最初、ハリーは自分が目を瞑っているのだと思った。周囲が真っ暗で、何も見えなかったか
らだ。やがて目が慣れるにつれて、自分は両目を開けていて、しかも固い地面の上にしっかり
と立っていることに気が付いた。
「ポッター! どうしてお前がついてくるんだ!」
ハリーの真後ろで、マルフォイがカンカンになって声を荒げていた。しかしハリーは無視して
周囲の様子を観察した。四方を背の高い木々に囲まれ、時折ふくろうや獣が低く鳴く声が聞こ
えた。空を見上げると、茂った木々の木の葉の隙間から、糸のように細い逆向きの三日月が
見えた。どうやら夜の森らしい。
「ここは禁じられた森なのかな」
ハリーが呟くと、ぶつぶつと文句を言っていたマルフォイが急に黙り込み、不安そうに周りを
警戒し始めた。ハリーは木々の合間の暗い空間に目を凝らしながら、そっと一歩を踏み出し
た。記憶の中では物に触れて音を立てたり、誰かに姿を見られることはないと分かっていて
も、油断は禁物だと思った。なんといっても他ならぬスネイプの記憶の中だ。
「誰か来る」
前進を続けるハリーをマルフォイが引き止め、囁き声で忠告した。耳を澄ませると、ハリーに
も落ち葉や枯れ枝を踏みつけてこちらに近付いてくる人の足音が聞こえた。やがてインクを溶
かしたような闇の中に、針の先で突いたくらいの小さな光が現れた。
光はこちらに近付くにつれ、豆電球ほどの大きさにまでなり、ハリーにはそれがルーモスの杖
灯りだと分かった。足音と光がハリーたちの前を通過したちょうどその時、青白い皮膚に、険し
い表情を張り付かせた男の横顔が見えた。
「スネイプ先生だ」
隣でマルフォイが安心したように大きくため息をつき、今度はハリーの前に立ってスネイプの
後を追い始めた。
杖先の小さな灯りだけを頼りに夜の森を迷いもなく進んでいったスネイプは、頭上の木々が
急に途切れ、雲のかかった夜空を見上げることができる空き地のような場所で足を止めた。
スネイプは杖灯りを灯したままの杖で神経質そうに四方を照らし、異常がないかをチェックし
ていた。ハリーはスネイプの杖灯りが自分の体を通過して、背後のローズマリーの茂みを照ら
したのにヒヤリとした。
スネイプはいつもホグワーツでそうしていたように、蝙蝠の羽のような黒いローブをきっちり着
込み、眉間に深い皺を寄せていた。しかし、こうして立ち止まったところをよく見ると、ハリーに
はスネイプがホグワーツにいた時よりずっと若返っていることが分かった。かつて一度だけ篩
の中で見た学生時代から数年経った頃のようだった。
「よう、スニベルス」
不意にスネイプの真後ろの空気がぐにゃりと歪み、中空に男の生首が出現した。マルフォイ
は情けない悲鳴と共に十インチ近く飛び上がったが、スネイプは僅かに肩を揺らしただけだ
し、ハリーは声一つ上げなかった。ハリーの心臓は痛いほど波打ち、耳の内側で血液が激しく
波打った。
首だけを透明マントから突き出した人物は、ハリーに瓜二つだった。ハリーの数年後の姿そ
のものと言ってもいい。好き勝手にはねている黒髪に丸い眼鏡、眉毛の形も背の高さもほとん
ど同じだ。辺りが暗くて細かいところまで確認はできないが、彼とハリーの違いは額の傷と目の
色だけだということに、確信が持てた。
ハリーはこれがスネイプの記憶だということも忘れ、父親の姿を貪るように眺めた。たとえスネ
イプを意味なく攻撃したり、女の子の目を引くためにスニッチをいじったり、それ以外の何百何
千の欠点があろうと、彼は間違いなくハリーの父親だった。しかもみぞの鏡やアルバムの中と
違って、実際にそこに立って生きている。ハリーは不可能だと分かってはいても、今すぐにでも
ジェームズに駆け寄り、赤ん坊の頃のハリーしか知らない父親に、彼そっくりに成長した自分を
見てもらいたいという衝動に駆られた。
「そのくだらん衣装をとっとと脱げ、ポッター」
「くだらないって冗談だろ、恐るべき闇の帝王様から逃げ切るのに、こいつは三回も役に立って
くれたんだぜ」
ジェームズ・ポッターは傲慢だが人を惹きつける魅力的な表情をすると、透明マントを脱いで
小脇に抱えた。
「手短に頼むぜ、スニベルス。このところヴォルデモートがますますやりたい放題やりやがるも
んだからリリーはすっかり怯えて、俺もハリーも一歩も外に出そうとしないんだ。今もリリーに内
緒でこっそり姿くらまししてきたんだからな。早く言うべきことを言ってくれ」
「ここを離れろポッター。今すぐにだ」
スネイプはジェームズがしゃべり終わるまで待たなかった。
「ゴドリックの谷はもはや危険だ。守人の魔法は数時間前に破られた。闇の帝王が、今夜にで
もお前たちの隠れ家を襲撃してもおかしくはない。シリウス・ブラックがお前を裏切ったんだ」
ジェームズが陽気な笑い声をあげた。まるでスネイプがとっておきの冗談を披露したかのよう
だった。
「いい加減に我輩の忠告を真剣に聞き入れろ。ダンブルドアにも報告してきた」
「へえ、それでダンブルドアは笑ってくれたかい?」
ジェームズは相変わらず、まともに聞く姿勢などこれっぽっちも見せずに言った。
「ダンブルドアは非常に心配されていた。我輩はこうして貴様を呼び出す前にも、何回か忠告し
たはずだ。速やかにゴドリックの谷を離れろと。正直言ってポッター、我輩は貴様がまだ何の
準備もしていないことに驚き呆れている」
「ああ、そうだった。昼間にもやたらと凝った方法で手紙をくれたよな? 二行読んで暖炉に突
っ込んだけど」
ジェームズはニヤニヤ笑いを浮かべ、小馬鹿にしきった様子でスネイプを眺めていた。
「とにかくスニベルス、何べん言われようと答えはノーだ。俺はここから動かないぜ。俺はシリウ
スになら九回だって自分の命を預けられるね」
「エヴァンズには言ったのか」
スネイプが焦れたように一歩前に踏み出して問いただすと、初めてジェームズの余裕たっぷ
りの笑みが崩れた。
「お前たちの気味が悪いほどの友情はよく分かった。しかしエヴァンズはどうなる。彼女にも自
分の命を預ける相手を選ぶ権利があるはずだ。それにお前たちの子供――」
「その子供をヴォルデモートに売った奴に、俺たち家族の問題に口を挟まないでもらいたいな」
先ほどまでの笑顔はすっかり消えうせ、今や怒りと憎しみを剥き出しにしてジェームズは反撃
した。しかし感情を露わにすればするほど、ジェームズがついさっきまで保っていた余裕を完全
に失い、自分の信念を必死になって主張しようとしているのが明らかになった。
「リリーだって俺と同じ気持ちだ。シリウスを信じるに決まっている」
「つまり我輩が闇の帝王の目をかいくぐり、決死の覚悟で行ってきた忠告は全てお前の手によ
って握りつぶされてきたというわけか」
皮肉めいた口調でスネイプが言った。「我輩がエヴァンズに直接話をする機会は、もちろん
与えられないのだろうな?」
「いくらでも話せばいいさ。ヴォルデモートを倒して、昼も夜も関係なく自由に出歩けるようにな
ってから」
「それでは遅い。問題は今をどう乗り切るかだ。守人の呪文が破れた後も、長々と闇の帝王か
ら追跡を逃れられるなどと考えているのならば、それは思い上がりというものだ、ポッター」
二人の男はしばらくの間、どちらも何も言わずにじっと対峙していた。やがてスネイプが口を
開いた。急に疲れ、十年近くも老け込んだような声だった。
「結局のところお前は家族より、友情に対する敬意を選んだというわけだ。我輩にはお前の選
択に口を出すつもりなど毛頭ない。ただその選択を後々後悔することがないようにとだけ、お
祈り申し上げておこう」
スネイプは踵を返し、やって来た道をすたすたと戻り始めた。ジェームズはその後姿を黙って
見送っていたが、スネイプの姿がもうすぐ森の中に消え、見えなくなるというところで声をかけ
た。
「スニベルス! 歩いて帰るのか?」
「他に方法はあるまい。我輩がゴドリックの谷の近くで姿あらわしを行ったりポートキーを使え
ば、あの方に気付かれる恐れがある」
ゆっくりと振り返ったスネイプが、垂れ下がった前髪の間から恨めしげにジェームズを睨ん
だ。ジェームズは気まずそうに目を逸らし、右手の人差し指でぽりぽりと自分の頬を掻いたが、
急に何かひらめいたらしく、透明マントをスネイプの方へ投げて寄越した。スネイプがぎょっとし
て後ずさったが、透明マントはスネイプの腕の中にすっぽりと着地した。
「それ使えよ。俺はここから姿くらましするから必要ないんだ」
ジェームズはそれだけ言うと、もうスネイプに背を向けていた。ジェームズが歩き出した方角
の下方に暖かそうな家窓の光がいくつも灯されていた。ハリーはこの場所が高台になってい
て、ゴドリックの谷の街並みを見下ろしているのだと理解した。きっとあの無数の光の中に、ハ
リーと両親がヴォルデモートの手から逃れ、隠れ住んだ家もあるに違いない。
「使い終わったらシリウスかダンブルドアにでも預けておいてくれ」
スネイプが呆気に取られている間にジェームズはゴドリックの谷を見下ろす空き地、ぎりぎり
のところに軸を取り、くるりと一回転していた。
「またな、スニベルス」
空気が揺れ、父親の姿が捩じれながら消えていく瞬間、あの愛嬌たっぷりの笑顔がスネイプ
に向けられていたのをハリーは見た。
スネイプはジェームズが消えてからもなお、そこに立ち竦んでいたが、やがてそうしているの
は全くの時間の無駄遣いだと気付いたようだった。舌打ちと共に首を振り、理解できないとか
それに近い言葉を呟き、透明マントを抱えたままジェームズが消えて行ったゴドリックの谷とは
反対方向へ歩き出した。
しかしものの数歩も行かない内に、スネイプは足を止めた。スネイプが突然自分の左腕を押
えて蹲り、透明マントと杖は音を立てて地面に落ちた。スネイプは空を見上げたが、その表情
にはかつてないほどの驚愕と、そして恐怖が浮かんでいた。
スネイプの動きを目で追っていたハリーもまた、スネイプが腕を押えるのとほぼ同時に、額に
焼け付くような痛みを感じた。稲妻型の傷から痛みが広がり、頭全体が割れてしまうのではな
いかと思うほどの苦痛だった。
幻覚だ――ハリーは自分に言い聞かせた。これはスネイプの記憶の中で起きている出来事
だ。記憶によって生身の自分が痛みを感じたり、怪我を負ったりするはずがないことを、ハリー
はこれまでの経験から知っていた。いままで何度となく憂いの篩でヴォルデモートを見てきた
が、こんな風に傷跡が割れるように痛むことなど一度もなかった。スネイプ同様闇の印を持っ
ているマルフォイも、ハリーとスネイプが二人揃って苦悶している理由が分からず、二人の間を
意味もなく行ったり来たりするばかりだ。
スネイプは震える手で透明マントを掴むと、蹲ったまま犬のような姿勢でそれを羽織った。ス
ネイプの姿が透明マントに隠されて見えなくなってしまったが、ハリーは全身に冷たい汗を滴ら
せ、傷痕の痛みに耐えるだけで精一杯だった。
「ポッター、しっかりしろ!」
マルフォイが肩を強く掴み、力任せに何度も揺さぶってきた。やっと解放されたときハリーは
完全に目を回していたが、そのおかげで痛みの感覚が大分紛れていた。ハリーはマルフォイ
の手を借りて、よろよろと立ち上がった。その途端、地面がぐらりと揺れ、ハリーは自分がまた
倒れてしまったのかと思った。

|