の瞬間、ザアっという
音と共に、その小さな箱からは想像もつかないほど、たくさんの物が飛び出してきた。腕時計
やピンバッジ、歯ブラシとコップ、新聞や雑誌の切り抜き、それからホグワーツの制服が一揃
い。いずれもスリザリンの……深緑の裏地が見えるローブは、何かを保護するように包んでい
る。端から覗く黒い柄は間違いようも無く―――ニンバス2001のそれだ。
うめき声に、慌てて杖を構え直す。埃の舞う床の上で、彼女は数度咳き込んだ。
「どうして」
床に座り込んでいた彼女が顔を上げる。蒼白の面を、淡いプラチナ・ブロンドが縁取ってい
た。その表情に奇妙なほど既視感を覚えた。
「どうして…君がこんなこと……」
緊張が喉元まで混みあがってくるのを感じながら、ハリーはしっかりと杖を握り直し、彼女に
照準を合わせた。
「どういうことか説明して―――トンクス」
鍵が一斉にかけられると同時に、四方から喉元へ槍が突きつけられる。
それは決して鋭利なものではなく、あくまで威嚇を目的に作られたものだということは分かっ
ていたが、それでも尚、全身の神経が反射的にピクリと波打った。
足元から金属を擦り合わせる不快な音を立てて、重たい鎖が這い登ってくる。
そこまでしなくても、どうせ逃げられやしないのに……ふくらはぎに食い込む金属の感触に、
ドラコは眉をしかめた。
けれど自分を裁く側にとって、これは必要不可欠な舞台装置なのだろう。
傍聴人席は世紀の大魔法使い、ダンブルドアを殺害した犯人を、あるいは名門と賞された純
血の末裔の行く末を、一目見ようと集まった者たちで埋め尽くされている。彼らはここで、魔法
省が正義に乗っ取り裁きを行うのを目撃する、という任務を負った大切な証人だ。
ドラコは突き刺さる注視の一切を無視して、チラリと頭上を見上げた。
時間の経過に従い、その色を少しずつ変えていく魔法をかけられたステンドグラスから、薄く
色づいた光が降り注いでいる。かつては冷たい灰色の石壁に囲まれた、地下牢のような造り
だったこの法廷は先日、改修を終えたばかりだ。被告人席が中央に置かれ、三方を傍聴人席
が取り囲み、前方に一段高くなった陪審員席、という基本構造に変化は無い。しかし魔法省の
中で最も暗く、低い場所というマイナスイメージを払拭しようとでもいうのか、天井を恐ろしいほ
ど高くしてある。今朝読んだ日刊予言者新聞には、第十号法廷の天井はアトリウムがある地
下二階の床部分に相当している、とあった。ステンドグラスから降り注ぐキラキラとした輝きの
向こう側は、人工的な光にすぎないのだと思うと、なんだか不思議な気がした。
一人の男が立ち上がり、陪審員のバルコニー席に向かった。途端にざわめきが途切れ、法
廷は水を打ったようにシンと静まり返った。
羊皮紙を手にした男は、バルコニーの上から鳥篭のような被告席へ一瞥をくれることもなく、
お定まりの文句を口にした。
「これより開廷する」
「―――ドラコ・マルフォイの公開裁判へ、証人として出廷を願いたく―――…なんだよこれ…
僕はこんなの知らなかった。これも君が隠したの!?」
先ほど、日刊予言者新聞と共に取り去られようとしていた羊皮紙に目を通し、ハリーは声を
荒げた。文末の日付は八月一日、魔法大臣とウィゼンガモットを取り仕切る数名の魔法使い
によるサインもある。宛先はもちろんハリーだ。
トンクスは俯いたまま、押し黙っていた。
「僕に…マルフォイのことを知らせないようにして、何のつもり…それにこれ…」
床に散らばった細々とした品物にチラリと目をやり、ハリーは言葉を飲み込んだ。その先を
続けるのが怖い気がした。
「……別にわたしがあの子の持ち物を持っていたって、不思議じゃないでしょう」
しばらくの沈黙の後、抑揚の無い言い方ではあったが、ようやくトンクスが口を開いた。
「…従兄弟…だったっけ」
乾いた唇を舌で湿し、ハリーはどうにか答えることができた。たとえトンクスと彼女の母親が
家系図から抹消された存在であろうとも、法律の上でトンクスとドラコは従兄弟の関係であるこ
とは揺ぎ無い事実だ。ドラコがホグワーツに『置いていった』品々を、あの時点で引取りに来ら
れる最も近しい縁者…そう考えれば、トンクスが選ばれたとしても不思議ではない。
けれど、ハリーにはどうしても信じられなかった。ハリーの知っているトンクスは、注意力散漫
で、同じ失敗を何度も繰り返してしまうような軽率さを持ってはいたが、決して人を陥れたり、他
者を不幸にして喜ぶといった残忍さを感じさせる人物ではなかった。それなのに今、ハリーの
眼前の彼女は、かつて見たことが無いほど暗く、淀んだ目をしていた。
トンクスがどんな心境なのか、ハリーには分からなかったが、内面の変化が最も顕れやすい
という彼女の髪は、風船ガムそのもののピンク色から、ほとんど銀糸に近いプラチナ・ブロンド
に変化している。長さも急激に伸び、ウェーブのかかった髪の毛だけはこの場に相応しくなく楽
しげに、トンクスが身じろぎするたび、ふわふわと揺れた。
不意に、先ほど感じた既視感が、ハリーを襲った。
「―――じゃ…ないわ…」
「え…?」
急にトンクスが身を起こし、ハリーに向かい杖を振るった。それは全く予期していない事では
あったが、実践の経験が、ハリーを救った。考えたりするより早く防御呪文が口を吐き、トンク
スが仕掛けてきた魔法に対抗する。
二人の杖から飛び出た光線が拮抗し合う、次の瞬間、ハリーの脳裏に次々と断片的な光景
が、スクリーンに映し出される映像のように入り込んできた。
(……これは…?)
フローリングの狭い廊下に、クマのぬいぐるみがぽつんと置かれている。手作りなのか、目
が片方ずつ、違う色のボタンだ。それに向かって小さな手が伸ばされる。
クマの腕を掴んだ途端、チャイムの音がした。廊下の先の玄関へ、視点が移動する。廊下の
脇のドアが開き、女の人が出てきた。後姿で顔は見えなかったが、栗色の豊かな巻き毛を背
中に垂らしている。彼女がドアを開け―――全身を硬直させるのが分かった。
ドアの向こうにいる人物は、陰になっていて窺い知ることができないが、そのシルエットからか
なりの長身のように思える。
『なぜ…』
女の人が発した声は震えていた。
『なぜ、ここに…』
『それは私の台詞だろう』
低く押し殺した相手の声に、聞き覚えがある気がする。
『なぜ私から逃げた。なぜ君がこんなところにいる…アンドロメダ』
女の人がびくりと体を慄かせ、必死で戸口から逃げようと身を揉む。しかし相手は彼女の肩
と腕をしっかりと掴み、放そうとしない。
『言ったはずだ、私が愛しているのは君だけだと…その思いは今も変わっていない』
懸命に耳を澄ますが、どこからか伝わってくる物悲しげなメロディーが混ざって、彼らの会話
がよく聞きとれない。
『止めて…止めて頂戴、私を責めないで…もう私をあなたから自由にしてください! お願いだ
から、ルシウス―――』
微かに音の狂ったオルゴールのメロディーは、子守唄を奏でていた。
「見たの?」
ハッと我に返ると、トンクスが真剣な眼差しで杖を突きつけていた。
静かに頷き、そっと後退りする。ハリーも自分の杖を握り直し、トンクスがいつ攻撃してきても
対峙できる構えを取った。
「今のは…」
「私が七歳の時、弟か妹が生まれてくるってって言われた」
ハリーの言葉を遮り、トンクスが話し始めた。相変わらず暗い―――否、さらに暗さを増した
瞳の色で。
「パパもわたしも凄く喜んで、楽しみにしていた……だけど病院から戻ってきたママは悲しそう
に言ったわ。弟は天使たちが連れて行っちゃった―――って。わたしがあんなに泣いたのはた
ぶん、初めてだった」
耳元で心臓がドクドクと音を立てる。言わないで! と、ハリーは叫びだしそうになった。どう
か、続きを言わないで、と。杖を握った拳の内側を、汗が伝った。
「さっき見られた『記憶』は、私の中から消えたわけじゃなかったけど、特に思い出すほどのも
のでもなかった……ママの部屋で、オルゴールを開けてしまうまでは」
二度も落とされた衝撃のせいか、縁の辺りに皹が入ってしまったオルゴールへ、トンクスは目
線を落とした。
「ママはよく、夜になると一人で台所に行って、あのオルゴールを聴いて…泣いてたの。どうして
泣くの? って聞いたらママはなんて答えたと思う?」
溜めていた息をフッと吐き出し、トンクスは呟いた。
「『これは鎮魂歌だからよ』」
子守唄を聴きながら、生まれてこられなかった子供を想う。その腕に抱いて歌ってやることが
できなかった子供のために、鎮魂歌として―――
「わたしの中で長い間そのオルゴールは大好きなママの、決して踏み込んではいけない部分だ
ったわ。少し寂しかったけど…仕方ないと思ってた。ママはわたしだけのママじゃないんだから
…わたしと、わたしの弟のママだから、きっとあのオルゴールは『弟のためのママ』に必要なも
のなんだと思って……我慢したの」
トンクスはしゃがみこみ、床から何か拾い上げた。
「だけどオルゴールの中にこれを見つけた時……思い出したの。あの日、何があったか」
急に右手を差し出されて何事かと身構えたが、トンクスが手にしていたのは一枚の写真だっ
た。
中の人物が動かないところを見ると、マグル式のやり方で現像されたものらしい。古いものな
のだろう、大分色褪せていた。人物の目線がレンズを向いていないから、こっそり撮られたも
のなのかもしれない。その写真を一瞬、六歳くらいのトンクスじゃないかと思ってしまったこと
に、ハリーは自分でも驚いた。写っているのは金髪にブルーグレーの瞳の男の子で―――どう
あっても、トンクスではなくドラコの面影を漂わせていたのに。なぜそんな印象を受けてしまった
のか、とトンクスを見やり、ハリーは言葉を失った。
―――クリスマス・イブの日、ベッドに横たわっていた等身大のアンティークドール
どうして気付かなかったんだろう。
緩いウェーブを描くプラチナ・ブロンドに包まれた、小さな顔。その輪郭や磁器のように滑らか
な白い肌…アーモンド・アイと呼ぶにはアーチが丸みを帯びている目元。
「あの子は従兄弟なんかじゃないわ」
彼女の持ち味である元気の良さや、よく大きな声で笑うところ、ピンク色の髪の毛なんかに邪
魔されて、これまで気付きもしなかったけれどトンクスは……
「私の弟よ」
ドラコ・マルフォイと、とても、似ていた。
「私のママは、生まれる前からルシウス・マルフォイと結婚することになっていたの。だけどママ
はホグワーツでパパと出合って…卒業式の日に駆け落ちしたの」
ブラック家からの追っ手を逃れるために、魔法の使用を最小限に押さえ、マグルを装ってロ
ンドンの片隅で暮らし始めた。魔法に慣れきったトンクスの母親にとっては、当惑と苦労の連
続だったが、マグル生まれの父親が献身的に手助けしてくれたおかげで、なんとかやっていけ
た。間もなくトンクスが生まれ、実家にいた頃に比べれば経済的にははるかに貧窮した状況だ
ったが、幼い頃から夢見ていた温かい家庭を手に入れられて、母はとても幸せだったのだと思
う。あの男が現れるまでは。
「ルシウス・マルフォイはママの代わりに、ママの妹と結婚したわ……彼女のことを好きだった
かなんて知らない。あいつがママを愛していたのかも知らない。でもあいつはママに自分の子
供を産むように迫ったの」
ハリーはトンクスではなく、写真に視線を吸い寄せられたまま、驚愕に目を見張った。
「『純血の一族に生まれた者の最後の務めを果たせ』って…異常だわ。あいつも…あいつの言
葉に従った、ママも」
―――ミセス・マルフォイはマルフォイを産んだ人じゃないのね?
ハーマイオニーの言葉が頭を過ぎる。ルシウス・マルフォイと彼の妻、ナルシッサの間に何が
あったのか…単なる不仲か、それともナルシッサが子供を産めない体だったのか。ハリーには
知る由も無いことだけど。
「…だから、隠したの?」
写真の中で、レンズではなくどこか遠くを眺め、小さく微笑んでいるドラコから目を上げて、ハ
リーは尋ねた。
「僕が証人として出廷しないから、マルフォイの有罪は確定だろうって―――新聞に書いてあっ
た。僕を裁判に行かせないで……あいつをアズカバン送りにしたかったの?」
怒りが沸々と込み上げてくる。徐々に声が高くなっていった。
「マルフォイはダンブルドアを殺したりしていない…トンクスだって知ってるだろ!? こんなやり
方はフェアじゃない!」
荒々しく詰め寄るハリーに、トンクスは不思議な表情を見せた。
「いくらマルフォイを憎んでいるからってこんな…」
「違うわ、ハリー」
つ…と涙が一筋、頬を伝った。
「わたしがあの子を憎んでるですって? そんなわけないじゃない…あの子はわたしの弟なの
よ」
目をいっぱいに開いたまま、トンクスは透明な涙を流し続ける。ハリーは不意をつかれて、激
情が急激に静まっていくのを感じた。
「あなたのところに来た、証人召喚要請にあなたの字を真似して『行かない』って返事を出した
わ。だってきっとあなたに見せたら、絶対に行くって言うだろうから」
なんでそんなことをと言いかけたが、その言葉は口にすることなく飲み込まれてしまう。
「ハリー、考えてもみて。あの子は…全て失ってしまったのよ。家族も、家も―――あの子を護
ってくれるものも、愛してくれる人も、この世に何ひとつとして存在しない…そんな中にあの子を
放り出して、あの子が生きていけると思う…?」
そこまで言って、感情の制御が途切れたように、トンクスが両手に顔を埋めて泣きじゃくり始
めた。
「あなたが行って…釈放されたとしても、あの子にとってはかえって辛いはずよ……いくら未成
年だからって、一度あちら側に与した者に、人はどれほど冷たく当たるか……たった一人で生
きていくだなんて…無理よ―――あの子には、絶対……」
ハリーは何も言えず、棒立ちになった。屋根裏部屋に、トンクスのすすり泣く声だけが響く。
「だからハリー…お願い」
乱れたプラチナ・ブロンドの隙間から、トンクスが泣き濡れた瞳を上げた。
「…このままあの子を…逝かせてあげて」
杖が真っ直ぐに、ハリーの顔面に突きつけられた。

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