冷たい石の床の上で、ドラコは膝を抱えて座っていた。辺りをかすかに照らすのは、壁には
め込まれた台の上で、ゆらゆらと揺れる蝋燭の明かりだけ。
 低い天井の裏側で、人々が足早に行き交う音が聞こえる。法廷の準備が整い次第、裁判は
始まると言われた。そして自分はこの薄暗い穴倉のような場所から引き上げられる。人々の、
好奇と蔑みの視線の中に。
 さっきから喉元がひくひくと戦慄くのを止められない。いくら大丈夫だと言い聞かせてみても、
心臓が血液を送り出す速さを、自分の意思でどうにかできるわけも無かった。
 緊張―――しているのだろうか。それとも、怖れている?
 アズカバンに繋がれる事になれば、これまで生きてきた時間より、さらに長い時を独りぼっち
で過ごさなくてはならない。いっそ精神を蝕まれた方が楽だと思えるような状況で。けれど、そ
のことに対して、覚悟は決めたはずだった。
 牢獄も、死も、怖くなんかない。魔法省の役人からの申し出を断ったとき、強がりでもなんでも
なくそう思えたのは、振り返るべきものが何もなかったからだろう。一目散に帰って行く場所も、
誰にも渡したくない思い出の品も、自分の名を呼んでくれる人も。
 昔は確かに手の上にあった大切なものたち……いつの間にか全部無くなってしまった。
 失った過去の中に、人は生きていけない。それならばせめて最後くらい、毅然と顔を上げて
―――この世界から去っていきたかった。
 なのにドラコは今、床の上に縮こまり、みっともなくガタガタと震えている。いまさら何かを失う
わけでもないのに、言いようのない恐怖を葬りきれずにいる。

 不意に、床の中央に、円を描くように光の線が浮かび上がった。

 時間だ。

 ドラコはそっと立ち上がり、光のサークルへ向かおうとした。足が痺れたようになって、なかな
か前に進まない。
 唇を僅かにあけ、湿った空気をしきりに吐き出す。呼吸が、とても速い。落ち着かなければ、
とドラコは心臓の上に手を置き、息を鎮めようとした。
 指が、冷たい金属に触れた。199777631―――『名前』を記した、首枷に。
 光の内側に一歩踏み入った瞬間、視界が鮮やかな緑色に埋め尽くされる気がした。
 蘇ったのは、美しい夏の午後。木漏れ日のシャワー、澄み渡った空を映してきらめく湖面、頬
を撫でる風の匂い………丸い眼鏡に稲妻型の傷痕。

『君が好きだ』

 優しい声を聞きながら、ドラコはもう一歩、光の中へ入っていった。

『君を護るね』

 耳元で囁かれているかのように、鼓膜が震えた。あのときの喜びを全部覚えている。心が、
身体が。

『それじゃ、約束』

 絡められた小指の感触。レンズの向こう側でくしゃっと歪められた緑色の瞳。泣き濡れて、色
が一段濃くなっていた。
 鈍い振動と共に、丸い円に沿って切り取られた格好になった床が持ち上がっていく。石造り
の天井の一部も、それに合わせて少しずつ開かれていく。石の擦れあう、重々しい音を立て
て。頭上の隙間から、数知れぬ人々のざわめきが聞こえてくる。数秒後、自分は法廷の中心
に立っているだろう。鉄の柵に囲まれた、被告席に。
 法廷に引きずり出されるときには、真っ直ぐ前を見つめていよう―――最後の矜持のつもり
で。そう決めていたのに、やはりドラコにはできなかった。法廷の床が視線の高さにくるより先
に、瞼を落としてしまった。閉じた視界の内に浮かぶのは、粗い粒子が飛んだ紙面の上で、ジ
ニーと寄り添っていたハリーの横顔。



 ―――怖い…怖いんだ……ポッター……



 ぎゅっと握り締めた拳の内側に、爪が深く食い込む。自分が何に怯えているのかそれすら分
からないまま、ドラコはただひたすらに、心の中でハリーの名を呼んだ。

 祈るように。









 しまった、と思ったときには遅かった。
 頭上から大量の本が雪崩をうって降ってくる。

「―――痛―――ッ!!!」

 ゴツン、と嫌な音を立てて頭のてっぺんに落下した分厚い事典を、ハリーは涙目になって拾
い上げ、本棚へ戻した。
 自然とため息がついて出る。まったく、今日はどうにも調子が出ない。
 傾斜をつけた屋根の中ほどに取り付けられた、嵌め殺しの窓から差し込む日差しが、舞い上
がる埃をキラキラと輝かせる。見るだけならば綺麗と言えなくもないが、これから片付ける身と
しては埃の量にげんなりせざるを得ない光景だった。
「広い家って疲れる……」
 朝食後、それぞれ分担を決めて掃除を始めてから大分経つが、ハリーが受け持った屋根裏
に関して言えば、とにかく置いてある雑多な品々が多すぎて、二時間かけて最初右にあったも
のが左に移動した、という程度にしかならなかった。もちろん魔法を使ってはいるが、この屋敷
にあるものは、家具から細かな装飾品に至るまで、固有に意思を持った上、無防備に触ろうも
のなら攻撃してくるような代物ばかりだ。先ほどの本の雪崩にしても、さすがにこれは大丈夫だ
ろうと手を伸ばした一冊の百科事典に連動して、同じシリーズの事典類が一気に落っこちてき
たのだ。
 それでもまだ、掃除場所がここ一箇所ならばいい。問題は屋敷の広さゆえ、同じような場所
が他にもたくさんある、という事実が気を滅入らせる。いくらロンたちがいるとはいえ、この分で
はこの夏をグリモールドプレイスの大掃除だけで終わらせるはめになりかねない。
 それだけはゴメンだ、との決意を新たに、ハリーはハタキを握り締めた。
 ロンやハーマイオニーとこれまでのこと、これからのこと、語り合いたい事は山のようにあっ
た。それにルーピンからは『闇の魔術に対する防衛術』の授業の進め方について、アドバイス
を受けたかったし、ジニーとは………ジニーのことを思うと、ハリーの胸はちくりと痛んだ。

『私はあなたがヴォルデモートを倒して帰ってくるの、待っているわ』

 一年前、精一杯の笑顔で背中を押してくれた彼女。一緒にいるといい香りがして、ハリーの
気持ちをどこまでも楽しく、明るくしてくれる。
 好き、だと思う。その気持ちに間違いはない。でなければキスなんてできっこない。
 なのに、ジニーの髪を撫ぜているときに、ふと思い出してしまうことがある。柔らかく、夢のよ
うに淡い、プラチナ・ブロンドを。

 六年生の終わりに、ホグワーツを去ったドラコ・マルフォイの行方は、ヴォルデモートが消え、
一月が経った今も、不明のままだった。



『この傷が全部消えたら、真っ先にお前のところへ行く』



 湖の畔、囁かれた言葉がその声音まで生き生きと、蘇る。
 ルシウス・マルフォイがアズカバンに収容された時、初めてドラコは自分自身の足で立ち上が
ろうとした。それを助けようと差し出したハリーの手を、彼は取らなかった。一人で立ち上がれ
る、立ち上がらなければいけないから、と言って。
 そんな彼に少しだけ不安を感じながらも、ハリーは彼を信じた。数多の困難は待ち受けてい
るだろうけれど、長いすれ違いを経て、互いの手を取り合えるようになれた彼を、信じたいと思
って。きっと今のドラコならば、自分の力だけで立ち上がり、ハリーの元まで駆けて来られるだ
ろう、と。
 それでも拭いきれない不安を消し去りたくて、約束した。絡めた小指と、重ねた唇の温もり―
――それを覚えていたからこそ、ハリーはドラコを信じ、待っていた。感情を窺わせない瞳のま
ま、口元にだけ薄笑いを浮かべた彼に、思い切り顔を蹴り上げられる、その瞬間まで。
 まさか、と思う一方で、やっぱりという気持ちもどこかにあった。やっぱりドラコは、立ち上が
れなかった。そしてハリーに背を向け、闇へと引きずり込まれていってしまった。否、もしかした
ら自ら飛び込んでいったのかもしれない。彼の父親をもまた魅了した、闇の力に。

 結局ハリーは、ドラコがホグワーツから走り去っていくのを、呆然と見つめていることしかでき
なかった。あの夜の出来事を、何度夢に見たか分からない。炎に照らし出された小さな背中に
向かい、ハリーは必死になって彼の名を呼ぶ。しかしそれは、決して届かない。彼に伸ばした
手が虚しく空を切ったところで、ハリーは夢から覚める。

 ヴォルデモートの死後、日刊予言者新聞は連日、新たに捕えられた死喰人の名前を報道し
ている。ハリーは自分の気付く限り、その全てに目を通していた。けれど、ドラコの名前はどこ
にもない。ヴォルデモートを殺そうとするハリーの前に立ちふさがった連中に、彼がいなかった
ことは確かだと思う。だとすれば、今も魔法省の追跡を逃れ、どこかで息を潜めているのだろう
か。それともすでに、誰からも看取られないままこの世から消し去られてしまったのか。

(嫌だ……)

 唇を噛み締めて、目の前の棚にごちゃごちゃと詰め込まれた小物類を、一つ一つ床に並べ
てた。錆び付いて表面が曇ってしまった銀の手鏡、小動物の骨らしきものが散らばった空の鳥
篭、十時過ぎを指したまま時を止めた時計。
 黴だらけの香水瓶を手に取ったとき、そういえばこれと似たものをドラコも持っていたな、と思
い出す。ルシウス・マルフォイに調合してもらったという薬を入れて、こっそり持ち歩いていた―
――

(もう一度、逢いたい)

 ドラコから拙い宣戦布告を受けた秋の夕暮れから、あの絶望の夏の夜まで、時間はいくらで
もあったはずだ。
 あの時ならまだ、ハリーが本気でそうしたいと思えば、彼を捕まえておくことはできた…今でも
そう思っている。
 けれどハリーはただ見ていただけだった。ドラコが何をしようとしているのか、どうして苦しん
でいるのか、なぜ泣いているのか。全部近くで見て、知っていたのに、あえて助けを出さなかっ
た。
 どうせその内、彼の方から「助けて」と縋ってくるんじゃないか―――それならばいつでも受け
入れる。ハリーは何度もドラコに伝えてきた。だから……そんな妙な自信に邪魔されて、ハリー
が動き出せずにいる間に時は過ぎ、あの夜を迎えてしまった。
 愚かしくも、天文台の塔でダンブルドアと対峙するドラコを見て、初めて気付いた。彼は「助け
て」の一言も言えないくらいに追い詰められていたのだ、と。

「今ごろ、どこにいるんだろ」

 還ってくればいいのにと付け加えるのは、心の中で。自分の傍に還ってきてさえくれたなら、
今度こそちゃんと護ってあげたい。
 そんなことを考えながら、作業をしていたのがいけなかったのだろう。
 手元が狂い、かなり重たそうな陶器の箱がハリーの足を目がけて、落ちた。
 寸でのところで爪先への直撃は免れた。しかしその代わり箱の方は派手な音を立てて床に
転がった。幸い割れてはいないようだが、落下の弾みで蓋が開き、中に入っていた紙切れが
数枚床に散らばっている。やれやれ、と再びため息をついてそれらを拾い集めようとして、ハリ
ーの手が止まった。

 微かに、懐かしいメロディーが聞こえる。
 正確なタイトルは思い出せないが、鈴を振るような音が連なり、奏でるそれは……子守唄の
一節だ。

 音の出所は、床の上の箱だ。どうやらオルゴールだったらしい。大分古いものなのか、時折
とぼけたように音が飛ぶ。
 しかしハリーはオルゴールそのものに、なんの注意も向けてはいなかった。
 信じられない思いで、拾い上げた紙切れを凝視する。幾重にも折りたたまれていたそれを広
げると、いつの間に撮られていたのか、自分がジニーにキスしている写真のある―――日刊
予言者新聞。日付は今日のものだ。紙面を表すページ番号は十二。今朝、ロンが一ページ抜
けていると騒いでいた、ちょうどその部分。
 ハリーの恋愛模様に関する馬鹿馬鹿しい記事の下に、今日ウィゼンガモットで行われる裁判
の予定表が載せられている。その中央近くに印刷されているのは、紛れもなくドラコ・マルフォ
イの名前だった。

 容疑は…ダンブルドアに対する殺人未遂、及び殺人―――



 呆然と立ち尽くすハリーは、背後のドアが静かに開き、ゆっくりと閉じられたのに気付かなか
った。
 そして、屋根裏部屋に入り込んだその人物が、杖を構え呪文を唱えるその瞬間まで。



「ステュービファイ」



 聞き慣れた彼女の声を、現実のものだとは思えなかった。