夜と昼の記憶 The Memory of the Night and the Day









 病棟に到着したハリーは、マルフォイが寝かされていたはずのベッドが空っぽになっているこ
とに気付いてぎょっとした。
「ポッター、こちらです。奥のベッドへ移しました」
 衝立の陰から現れたマダム・ポンフリーがそっと二人を手招きし、入り口から一番離れたとこ
ろにある、カーテンのかかったベッドを指差した。
「ほんの十五分前に目を覚ましたばかりです。こんなに早く回復するなんて、手当てが早かった
からとしか言いようがありません。マルフォイはあなたに感謝すべきですよ」
 マダム・ポンフリーはそう言ったが、ハリーはマルフォイに感謝されるどころか、顔を合わせた
途端、セクタム・センプラをお見舞いされる覚悟だった。蛇として雪の上を滑った腹の感触、マ
ルフォイに噛み付く寸前の異様な気持ちの高揚を思い出すと、胃がむかつき、さっき食べたト
ーストとポテトが逆流してきそうだった。
「マルフォイと話をしても構いませんか」
「ええ、いいでしょう。ただしあまり長い時間はいけませんよ。刺激の強い話も厳禁です」
 ハーマイオニーが先に立ってカーテンを開けた。ハリーがカーテンの内側に入る寸前に、ハ
ーマイオニーが小さな声で「マフリアート、耳塞ぎ」と唱えた。マルフォイはヘッドボードに積み上
げた枕に背中を預け、ひどく疲れた様子だった。首からはだけたパジャマの胸元まで包帯でぐ
るぐる巻きにされ、顔色はまだ青白かったが、思ったほど悪くはなかった。ハリーとハーマイオ
ニーに気付くと、マルフォイの薄い水色の瞳が驚いたように見開かれた。
「ハーイ、マルフォイ。気分はいかが?」
 ハーマイオニーが緊張をほぐそうと、ことさら明るく声をかけたが、逆効果だったとハリーは思
った。マルフォイの口元がきゅっと引き結ばれ、白いシーツの上に視線を落とした。
「マルフォイ、ホグワーツに戻ってきた目的は何だ? 何のために動物に変身した? その傷
は誰にやられたんだ?」
 黙ったままではどうにもならないと、ハリーはきつい口調でマルフォイに尋ねた。ハーマイオニ
ーが咎めるような目つきをしたが、ハリーは最悪に気が立っていた。マルフォイに自分を傷つ
けた犯人の名を早く言ってほしいような、ずっと黙っていてほしいような、中途半端な気持ちだ
った。
「知らない」
マルフォイは静かに首を振った。
「暗かったし、相手はフードを被っていた。獣の姿では視界が狭くなる上、地面に這いつくばっ
ているから、上を向いて人の顔を判別するのは難しい」
「蛇は?」ハリーは問い詰めた。
「きみを襲った奴が操っていた蛇だ。どんな奴だった? ヴォルデモートがいつも傍に置いてい
る、ナギニっていう蛇だった?」
 ヴォルデモートの名前を聞いた途端、マルフォイの肩がピクリと跳ね、薄い水色の瞳にはっき
りとした恐怖と嫌悪が走るのをハリーは見た。
「ナギニではなかったと思う。もっと小さかった。あいつだったらたぶん、分かったと思う」
 マルフォイの答えを聞いて、ハーマイオニーがほっと息をついた。少なくともこれで、ナギニが
ホグワーツに入り込んでいるという、恐ろしい可能性は否定された。今度はマルフォイから口を
開いた。
「杖を貸せ」
 ハリーは耳を疑った。
「なんだって?」
「杖だ」
マルフォイが繰り返した。ハリーは本能的にズボンのポケットに手を置き、必要とあればいつで
も杖を引き抜けるように身構えた。
「そうじゃない。僕の杖は折れてしまったから、誰かの杖を一時的に借りる必要があるんだ」
「何に使うつもりだ? 借りた杖で僕を殺して、ご主人様の手土産にしようっていうのか?」
 少しでも不審な動きをしたら見逃さないつもりで睨みつけると、マルフォイは目を伏せ、疲れ
たように言った。
「『憂いの篩』を使いたいんだ」
 ハリーは思い切り間抜けな顔で、マルフォイを凝視した。
「僕は記憶を譲られている。闇の帝王に関する記憶だ。おそらくポッター、きみに闇の帝王を倒
す気があるなら、この記憶は間違いなく役に立つだろう」
「記憶を譲られている?」
 ハリーはオウム返しに聞いた。
「それでどうして憂いの篩が必要になるんだ? 記憶を見せてもらったなら、それがどんなもの
であれ、きみはもうその内容を知っているんだろう。篩を使わなくたって、僕に話すことができる
はずだ」
「見てはいない。譲られただけだ」
 意味が分からず、ハリーはやはりマルフォイが自分を騙そうとしているのではないかと疑い始
めた。
「だから記憶を譲られたっていうことは、記憶がどんなものか教えてもらったってことじゃない
か」
「違うわ、ハリー」
 ハーマイオニーがいつの間にか鞄から取り出した大きな本を、忙しなくめくりながら口を挟ん
だ。
「マルフォイが言っているのはこの魔法のことよ。『記憶譲りの術』。生きた人間の中に記憶を
丸ごと封じ込めてしまうの」
 差し出された本の開いたページを覗き込むと、とても理解できそうにない、難しそうな解説が
延々綴られていた。
「記憶を譲られた人は記憶を『持つ』ことになるだけで、記憶を譲られる時も譲られた後も、記
憶を直接見ることはできないのよ。譲られた記憶を見るためにはその記憶を憂いの篩に取り
出すしか方法はないわ。とっても複雑な魔法で、扱える人はそう多くはないはずだけど」
 付け加えた言葉がだんだん小さくなっていくのを聞いて、ハリーには急になにもかもがはっき
り分かった。
「記憶の持ち主はスネイプなんだな?」
 途端にマルフォイはシーツに落としていた目を上げ、挑発的な目つきになった。
「だとしたら、どうなんだ?」
「あんな卑怯者の薄汚い記憶を、僕が憂いの篩に入れさせたりすると本気で思っているの
か?」
「ああ、思うね」
 マルフォイの目がらんらんと輝き、口元が見慣れた皮肉っぽい形に歪んだ。
「きみたちがホグワーツに戻っていたというのは予想外だったが、こうなったからにはかえって
都合がいいかもしれない。きみがスネイプ先生のことをどう思っていようが構わないけれど、も
しきみが闇の帝王を倒したいと真剣に考えているのなら――」
「ヴォルデモートのことを帝王だなんて呼ぶな!」
 我慢できなくなり、ハリーは大声で怒鳴った。耳塞ぎの呪文が効いていたおかげで、マダム・
ポンフリーからつまみ出されるのは免れたが、マルフォイはヴォルデモートの名前にまたしても
たじろぎ、ハーマイオニーはどうしたらいいのかとオロオロしていた。
「あいつはただの人殺しだ。スネイプだって同じさ。いや、あいつはもっと悪いかもしれない。ダ
ンブルドアの信頼を裏切った」
 天文塔の上で、スネイプがダンブルドアに緑色の光線を放った時のことを、ハリーは片時も
忘れることはなかった。そのことを思い出した回数だけ、ハリーは激しい憎悪に突き動かされ、
はらわたが新しい苦しみで焼き切れそうになった。
「スネイプ先生はダンブルドアを裏切っていない」
 マルフォイは強張った口調で、頑固に言い張った。
「ダンブルドアと約束を交わしていたんだ。ある条件が整った時に、ダンブルドアに死の呪いを
かけると。二人とも覚悟の上で取り決めをしていた」
「へえ」
 ハリーはその一言で頭の芯がスーッと冷え、妙に冷静で残酷な気持ちになった。
「それはきみの母親とスネイプが『破れぬ誓い』を交わしたせいかい? きみがダンブルドアを
殺せなかった時に、スネイプが代わりにダンブルドアを殺すことになっていたから? スネイプ
から破れぬ誓いのことを聞いたダンブルドアは、自分を殺す提案を受け入れたってわけだ。あ
あ、いかにもありそうな話だ」
「ああそうさ、その通りだ!」
 マルフォイの頬にサッと赤みが差し、蝋人形のようだった面持ちに生気が蘇った。
「僕の母がスネイプ先生と破れぬ誓いを結んだ。僕がダンブルドアを殺し損ねた時、代わりに
スネイプ先生が殺らなければ、先生は死ぬ。もちろん任務に失敗した僕だって闇の――あの
方から殺される。ダンブルドアは僕たち二人を生かすために、自分一人が犠牲になることを選
んだんだ」
「嘘だ!」
 マルフォイに掴みかからんばかりの形相でハリーはベッドに詰め寄った。腕を振り上げた拍
子に肩にかけていた鞄が滑り落ち、中身が床に飛び散った。頭に血が上り、理性は吹き飛ん
で、沸騰したようになっている。ダンブルドアが自分の命よりもスネイプとマルフォイの命を優先
したなど、有り得ない。ダンブルドアを頼りにする不死鳥の騎士団員やホグワーツの生徒た
ち、そしてあれほどダンブルドアから愛され、信じられていたはずのハリーよりも、スネイプやマ
ルフォイの命の方が、ダンブルドアにとって大切だったとを認めるようなものだ。
「スネイプは卑劣な裏切り者だ。僕がダンブルドアを信じるように、きみがスネイプを信じるとい
うのなら、今すぐホグワーツから出て行け! ご主人様のお膝元に尻尾を振って帰れよ!」
「ハリー!」
 振り上げた右腕をハーマイオニーが掴んだ。
「ハーマイオニー、離せよ!」
「違うのハリー! これを見て!」
 ハーマイオニーが、忍びの地図を掴み、ハリーに突きつけた。ハリーは一瞬、マルフォイがそ
こにいることも忘れて地図に見入った。ロンとジニーが五階の廊下を二人そろって移動してい
る。
「医務室に向かっているみたいだわ」
 忍びの地図を覗き込んだハーマイオニーが、怯えた声で言った。
「マルフォイのことをジニーからどうにかして聞き出したのかしら」
「ジニーが足止めしようとしてる」
 ジニーの点が時々ロンの前に回りこみ、しばらく揉みあうようにしている様子をじっと見つめ、
ハリーは呟いた。
「ハリー、あなたはマルフォイを連れて逃げて」
 ハーマイオニーが言った。
「憂いの篩をマルフォイに使わせるかどうかはここを出てから決めても遅くないけれど、脱出し
そびれたら選択の余地がなくなってしまうわ」
「きみは?」
 ハーマイニーはハリーの質問に答えず、自分の持ってきた重いバッグから、小さな薬瓶を取
り出した。ビンの中身の灰色がかった液体を見て、ハリーは嫌な予感がした。
 ぼんやりと成り行きを見守っていたマルフォイへつかつかと歩み寄ると、ハーマイオニーはや
おらマルフォイの前髪を掴んだ。
「駄目だ!」
 痛みに悲鳴を上げるマルフォイとハリーの静止が重なったが、ハーマイオニーはマルフォイ
の髪の毛を数本、もうしっかりと握り締めていた。
「止めるんだ、きみが危険な目にあうことになる!」
 ハーマイニーが何をしようとしているか予想がついたハリーは、力づくでポリジュース薬を取り
上げようとしたが、ハーマイオニーがマルフォイの髪の毛を瓶に入れ、薄い緑色に変わった液
体を一息に飲み干した方が早かった。
 ハリーがやっとハーマイオニーの腕を掴んだ時には、すでに長くカールした髪の毛が縮み、
プラチナブロンドに変わっていくところだった。
「まあ、ちょっと無茶よね」
 マルフォイそっくりに変化したハーマイオニーが、滑らかなプラチナブロンドを確かめるように
撫で付けた。
「でも私たちの中で一番危険なのはマルフォイでしょう? 彼の杖は折れてしまっているけど、
私なら自分の身を守ることができるわ。それに私、きちんと確かめたいの」
 ハーマイオニーはサイドテーブルの上のマルフォイの洋服に杖を向けると、口の中で小さく呪
文を唱えた。あちこち破けて泥まみれ、血まみれだった衣服が即座に新品同様にパリッとし
た。
「マダム・ポンフリーやジニーに止められて、ロンがマルフォイのベッドまで辿り着けない可能性
だってあるでしょうね。それはそれでいいわけだし、万が一ここまで来たら…そうね、私が確か
めることになるわ」
 マルフォイの姿をしたハーマイオニーは、強い意志をみなぎらせ、決然とした表情をしてい
た。
「マルフォイ、これに着替えて。私にそのパジャマを貸してちょうだい」
 ハリーはあきらめて背を向け、床に落ちた荷物を拾い集め、鞄に戻す作業に取りかかった。
背後では早口で喚き抵抗するマルフォイから、ハーマイオニーが実力行使でパジャマを剥ぎ取
っているようだったが、とても直視する勇気はなかった。カーテンの隙間から覗くと、騒ぎにまっ
たく気付いていないマダム・ポンフリーがちょうど事務所へ戻っていくところだった。
 忍びの地図を再び開くと、ロンとジニーは一階と二階をつなぐ階段の踊り場で押し問答を繰り
広げている様子だった。ハリーは心を決めると、鞄の中から透明マントを取り出し、いつでも抜
け出せるように準備をした。
「もう大丈夫よハリー、早く行って!」
 振り返るとマルフォイから奪ったパジャマを着たハーマイオニーが、自分の杖をしっかり握り
締めてベッドに潜り込むところだった。
 状況を飲み込めず、自分と瓜二つに変化したハーマイオニーとハリーを交互に見比べていた
マルフォイの右手を握り、ハリーは透明マントの下にマルフォイを引っ張り込んだ。
「ハーマイオニー、耳塞ぎの呪文は解除しておいた方がいい。何かあったら大声で助けを呼ぶ
んだ。決して無茶はしないでくれ」
「分かったわ。それより急いで!」
 ハリーは意を決し、マルフォイの腕を掴んでカーテンのしきりの外に出た。マダム・ポンフリー
はまだ事務所の方にいる。ハリーはマントの下でマルフォイとぴったり寄り添うようにして、足音
を忍ばせて病棟から廊下へ続くドアを開けた。