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こんがり焼けたトーストの上でバターが融けていく匂いに誘われるように、ハリーは台所のド
アを開けた。
「おはよう」
「おはよう…遅かったわね。あなたが一番最後よ」
くるりと振り向いたハーマイオニーが、腰に手を当ててやれやれといった顔をしてみせる。
長テーブルではロンとジニーが食事中だった。二人から少し離れたところに腰掛けたルーピ
ンは、日刊予言者新聞を広げている。調理台の前に立っていたトンクスが、ハリーのために新
しいパンを切り分けてくれた。
「おはよう、ハリー。今朝は早起きしてわたしが作ったんだ。ベーコンエッグはちょっと焦がしち
ゃったけど」
「でもずいぶん上手になったと思うよ」
ルーピンにフォローされて、トンクスはにっこりした。心なしか髪のピンク色が一段濃くなった
気がする。
やがてアスパラガスを添えたベーコンエッグが目の前に出された。勢い良くフォークを突き立
てようとして、ベーコンの端から覗く、銀の皿に施された細かな装飾が目に入る。
名づけ親が厭い、投げ出し―――今はハリーにその所有権が移った『家』の証が。
ブラック家の紋章入りの皿から目を上げて、ハリーはグリモールドプレイス十二番地の台所
をぐるりと見回した。
相変わらずここは、薄暗く湿っぽい空気に満ちている。
まさかここに戻ってくることになるだなんて、考えてもいなかった。
ふと、ルーピンが読んでいる新聞で、自分が大勢の人々に揉みくちゃにされているのに気付
いた。
これは一ヶ月前、ヴォルデモートが『いなくなった』直後に撮られたものだろう。
ハリーがヴォルデモートを再び消し去ったあとの大騒ぎは、予想を遙かに上回るものだった。
顔も名前も知らない大人たち、あることないこと書きまくる新聞記者、大した言葉を交わしたこ
ともないはずの同級生たち―――ハリーにとって誰が誰であっても意味がないような人物ばか
りが、こぞって傍にやって来たがった。特に、未だハリーをマスコット扱いしたがる魔法省から
のしつこいアプローチには、ほとほと辟易させられた。
本当に傍にいて欲しかったのは、ずっと一緒に戦ってきたロンやハーマイオニー、騎士団の
メンバーにルーナ、ネビル……ジニー…そんな仲間たちだったのに、彼らもまた、ゴシップ記事
や魔法省の連中に追われる日々で、まともに話をすることもできなかった。
だから、ハリーの十八回目のバースデー・パーティーを、グリモールドプレイスの屋敷でやる
ことにした、というルーピンの言葉に、思わず顔が綻んでしまったのも無理がない。
ダンブルドアが―――死んで、『秘密の守人』の護りはこの先決して消える事のない、強固な
守護となった。ここに足を踏み入れられるのはかつてダンブルドアが信頼し、秘密を明かした
者たちだけだ。
ハリーが十八歳になって一週間が経ったが、パーティーのあとも、今、台所に集まっている
面々はそれぞれの理由を作ってここに残ってくれた。ルーピンは、『出て行こうにも、行く場所
がないから、しばらく寝泊りさせてくれると嬉しいな』なんて言ったりして。
つい先日、魔法省が反人狼法を大幅に改善したおかげで、ルーピンはグリンゴッツで『呪い
破り』のトレーナーの職を得ることができた。だから本当は、彼がいつまでもこの辛気臭い屋敷
に留まる理由はないはずなのに、ハリーを気遣って傍にいてくれるのだ。
まだ、ヴォルデモートを『殺して』しまったことから立ち直りきれていない、ハリーのために。
「『ハリー・ポッター、母校で後輩の指導に』―――さすが『日刊預言者新聞』。情報が早いな。
そしていい加減だ」
ルーピンが新聞から顔を上げて、おっとりと言った。限られた人々しか知ることのできないよ
うにされたグリモールドプレイスの屋敷にも、郵便物に関してはちゃんと届くようになっているの
だ。
「まだ正式に回答したわけじゃないんだろう?」
一昨日の夜、マクゴナガルがここを訪れた。そしてハリーが望むのならば、卒業後の進路と
して、ホグワーツの教師になるという選択肢を与えられる、と言った。
科目はもちろん、『闇の魔術に対する対抗術』だ。
「あー…」
台所中の視線が自分に集まっているのを感じ、ハリーはとりわけ、ジニーが座っている左側
を意識しないように気をつけながら、言葉を捜した。
「……実は、した。昨日」
ガシャン、と皿が割れる音がしたので、てっきりトンクスかと思ったらハーマイオニーだった。
「それじゃ…あなた九月から…?」
なるべく左の方を見ないようにして、こっくりと頷くと、ロンが口笛を吹いてはやし立てた。
「やったじゃないか! ジニー、来年もホグワーツでハリーと一緒だぞ」
ロンの言葉にこめかみの辺りから、急に熱が広まるのを感じた。ジニーの方はいたって冷静
にロンを無視し、おめでとうを言ってくれた。
「ハリー、あなた、きっといい先生になれるわ。DAで教えてもらったことは、どれも本当に役に
立つことばかりだった。あなたに教えてもらえるの、楽しみにしてる」
「『日刊予言者新聞』もたまには正確な記事を載せることがあるというわけか。『かくして護るべ
き家族も帰るべき家も持たないまま、十八年の時を過ごしてきた英雄は、何より深い愛情を寄
せる母校を家とし、またそこで新たな家族を得ることになるであろう―――ハリー・ポッターとジ
ニー・ウィーズリー(ホグワーツ在学中)の熱愛については十二面を参照』」
ルーピンが読み上げた文章に、ロンは飲みかけのトマトジュースを盛大に吐き出した。髪と
同じく顔までトマト色にして、ルーピンからひったくるように新聞を取り上げると、妹と親友の恋
愛模様を伝えているらしい記事を探すべく、忙しく紙面をめくる。
「ロン! 新聞は後にして、先にお皿を空にしてくれない? 片付かないじゃない」
咎めるハーマイオニーに、ジニーが放っておけ、というようなジェスチャーをした。
「…無いじゃん…あれ? この新聞、ページが抜けてる」
ほら、とロンが掲げた日刊予言者新聞は、確かに面数を示す数字が、十から十三へ飛んで
いた。
「ジニー、抜き取っただろ」
「馬鹿言わないで。なんでそんなことしなきゃいけないのよ。私がハリーにキスされてる写真を
隠すために、ページごと抜き取っちゃったとでも言いたいの?」
「キスしてる写真なんか撮られてたのか!?」
今度はハリーがカボチャジュースを噴き出す番だった。ゲホゲホと咽せながら、違う! と手
を振って示したが、ジニーは意味ありげに肩をすくめただけだった。
「最近は大きなニュース続きで、新聞社も混乱してるんじゃない? よくページの順番がおかし
かったりするんだ」
ハリーに向かってタオルを投げながら、トンクスが言った。
「どうする? 新しいやつ、持ってきてもらおうか」
トンクスは何気なく聞いたつもりだったのだろうが、ハリーは自分に焦点を合わせて聞かれた
ことに、ドキンとした。
気付かれているんだろうか。
ハリーが毎日、日刊予言者新聞や、もっと信用性が薄い、『ザ・キュブラー』みたいな雑誌ま
で、余すところ無く目を通しているのを。
「明日の配達のときに、一緒に運んできて、って言っておけば?」
ジニーの提案に、トンクスはそれでいいかと言うように、再びハリーを見た。一瞬躊躇った
後、ゆっくり頷くと、それじゃあ後で新聞社にフクロウを飛ばしておくね、と気楽な調子でトンクス
が言ってくれた。
「今日はどこから手を付ける?」
ハーマイオニーが話題を変えてくれたことに、ハリーはホッとした。
「一階は大分片付いたけど、二階の方は……私たちが使っている寝室以外は酷い有様よ」
ここへ来てから一週間、暇を見つけて掃除をしていたものの、まだ手付かずの部屋が数多く
ある。騎士団の本部として使われていたときには、ある程度人が住める状態にしておいたはず
の屋敷は、しばらく閉め切っている内にまた、黴と埃と害虫の宝庫へ戻ってしまっていた。ハー
マイオニーが指を折って、まだ掃除の終わっていない部屋を数える。
「一階と二階に客間が一つづつ、物置みたいな部屋が二つ…元は物置なんかじゃなかったん
でしょうけれど…それに屋根裏部屋」
「屋根裏なんてどうでもいいじゃないか。それよりトイレの方が問題だ」
「階段下の? この前、隅々まで磨き上げたし、ゴミ箱の中に居座っていたグールお化けも追
い出したじゃない。まだ何かいたの?」
怪訝な顔をするハーマイオニーに、ロンは真面目くさって答えた。
「いいか、驚くなよ―――クモがいた」
「それくらい自分でどうにかして…そんな情けない顔しないでよ、ロン。とりあえず二階の部屋は
屋根裏を入れて五部屋だから、一人一部屋でちょうどいいんじゃない?」
「私も午前中は手伝えるよ?」
たっぷり砂糖とジャムを溶かし込んだ紅茶をすすりながら、ルーピンが言った。今日の仕事
は午後からでいいらしい。
「それじゃあ先生には、そこの倉庫をお願いできますか? 色々詰まっているみたいなんです
けど、その…」
台所の隅にある木製のドアを指差したまま、ごにょごにょと語尾をにごらせるハーマイオニー
に、ルーピンは笑って了解した。
「大方、気味の悪いものがごっそり詰まっているんだろう。任せなさい」
「それじゃ、さっそく始めましょうか」
トンクスが張り切って杖を取り出し、サッと一振りすると、テーブルの上の食器類が勝手に流
し台のところへ積みあがっていく。おかげでハリーは、半分に切ったグレープフルーツの最後
の一口を、食べ損ねてしまった。
モノクロの写真から目を上げて、ドラコは鉄格子の隙間から空を見上げた。遠くからかすか
に、子どもの甲高い笑い声が聞こえてくる気がする。最後にあんな風に声を上げて笑ったの
は、いつだっただろう。
いつの間にか、手の中の紙切れを握り締めていた。欲しいものは、と聞かれて迷うことなく口
にした望みは、一月分の『日刊予言者新聞』だった。くしゃくしゃになってしまった紙の表面に、
自分の名前がある。日付は今日のものだ。公判の予定だけを機械的に記した表の中に、ドラ
コ・マルフォイ、と。
そのすぐ上には、くしゃくしゃの黒髪が、赤毛とくっついたり離れたりしている写真が載せられ
ていた。遠くから撮られたものらしく、大分ボケていたが、ハリーの相手がウィーズリーの妹だと
いうことは見て取れた。横にクネクネの文字で、『生き残った男の子、ロマンスのお相手は?』
と見出しがついている。
裁判の時間まで待機するよう言われたこの部屋で、ドラコはひたすら、新聞をめくりつづけ
た。来る日も来る日も、紙面はハリー・ポッターのことを書き連ねている。
印字された文字を通じて伝えられる彼の横顔は、ドラコの知っているそれとはずいぶん違う。
少なくともドラコの知る彼は、気高い騎士道精神も、卓越した身体能力も持ち合わせていない
代わりに、もっとだらしなくて、隙だらけで―――優しかった。だから、好きになった。
けれど、ハリーが無事だったということ、しばらく前からどこに腰を落ち着けたのか分からなく
なってしまったが、時折元気な姿を目撃されているということ―――どうやら親友や、恋人と一
緒らしいこと―――それらの事実を知ることができただけで、ドラコにとっては充分だった。
知ったところで今更…と言われればそれまでだが、彼が幸せなのだと分かれば、それで良か
った。
自分が消えてしまっても、彼が泣かないのなら、それでいい。
哀しくはなかった。むしろ安堵してさえいた。
これでいいんだ、と。
あの時、ドラコが約束を破ったのは、決して間違いではなかった。あの時の選択は、過ちで
はなかった。
ただ、胸にぽっかりと空洞ができたような寂しさだけは、どうしようもなかった。
もう二度と、あの瞳を見つめられないだなんて。
深緑の、強い光を放つ、瞳に。
それだけが、心残りだった。
ガチャリ、と音を立てて、扉の鍵が外された。
「199777631、時間だ」
最後にもう一度だけハリーの写真に目を落とし、それからドラコは、そっと新聞をたたんで机
の上に置いた。

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