思わず立ち竦んでしまったハーマイオニーの手を夢中で引っ張り、ハリーは『トロールにバレ
エを教えるタペストリー』の後ろにある僅かな窪みに彼女を押し込んだ。自分もなるべく壁にピ
ッタリくっつくようにして、タペストリーの影で息を潜める。どうか不自然に盛り上がったりしてい
ませんように、とハリーは祈った。
 ロンとジニーが必要の部屋に近付きながら、激しく言い争っている。
「どこに行ってたんだよ!」
「私がどこへ行こうといちいち報告する義務はないはずよ。それよりラベンダーを放ってきちゃ
っていいの?」
「大きなお世話だ!」
 ロンはカンカンになって言い返した。
「ハリーたちと一緒だったんだろ。必要の部屋なのか?」
「ノーコメント」
 タペストリーの前を革靴が荒々しく行き来する音がした。ややあってから、重い扉が開き、中
に駆込んでいく足音が聞こえた。ハーマイオニーがふうっと息を吐き出し、ハリーは用心深くタ
ペストリーの端から様子をうかがった。
 廊下にはジニーがいるだけで、ロンが開けたはずの必要の部屋の扉はもう見えなくなってい
た。
ジニーはハリーに向かって大きく頷くと、早くここから立ち去るように身振りだけで示した。必要
の部屋にハリーたちがいないことをロンが確かめるのに、そう時間はかからないはずだ。
ハリーは左手でバスケットを抱え、右手でハーマイオニーの腕を掴んで廊下を疾走した。ロン
がやってきたのと反対側の廊下の端を曲がり、ようやく足を止める。全身に嫌な汗をびっしょり
かいていた。
「寮に戻りましょう」
はあはあと弾む息を整えながら、ハーマイオニーが言った。
「とりあえず服を着替えなきゃ。それにあなた、透明マントを持ってきた方がいいわ。それから
忍びの地図も」
 もう授業が始まっている時間だったので、幸い廊下に人影はなく、二人は誰とも会うことなく、
寮の入り口まで辿り着くことが出来た。
ハーマイオニーは、二分で支度を終えてくる、と言うと女子寮へ続く階段を駆け上がっていっ
た。
 寝室の扉を開けると、ハリーは異例のスピードで着替えをした。いつロンが戻ってくるかと思
うと、ぐずぐずしていられなかった。透明マントと忍びの地図はもちろん、壊れかけのかくれん
防止器、シリウスの合わせ鏡の破片、スリザリンのロケットなど、役に立つも思えないものまで
手当たり次第に鞄に放り込んだ。最後に、必要の部屋で見つけた懐中時計をズボンのポケッ
トに滑り込ませて、ハリーは談話室へ戻った。すでにハーマイオニーが着替えを終え、ぱんぱ
んに膨れ上がった鞄を抱えて待っていた。
 二人は落ち着いて朝食を食べられる場所を探し、廊下を歩き出した。授業中のホグワーツの
廊下には人気がなく、二人の靴音だけが、石の壁にやけに響いた。
「ここはどうかしら?」
 トロフィールームの前で、ハーマイオニーが足を止めた。
「授業中ならあまり人も近寄らないでしょう?」
忍びの地図を開き、近くに自分たち以外誰もいないのを確認して、ハリーは扉に杖を向けた。
「アロホモラ」
 トロフィールームはカーテンが締め切られていたが、ハーマイオニーが杖を振るうと、埃をか
ぶった重たいビロードのカーテンが勢いよく両側に開き、眩しい光が部屋中を満たした。
 二人は床に座り込むと、バスケットのふたを開け、遅い朝食にありついた。
「そういえば、ラベンダーはホグワーツにいるんだね」
 さっきジニーが、ラベンダーがロンを追い掛け回していたと言っていたのを思い出し、ハリー
は言った。
「ネビルもシェーマスもディーンも戻ってなかったんだ」
「シェーマスとパーバティは夏休みの後、お母さんたちがホグワーツに行くのを許してくれなかっ
たんですって。ディーンは新学期には戻ってきたけど、ハロウィンの頃、家の近くでマグルが死
喰人に襲われる事件があったので、いったん家に帰って、それっきりになってしまったって、ラ
ベンダーが言っていたわ」
 ハーマイオニーはトーストにバターを塗りながら言った。
「それからネビルだけど――クリスマス休暇に帰宅していた時、ご両親の容態が急変したそう
なの」
 ハリーは飲みかけていたかぼちゃジュースを危うく噴き出すところだった。
「なんだって?」
「ラベンダーもその後どうなったかまでは知らなかったんだけど、そういうわけであの人、グリフ
ィンドールでたった一人の七年生になってしまったってわけ。私たちが戻ってきて大喜びだった
わ。もちろん、ロンがいるのが一番嬉しいみたいだけど」
 幾分刺のある言い方だったが、ハリーはネビルが今どんな気持ちだろうと思うと、とてもハー
マイオニーを気遣う余裕などなかった。
 夢遊病者のようにふらふらとした足取りでネビルに歩み寄り、ガムの包み紙を息子の掌に落
としていったアリス・ロングボトムのうつろな瞳が思い出された。
「私たち、どうしたらいいのかしら」
 ハーマイオニーが不意に、心細げに呟いた。
「必要の部屋には迂闊に近づけないし、分霊箱の在り処を知っているウィンキーはいなくなって
しまうし…おまけに私はハッフルパフのカップを見たこともないわ」
「このくらいの大きさだったかな。表面にHの文字と穴熊が彫ってあるんだ」
 ハリーは憂いの篩の中でヘプシバが持っていたハッフルパフのカップを思い出しながら、手
で大きさを示して見せた。
「両側に持ち手がついていて、ほら、ちょうどそこにあるやつみたいな……」
 棚いっぱいに整列したトロフィーの中から、ハッフルパフのカップに似ているものを探そうとし
たハリーは、ホグワーツ特別功労賞の盾の横に、バタービールの瓶が並べられているのに気
付いて言葉を詰まらせた。誰かがうっかり置き忘れていったのだろうかといぶかしんでいると、
バタービールの瓶の影で薄汚いぼろ切れのようなものが動いた。
「ウィンキー!」
 ハーマイオニーが立ち上がり、盾とガラス瓶の合間からよろよろと這い出てきたウィンキーに
駆け寄った。ウィンキーはハリーが最後に見た時に比べ、さらにみすぼらしくなっていた。ブラ
ウスにはバタービールのシミが奇妙な模様を描いていたし、スカートは繕いもしていない焼け焦
げの穴だらけだった。
「ウィンキー、どうしたの! 大丈夫?」
 ハーマイオニーが何度か呼びかけると、ウィンキーはどろりと濁った瞳を回転させて、まじま
じとハーマイオニーの顔を見つめた。
「何があったのウィンキー、どうしてこんなところに…」
「泥棒!」
 突然甲高い声を上げて、ウィンキーがハーマイオニーに掴みかかった。バタービールの瓶が
音を立てて棚から転げ落ち、髪の毛をめちゃくちゃに掴まれたハーマイオニーは悲鳴を上げて
床に倒れこんだ。ハリーは慌ててウィンキーを引き剥がしにかかった。
「ウィンキー止めろ、止めるんだ! 止めろ!」
「泥棒、泥棒! ウィンキーにお返しになるのです! ご主人のカップを返されなくてはなりませ
ん!」
 ハリーに押さえられてもなお、ウィンキーはキーキーと叫び声を上げ、可能な限り手足をじた
ばたさせていた。脛を思い切り蹴り上げられ、ハリーはあまりの痛みにウィンキーを拘束する
手の力が緩みそうになった。
「シレンシオ!」
 ようやく立ち直ったハーマイオニーが杖を振り上げると、耳障りな叫び声だけは止んだが、ウ
ィンキーは相変わらず歯を剥き出しにして暴れまくっている。
「ウィンキー落ち着いて、あなたは混乱しているわ。私はあなたの大切なカップを盗んだりして
いないわ」
 ハーマイオニーは興奮状態のウィンキーを刺激しないように、ことさら優しく話しかけた。
「あなたはバーティ・クラウチ・ジュニアに信頼されていたのね。だから彼はあなたに大切なカッ
プ――金色でHの文字と穴熊が彫られたカップを、あなたに預けたのね?」
 バタービールの飲みすぎで、白痴のようにどんよりしていたウィンキーの顔に、急にはっきり
とした感情が走った。そして次の瞬間、ウィンキーはこれまでに以上に全身をばたつかせて、
顔中を口にして何ごとか罵った。声を出すことができたとしたら、聞くに堪えない種類の言葉だ
ったに違いない。
「ウィンキー、私たちじゃないわ。私たちはたったいま、ここに来たばかりなの。あなたは昨日の
夜から行方が分からなくなっていたわよね? いままでどこにいたの?」
 ウィンキーが少し落ち着くのを待ってから、ハーマイオニーはもう一度杖を振った。喚き続け
てさすがに疲れたのだろう、ウィンキーはぜえぜえと息をついた。
「ウィンキーはこのお部屋でお眠りになります。悪い奴らからご主人様のカップをお守りするの
です」
「なんだって?」
 ハリーは驚いて、ウィンキーを拘束する手は離さずに、トロフィーが並ぶ棚を振り返った。
「ウィンキー、きみはまさかトロフィールームにカップを隠していたのか?」
「隠しなどされないのです!」
 ウィンキーがまた、金切り声を上げた。
「ご主人様はウィンキーを誰よりも頼りにされました! ウィンキーにご主人様の一番大切な秘
密をお預けになりました! 世間の方々はご存知なくても、ウィンキーはご主人様が偉大な方
だと知っています! ご主人様は素晴らしいカップをお持ちだったのです!」
 ウィンキーは元のご主人様のことを思い出しているうちに感情が昂ぶってきたのか、テニスボ
ールのように大きな目からぽとぽとと涙を落とし、ブラウスに新しいシミをつくった。
「どなたもご存知でいらっしゃらない、偉大な、可哀相なご主人様! ウィンキーだけはご主人
様の味方なのです。ウィンキーはご主人様の素晴らしさを皆さまにご承知させるのです!」
「じゃあ、あなたはバーティ・クラウチ・ジュニアの宝物をここに飾って、みんなに彼の…えーっ
と、素晴らしさを知ってもらおうとしたのね?」
 ウィンキーが血走った目でハーマイオニーを睨みつけ、ゆっくりと頷いた。
「信じられない」
 ハリーは呆然として呟いた。
「分霊箱はウィンキーがホグワーツに来てからずっと、この部屋の棚の上に、他のトロフィーに
紛れて堂々と飾られていたのか? 誰にも、ダンブルドアにさえ気付かれずに?」
「有り得ないことではないと思うわ。ウィンキーは分霊箱をただ飾っていただけだもの」
 ハーマイオニーは夥しい数のトロフィーや盾に目を走らせた。
「分からない? ウィンキーは分霊箱をここに『置いた』だけなのよ。隠すつもりなんて全然なか
ったんだわ、そうなのよね、ウィンキー? 隠すために何か魔法を使ったのなら、逆に『何かが
隠されている』と気付く人がいたかもしれないわ。だけど実際にはカップを隠すために何の細工
もされていなかったから、かえって見過ごされてしまったのよ」
「それにしたって無用心じゃないか。そんなに大切なカップがなくなったらどうするつもりだった
のさ」
 釈然としない思いでハリーが文句を言うと、ウィンキーはたちまち憤った。
「ウィンキーは無用心などではございません! ウィンキーはちゃんと見張っていたのです! 
仕事がないときはいつもカップの見張りをしていたのです!」
「昨日の夜も? あなたはカップのことを、ドビーたちには言ってなかったの?」
 すかさずハーマイオニーが尋ねた。
「当然でございます!」
 ウィンキーはフン、と鼻を鳴らした。
「他の屋敷しもべ妖精たちにご主人様の大切なカップのことをぺらぺらとしゃべるだなんて、ウ
ィンキーは絶対になさらないのです! あの者たちにはご主人様の偉大さも、ウィンキーが預
けられた秘密の大切さも理解おできにならないのです!」
「ああハリー、どうしましょう。私、とんでもない勘違いをしていたかもしれない!」
 ハーマイオニーが悲痛な面持ちで顔を覆った。
「ウィンキー、カップがなくなったのはいつ? あなたがそれに気付いたのは?」
「ウィンキーは仕事をおしまいにしてからカップの番をなさいました。昨日の夜からずっと、両方
の目を見開いて見張ってらっしゃいました」
 それは怪しい、と床に転がったバタービールの瓶を見下ろして、ハリーは思った。ウィンキー
はきっと、バタービールを飲む内に眠り込んでいたのだろう。
「それなのに今はカップがないのです! ウィンキーの大切なご主人様のカップが!」
 ウィンキーは胸の奥から吐き出すように絶叫すると、しなびた両手を大きな目に押し当て、わ
っと泣き崩れた。
「分かったでしょう、ハリー。ウィンキーは私たちがホグワーツに帰ってくるのとは関係なく、ただ
カップを守ろうとして、厨房を抜け出していただけなのよ。そしてそのカップは、たぶん私たちが
帰ってきた『後に』誰かが持ち去ったんだわ」
「だけどきみだって昨日は、ウィンキーは誘拐されたとかなんとか言ってたじゃないか。たしかド
ビーがそう言ったって…」
「違うの」
 ハーマイオニーは明らかに怯えていた。
「私とロンは昨日、まず厨房に行ってドビーに『ウィンキーはどこ?』と尋ねたの。そうしたらドビ
ーはこう答えたのよ。『申し訳ありません、先ほどから姿が見えないのです』」
 先を続けることへの迷いを断ち切るかのように、ハーマイオニーはごくりと唾を飲み込んだ。
「ドビーが言ったのは『ウィンキーの姿が見えない』ということだけだったわ。だけどすぐに言っ
たのよ、『逃げたんだ!』って……ロンが」
 ハーマイオニーの唇はわなわなと震え、眉が何かを耐えるように辛そうに寄せられた。
「私…私、それですっかり動転してしまって……だけどウィンキーが悪いことを企んでいるだな
んてとても思えなくて、それでてっきり誘拐されたんだと思い込んでしまったの」
 ハーマイオニーは項垂れた。
「浅はかだったわ。あの時もう少しドビーから詳しく話を聞いていればきっと…」
「僕がきみの立場だったらきっと同じように考えていたと思うよ」
 ワンワンしゃくり上げるウィンキーをそっと床に降ろし、ハリーはハーマイオニーの肩に手を置
いた。
「ハリー・ポッター!」
 バチン、と何かが弾けるような音とほとんど同時に、湿っぽいこの場にまったく相応しくない、
明るいキンキン声がトロフィールームに響いた。
「ドビー!」
 ウィンキーの涙でできた水溜りのすぐ横で、屋敷しもべ妖精のドビーが深々とお辞儀をしてい
た。
「お久しぶりでございます、ハリー・ポッター!」
 ドビーはまたハリーに会えたのが嬉しくてたまらないという態度を全身で表現しながらも、涙で
ぐしゃぐしゃのウィンキーにちらちらと気遣わしげな視線を送っていた。
「マダム・ポンフリーからお言付けがございます、ハリー・ポッター。すぐに医務室にいらっしゃる
ようにとのことでした」
 ハリーははっとしてハーマイオニーを見た。ハーマイオニーはもう青い顔はしていなかった。
頬が高潮し、迷いのないしっかりした目をして、ハリーを見つめ返している。
「ありがとうドビー。そうだ、それから、ウィンキーをどこか…他の生徒や屋敷しもべ妖精たちに
見つからない場所でゆっくり休ませてやってくれないかな?」
 ドビーはにっこり笑い、最上級の敬愛を込めてかしこまりましたと言った。そしてウィンキーに
手を貸して立ち上がらせると、慰めるように小さな背中をぽんぽんと叩いた。
 ハリーとハーマイオニーは頷きあうと、荷物を抱えてトロフィールームを抜け出し、病棟を目
指して走り出した。