「そっちは駄目だ」
 小声でマルフォイに囁くと、何がなんだかさっぱり分からず、動きを止めてしまったマルフォイ
を引きずるようにして、ロンとジニーが降りてくるはずの階段と逆の方向へ歩き出した。
 二人が廊下の端の階段に辿り着き、最初の段に足をかけたのと同時に、廊下のちょうど反
対側から、ロンとジニーが激しく言い争いながら現れた。
 ロンは必要の部屋に飛び込んで行った時よりも、もっと怒った様子でジニーに当り散らしてい
た。言葉を聞き取ろうとしたが、あまりに大きな声で、しかも早口にまくし立てているので石畳の
廊下に反響してよく聞き取ることができなかった。しかしかろうじて聞き取れたいくつかの単語
は、ウィーズリーおばさんが聞いたら罰としてボール一杯の芽キャベツの芯を、魔法を使わな
いで取り除く作業を命じるに違いない類のものだった。
 あっけに取られた様子でロンを見つめているマルフォイをマントの下でつっつき、ハリーは自
分たちの姿がほんの少しもマントからはみ出さないように、慎重に階段を上っていった。
「ウィーズリーとは喧嘩でもしたのか」
 珍しそうに尋ねるマルフォイに、まさかここで詳しい事情を説明するわけにもいかず、ハリー
は曖昧に頷いた。「ちょっとした意見の食い違いってやつだよ」
 どうやらマルフォイは、自分を殺しかけたのがロンかもしれないなどとは露ほども疑っていな
いようだ。ハリーはこれからどうするべきなのか考えあぐねながら、意味もなく目の前の階段を
上り続けた。しかし三階分ほど上がったところでマルフォイの息遣いが苦しそうなものに変わ
り、歩みが遅くなった。ハリーはマルフォイが怪我人だったことを思い出した。
「痛むのか?」
 ハリーが立ち止まると、マルフォイはそのままマントの下で蹲り、脇腹の辺りを押えて低く呻い
た。
「大丈夫だ」白い額にびっしょりと汗を滲ませていたが、マルフォイは強がった。
「それより憂いの篩だ。校長室にあるんだろう?」
 マルフォイは助け起こそうとしたハリーの手を払いのけ、手すりにしがみついて立ち上がっ
た。
「早くしないと時間がない。あの方は僕がいなくなったことなど、とっくに気付いているだろう。校
庭で僕を襲った奴は追っ手に違いない」
「だけどその追っ手はどうやってきみのことを見分けたんだろう。きみはイタチの姿をしていた
のに」
 ハリーはロンが自分と一緒に、ムーディーによってマルフォイが白ケナガイタチに変えられる
ところを見ていたことを思い出していた。マルフォイは黙って左腕の袖を捲り上げて見せた。ハ
リーは背筋が凍りつくのを感じた。血管の浮き出た白い腕に、髑髏から蛇の這い出ている印
が、うっすらと浮かび上がっている。
「闇の印を持つもの同士は、たとえ姿を変えていたとしても、その存在が近くにいることを知る
ことができる」
 マルフォイは淡々と説明した。
「目が覚めた時からずっと闇の印が疼いている。きっと僕の追っ手はまだホグワーツの中にい
て、僕を殺す機会を狙っているのだろう。僕が死ねば僕に譲られた記憶は永遠に消える。だか
らその前にこの記憶を憂いの篩で見ておかなくてはならないんだ…あの方を倒す方法を、きみ
に教えるために」マルフォイは少し迷ってから、小さな声で付け加えた。
「スネイプ先生は確実に記憶を伝えられる運び手が必要だった。先生の立場ではきみに接触
し、直接情報を与えるのは危険すぎる。だが、誰かに情報を教えただけでは、追っ手に捕まり
開心術をかけられたらおしまいだ。その点、記憶譲りの術を使って記憶を僕に封じ込めれば、
万が一僕が捕まっても、憂いの篩を使わない限り、記憶をあの方に知られることはない。僕は
その記憶を持っているだけで、記憶を知っているわけではないからだ」マルフォイは捲り上げた
袖を元に戻した。
「先生が僕の姿を変え、あの方に気付かれないやり方で僕をホグズミートのはずれに送った。
ホグワーツに近すぎると、マクゴナガルたちがかけた保護呪文のせいで、闇のしるしを持った
ものが魔法を介して入り込むことができないんだ。僕はホグワーツの保護呪文の内側に、魔法
を使わずに自分の手足を動かして入っていくしかなかった」
 その時の不快さを思い出してか、マルフォイが膝のあたりをさすり、眉をしかめられた。
「僕が果たすべき役割は、ホグワーツの護りの中に逃げ込み、校長室にある憂いの篩でスネ
イプ先生の記憶を見ることだけだった。そうすれば僕が次にするべきことは分かるはずだと言
われていた」
「だけどきみがヴォルデモートを裏切ったことがばれたら、きみの両親は危険な目に遭うんじゃ
ないのか」
 ハリーはマルフォイが天文台の塔の上でダンブルドアに杖を突きつけていたとき、自分がしく
じれば家族全員がヴォルデモートに殺されると怯えていたことを思い出した。
「父上はアズカバンにいる。だからダンブルドアが言っていた通り、今のところかえって安全
だ。母上は死んだ」
 ハリーは雷に打たれたように立ち尽くし、マルフォイを見つめた。
「母上は一度、僕をあの方の下から逃そうとしたんだ。それがあの方にばれて……」
「分かった」
 僅かに震えが混ざった声を、ハリーは慌てて遮った。
「それできみはヴォルデモートを裏切る覚悟を決めたんだな?」
 マルフォイは黙って頷いた。マルフォイがスネイプの差し金だという疑いはまだ拭いきれなか
ったが、ハリーはもう半分心を決めていた。
「校長室はこっちだ」
 マルフォイの手を引き、校長室へ向かって歩き出した。
 数分後、ハリーとマルフォイは校長室の中で、石の水盆を真ん中に置いた机を挟み、向かい
合って立っていた。ハリーは、自分で記憶を取り出したことが一度もなかったことに気付いた。
「やり方なら教わっている」
 上目遣いでためらいがちに差し出された手に、ハリーは思い切って自分の杖を預けた。
 マルフォイの動きは滑らかだった。何度も練習したのかもしれない。優雅に杖を振り、広い額
に当てたかと思うと、一条の銀色の記憶をすうっと引き出し、憂いの篩の中へ落とした。水盆
の中で銀色の記憶は渦を巻き、やがてほとんど漆黒に近い色へ変わった。簾のように垂れ下
がったスネイプの油っぽい前髪と、暗い色の目を思い出し、ハリーは薄気味悪くなった。マルフ
ォイは憂いの篩が波打つ様子をしばらく見つめ、これ以上変化しないらしいとわかると、もう用
は済んだとばかりに、ハリーの杖をあっさりと返した。
「記憶を見るためには篩に顔をつければいいのか?」
「ああ、そうだ。こんな風に――」
「駄目だ!」
 ハリーが先にやって見せようとすると、マルフォイが急いで止めた。
「記憶を見るのは僕だけだ。きみが直接見てはいけない。スネイプ先生がそうおっしゃってい
た」
「どうしてさ」
 またしてもスネイプの名前が飛び出し、ハリーはうんざりした。
「理由なんて知らない。ただ先生がそうおっしゃっていたんだ。何があろうとポッターにこの記憶
を直接見せてはいけない。必ず僕が見て、必要なことだけをポッターに伝えればそれでいいと」
「それはこの記憶が実は、僕がヴォルデモートを倒すためのものではなく、ヴォルデモートが僕
を倒すために役立つものだからじゃないのか?」
「馬鹿なことを言うな。それだったらどうして先生があの方から隠そうとする? そして僕を使っ
てまできみに伝えさせようとする?」
 ハリーはスネイプを信じない理由については、今すぐ羊皮紙五メートル分のレポートを仕上げ
られそうなくらい列挙することができたが、マルフォイの切り返しにはもっともらしい答えを用意
することができず、沈黙した。
「記憶は必ず伝える。だからきみはそこで待っていてくれ」
 マルフォイはそういうと、大きく息を吸い込んでから憂いの篩に顔を突っ込んだ。それとほぼ
同時に、ハリーも吸い盆の表面に顔を近づけた。幽かに魔法薬学の地下教室の湿っぽいにお
いを嗅いだ気がした。