「……これは…?」
呆然とドラコが呟いた。
「いいか。決して我輩の傍を離れないように。君に何かあったら我輩は……」
スネイプの言葉の末尾は轟音に掻き消されて聞き取れなかった。
たぶん、ルシウスに会わせる顔がないか、ナルシッサに殺される、だろう。でなければナルシッ
サに八つ裂きにされた上ベラトリックスの餌にされる、か。
なんにせよドラコにそれを聞き返す心の余裕はなかった。目の前で繰り広げられる光景に視
線は釘付けになっている。
「僕、こんなの見るの初めてです」
「そうだろうとも…本来ならば一生見る必要の無いものだったというのに…」
スネイプは疲れたように、店の上空で赤く点滅するSALEの文字を見上げた。
魔法界にもソルドはある。年に2回のおまとめ買いのチャンスと謳われるのも、マグルの世界と
同じである。クリスマスシーズンから始まったソルドは、年を越してこの週末、全国的に最後の
叩き売りというべき状態に突入していた。
スネイプもちょうど残りが少なくなっていた薬の材料などをこの機会に買い足しておこう、と思
い出して『準備』―――つまり気合を入れて買い物リストを作ってきたわけだが、まさかその一
言がドラコをはじめとする一年生たちによって盛大に誤解されていたとは知る由もない。
そしてスネイプの腕にしがみついたまま離れないドラコに根負けし、彼をつれてきた先はラス
トセール真っ最中のダイアゴン横丁の薬草店だった。いつもはせいぜい数名の客がのんびりと
薬の材料を買い求めるこの店が今や戦場もかくや(は少々オーバーか)、である。
「本当ならば君は店内に入らない方がいいのだが…」
混雑した店内は殺伐としている上、魔法で普段よりかなり広げてあるから、下手をすれば迷
子…はともかく背の小さいドラコを見失いかねない。寮監責任で一生徒の外出を許可しておき
ながら、出先で万が一のことがあっては大変だ。
しかしドラコは決然とした眼差しで前方を見つめ、ついでにスネイプの手を握り、どこまでも付
いていきますという構えを全面に押し出している。しかも彼が着ているのは室内用のジャケット
程度だ。手袋もマフラーもなしにこんな寒空の下、長時間放り出したりしたら確実に風邪をひか
れるだろう。
意を決してスネイプはドラコの手を握り返した。
「行くぞ」
店内の混雑はドラコの許容範囲を軽く超越していた。
「ぐぇ」
ぎゅうぎゅう押されて、踏み潰されたカエルさながらの声を上げる。
「しっかりしなさい、マルフォイ」
「先生……」
なんとかスネイプのマントの端を握り締めて、離れないようにする。
「先生……ぎゃんっ!」
頭の上を脚が生えた紫のニンジンみたいなものが飛び交い、ドラコはそれを避けようと慌て
て身をかがめた。
「おお、このベルベーヌは生きがいい」
素早くスネイプは頭上を通過した脚付き紫ニンジンに向かって杖を振った。ドラコもはじめて
知ったがこのように混雑したソルドの期間中、大量の買い物をする場合は店ごとに決められた
合言葉と共に必要な商品に向かって杖を振ると、自動的に商品を杖の中に一時ストックしてく
れるようになっているらしい。それを最後に精算してから、店を出るのだそうだ。確かにこの人
ごみの中で商品を抱えるのは困難だし、普段どおり店員が全部チェックしていたら気が狂うだ
ろう。
「あとはヒソッブにセボリーか」
懐から取り出した羊皮紙のメモをチェックし、スネイプが目的の薬草を求めて棚の方へと歩き
出す。
「先生、待ッ……て…痛―――っ!!」
「ま、ごめんなさいね。坊や」
ドラコの爪先を嫌というほど踏んづけていったのは、妙齢の魔女のピンヒールだった。坊や扱
いの無礼に対し食って掛かりたかったが踏まれた痛みは涙が出るほどで、ドラコはさっさとマン
トを翻して人ごみに紛れてしまった彼女の後姿を睨みつけることしかできなかった。
「…先生……?」
涙の滲む眦を手の甲で拭いながら辺りを見回す。
全身真っ黒で、なんの面白味もないファッションセンスで、だけどどこに居たって一目で分か
るはず。
なのに。
「先生…?」
自分よりずっと背の高い大人たちにもみくちゃにされながら、視界を巡らせて彼を求める。け
れど見つけられるのは濃紺のローブや真っ赤な帽子や山吹色のマントばかりで。
「……先生……っ!」
ぐい、と首の後ろを引っ掴まれた次の瞬間。
「大丈夫か、ドラコ」
苦い薬の香りに包まれていた。
「…せんせ…?」
背中から包み込まれた体温を感じて、ドラコはおずおずと顔を上げた。
見えるのはやはり、色とりどりのローブにマント。
そのままそっと首を反らせ、傾けていくと。
真っ黒な瞳がしっかりと自分を映しているのを見つけ、ドラコはやっと安堵した。
「先生っ」
向き直ってぎゅうっと衣擦れの音がするほどに抱きつくと、薬品の香りがさらに強く感じられ
る。
「ど、どっどうしたマルフォイ!」
スネイプが普段より一オクターブほど上ずった声音で明らかな狼狽を示したが、ドラコは構わ
ず額をすり寄せた。
「…迷子になったかと思いました」
くすん、と俯いたまま小さく鼻を鳴らすドラコに、やっぱりな…とスネイプが呟いたのには都合
良く気付かず、そのまま薬品の匂いが染み込んだローブに顔を埋める。
昔はこの匂いが大嫌いだった。
薬は熱を出したり、喉が痛かったり、ロクでもないことが起こったときに飲まされるものでしか
なかった。
でも今はそれと全く同じものに、心から安らぎを覚えて―――なぜか鼓動が高鳴るのを、ドラ
コは不思議に感じていた。
大混雑だった薬草店に比べ、その後立ち寄った実験器具などを取り扱う店での買い物はか
なり楽なものではあった。スネイプが何か買おうとするたびに、逐一ドラコが使用目的を確認し
てくることを除いては。
「先生、新しい天秤を買うんですか?」
「ああ…以前から使っているものが僅かに狂うようになってきたのでな」
「ご自分用ですか」
「いや、我輩用といえばその通りだが…授業で使うつもりだ」
「ならいいです。教材費から出るということですね」
まるでホグワーツの会計係みたいなチェックに、店員には苦笑いされ、スネイプは苦虫を潰し
たような顔になった。
「マルフォイ。我輩が教材費を私用するとでも疑っているのかね」
「まさか!僕は先生を信用しています。でも先生、ケーキは買わない方がいいですよ」
「そんなものは買わん……」
いい加減ゲンナリしてきたが、相手がマルフォイだからこそここまで忍耐が持ったのだ。これ
が他の生徒だったり、まして他寮の生徒だったり、ましてグリフィンドールの生徒だったり、まし
てまして憎たらしい仇敵の息子だったりしたら、とっくに500点は減点しているところだ。
だが、一人で来た方が楽だったことは明白なのに、心のどこかでこの状況を鬱陶しくは感じ
ていない……むしろ楽しい、とまでは言わないが悪くはないように思う自分に、スネイプは少し
だけ驚いていた。
マルフォイはスネイプにとってはじめから特別な生徒だった。
懇意にしていた上級生の息子、という意味で。
受けた痛みも恨みも忘れはしないが、同時に感謝の気持ちも忘れない。それがスネイプの信
条だった。
だからルシウスの小さな分身を寮生として迎えたときから、スネイプなりにできる限り彼に居
心地の良い環境を作ってやろうと影ながら苦心してきたつもりだ。
子供は自分に優しい想いを持つものとそうでないものとを敏感に見分ける。だからマルフォイ
が自分に懐くのは当然のことだと思ってきた。
しかし―――
「先生?」
ちょこんと首を傾げて自分を見上げる淡いブルーの瞳は店内に差し込んだ冬の午後の光を
受け、陳腐な表現ではあるが宝石のように輝いている。
そしてなんの躊躇もなく自分の手を握ってくる、柔らかい手のひら。
自分にだけ懐いていればいいのに、とスネイプはその時、はっきり知覚してしまった。
「もう買い物はおしまいですか?」
簡単な包装を施された荷物を左手に抱えて、右手でスネイプの左手につかまりながらドラコ
が尋ねる。
「ああ…すまないな、持たせてしまって」
自分の思いがけない欲求に気付いてのショックからなんとか立ち直ったスネイプも左腕で、こ
れでもかというほど中身の詰め込まれた紙袋を支えている。いつもならあとからフクロウに配
達させるところだが、あいにく忙しい時期のためどこの店のフクロウも配達か仕入れに駆り出
されていたのだ。
「いいえ、僕、こういうの初めてだから楽しかったです。」
人出の多いダイアゴン横丁を並んで歩きながら、ドラコは明るく言った。そしてショーウィンド
ウに映る自分達を横目に眺めて恥ずかしそうに呟く。
「先生…なんかこうやって歩いてると、僕たち親子みたいじゃないですか?」
「…………それは……………光栄な」
ドラコに悪気など欠片もないことが分かるだけに、スネイプは光栄に思っている声を出そうと
最大限の努力を払った。
―――確かに自分と同学年だったジェームズ・ポッターの息子がマルフォイと同学年なのだ
から、自分だってこのくらいの歳の子供がいておかしくは……ない。かもしれないが。
「父上には手をつないで歩こうとすると怒られるんです」
何気ない一言に相当へこまされたスネイプの心中など知る由もなく、ドラコは相変わらず楽し
げだった。綻んだ形の良い口元が可愛らしい。
地の底に沈むほどへこんだはずなのに、歩くのに合わせて嬉しそうに繋いだ手をスイングさ
せられたりするだけで、まあいいかという気になってくるから不思議だ。
ワゴンが並ぶ場所に入り、道幅が一層狭くなった。居並ぶワゴンのほとんどが甘ったるい食
べ物を売っている。
自分たちと同じように、大きな荷物を持った人々が狭い道にひしめき合い、しかもそこここに
立ち止まってはワゴンで買い求めた食べ物を口にし、談笑し合っているのだから通りにくいこと
この上もない。この寒い中、三段重ねのアイスクリームを嬉しそうに頬張っている中年男性ま
でいる。
女子供でもあるまいしみっともない…という思いがちらりと頭を掠めたが、同時に左手に繋い
だドラコの存在を思い出す。
「…マルフォイ、そこの角を右に曲がりなさい」
「はい」
ずいぶんと下の方から返事が聞こえる気がする。当たり前のことだが、彼はまだ小さな子供
なのだ。
ワゴンの居並ぶ通りを抜け、スネイプの指示通り右に曲がるとそこはベンチやテーブルが並
べられた小さな広場のようになっていた。買い物に疲れた人々に占領されたベンチの中から、
ドラコが座れるだけのスペースをやっと見つけ出したスネイプは、そこに座って待っていなさ
い、と言って再び人を掻き分けどこかに行ってしまった。
荷物は地面に置いて構わないと言われたので、少し躊躇いながらもそうさせてもらう。腕が軽
くなってホッとした。
結局スネイプはケーキもプレゼントも買わなかったみたいだ……スネイプは自分の誕生日を
祝わないつもりなんだろうか。
勝手に祝われても困るのだけど、誕生日になんの執着も見せないというのも気にかかる。
誕生日は一年に一度しかない、特別な日なのに。
ケーキにロウソクを立てて、大切な人が生まれてきたことを祝って、大切な人に祝福されて
―――幸せになる日なのに。
「先生の幸せってなんだろう」
誕生日に幸せになれなかったら、一年中いつだって幸せになんかなれないと思う。
だから今日は、絶対に先生に幸せになってもらわないと!
気合を込めておぉっ!!と拳を突き上げたら何かにぶつかった。
「……マルフォイ……我輩は君のサンドバッグではないのだがね…」
殴りつけてしまったのは、絶妙なタイミングで戻ってきていたスネイプのアゴだった。
「ごめんなさい先生!!大丈夫ですか!?」
「ふむ……なんとかな。まぁいい、食べなさい」
左手で強打されたアゴをさすりつつ、スネイプは右手でドラコにチェリーの乗ったクレープを差
し出した。
「…?」
ふわりと香る、甘い匂いはドラコが大好きなもので。
「荷物運び代だ」
少しだけ照れたように告げるスネイプの眼は、穏やかな光を湛えている。
受け取ったクレープはスライスしたバナナにチョコとクリーム、砕いたナッツなどでトッピング
をほどこした、ありふれたものではあったけれど。
薄い包み紙越しに伝わるその温かさに自分の指先が冷えていたことを知り、同時に暖かいも
のが身体中を満たした気がした。表面ではなく、内側から。
「ありがとうございます」
クレープは甘くて、優しい味がした。

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