「マクゴナガルを呼んでくるんだ!」
怯えきったハーマイオニーから白いケナガイタチを奪い取ると、ハリーは叫んだ。
「僕はこいつを医務室に連れていく」
ハリーは暗い廊下に飛び出すと、一目散に駆け出した。
鍵のかかった病棟のドアを力任せに叩くと、ナイトキャップをかぶったマダム・ポンフリーが慌
てて内側からドアを開けてくれた。マダム・ポンフリーは、ハリーが手に持っている白ケナガイタ
チを見ると、とたんに不機嫌になった。
「私の専門は人間ですよ」
「こいつは人間なんです」
ハリーは欠伸を始めたマダム・ポンフリーに必死で食い下がった。しかしマダム・ポンフリー
は馬鹿馬鹿しくて相手にできないというように、首を横に振った。
「しかし今、人間の形をしていなものの治療は、私にはできません」
ぐったりと力なくハリーの手に抱かれているケナガイタチを、マダム・ポンフリーはやや気の毒
そうに見やった。
「あなたのペットはハグリットのところに連れて行けば、もしかしたら…」
その時、背後からこちらへ向かって駆けて来る足音が聞こえ、ハリーとマダム・ポンフリーは
ほとんど同時に振り返った。赤い髪の毛が薄暗い廊下の中で、炎のように瞬いて見えた。ジニ
ーだ。
「ハリー! マクゴナガルが来るわ」
ジニーは燃えるような瞳でハリーを真っ直ぐに見つめ、それから眉をひそめて血だらけのケ
ナガイタチに目を向けた。白いはずの毛皮のほとんどが、乾き始めた赤黒い血に覆われ、とこ
ろどころ肉が剥き出しになった有様は酷いものだった。
ジニーの言葉通り、間もなくハーマイオニーとマクゴナガル先生が転げんばかりの勢いで病
棟へ到着した。
「中へ。ベッドにその…イタチを置きなさい」
ぜいぜい喘ぎながらマクゴナガル先生が指示すると、マダム・ポンフリーは渋々、ハリーが白
ケナガイタチをベッドに置くことを許可した。生徒用にきちんと整えたベッドが獣の血で汚れて
いくのが耐えられないという表情を隠そうともしなかったが、誰も気に留めなかった。
「ハリー、あなたもそう思ったのね?」
ハーマイオニーが弾ませた息の下から、ほとんど聞き取れない声で囁いた。
「私もなぜだか、間違いなくそうだと思ったの。これはあの時と同じだって」
ハリーが応えるより前に深く深呼吸をくり返し、どうにか息を整えたマクゴナガル先生が、白
ケナガイタチに向かって杖を振り、呪文を唱えた。
たちまちベッドの上の白ケナガイタチが消えうせ、枕の上に淡いプラチナブロンドが広がっ
た。ハーマイオニーが呻き、ハリーの腕を掴んで爪を立てた。
体といわず顔といわず、血の噴き出ていない箇所の方が少ないくらいのドラコ・マルフォイを
見て、マダム・ポンフリーはハーマイオニーのように悲鳴を抑えることはできなかった。けたた
ましい悲鳴を上げ、そのまま治療用のワゴンごと卒倒しかけたが、自分の役目は忘れなかっ
た。マダム・ポンフリーはすぐに意識のないマルフォイの上に屈み込み、手当てを始めた。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
マダム・ポンフリーは固唾を呑んで見守る四人に、言い聞かせるように言った。
「助かります。助かりますとも。だけどすぐに手を打たないと――誰か薬品庫の棚からハナハッ
カのエキスを取ってきて。黄色い壷に入っています」
ジニーが物も言わず薬品庫へ飛んでいった。
「きっと逃げ出してきたのでしょう…あの人のところから。愚かなことを…」
目にうっすらと涙を浮かべ、マクゴナガル先生はマルフォイの髪にべっとりとこびりついた血
を拭った。
「傷は残るでしょうか」
「たぶんほとんどは綺麗に治ります。傷口は多いけど浅いみたいだから――」
ジニーが取ってきたエキスを患部にたらし、さらに何種類もの薬を塗りつけると、マダム・ポン
フリーはマルフォイの全身を包帯でぐるぐる巻きにしてしまった。
「ミス・グレンジャー。あなたの話ではあなたの猫がマルフォイをくわえてきたということでしたが
…」
マクゴナガル先生がグイと鼻眼鏡を押し付けて、ハーマイオニーをじろりと睨んだ。
「クルックシャンクスじゃありません、絶対に!」
ハーマイオニーは憤慨のあまり、顔色がクルックシャンクスの毛の色になった。
「あの子は傷付いたマルフォイを私のところに連れてきただけです」
ハリーは言うべきかどうかためらったが、この場で思い切って打ち明けてしまうことにした。
「僕がやりました」
全員の視線がハリーの上に集まった。マダム・ポンフリーさえ治療の手を止めて、飛び出さん
ばかりに目を見開き、ハリーを見つめていた。
「夢を見たんです。ウィーズリーおじさんのときと同じだった。僕は蛇になっていた」
マクゴナガル先生はへなへなと床に座り込んでしまった。ジニーとハーマイオニーも大変なシ
ョックを受けたようだった。マダム・ポンフリーだけがなんのことか分からずにいる様子だった
が、ハリーは繰り返した。
「僕は蛇としてマルフォイが、フードをかぶった人物に襲われているのを見ていました。場所は
ホグワーツの校庭だった」
「ポッター、あなたは自分がなにを言っているか分かっているのですか」
マクゴナガル先生はハーマイオニーの手を借りて立ち上がりながら、かろうじて威厳のある
言い方でハリーを咎めた。
「分かっています。僕が蛇になるということは、僕の精神がヴォルデモートに乗っ取られている
という意味だと」
ハリーが大声で言い返したその時、病棟のドアが開き、青ざめたロンが病棟に入ってきた。
「何があったんだ」
一斉に振り返った五人の視線を浴びて、ロンは困惑したように入り口のところで立ち止まっ
た。ロンはパジャマの上にローブを羽織っていた。靴下もはいていない足を革靴に突っ込んで
いる。ローブとパジャマのズボンの裾は、なぜか水をたっぷりと含んでいるようで、病棟の清潔
な床の上に、ぽたぽたといくつもの染みを落としていた。
「寮中が大騒ぎだぞ、ジニーまで…おい、誰か怪我でもしたのか?」
ハリーの動きは素早かった。ぐるりと人に囲まれたベッドに横たわっているのが誰か、ロンが
気づくより先に、ロンの肩を掴んで廊下に引っ張り出した。
「ハリー、一体何が…」
「どこに行っていたんだ?」
日が昇る時刻が近付いていたのだろう、廊下は窓から入り込む光で、先ほどよりも明るくなっ
ていた。薄明かりの中でぼんやりと浮かび上がるロンの顔は、まるで知らない人のように見え
て、ハリーは恐ろしい予感にゾッとした。
「どこにって…それはきみの方だろう? 僕はずっと寝てただけじゃないか」
なぜか怒ったように言い返されて、ハリーは絶望がより濃く、そして深くなっていくのを感じ
た。
「ロン、正直に言ってくれ。どこに行ってたんだ? ベッドを抜け出して、何をしていたんだ?」
ほとんど祈るような気持ちで言うと、ロンはあからさまにうろたえ、ハリーから目を逸らした。
「何の話だよ、僕はただ…」
「ズボンの裾が濡れている。積もった雪の中を歩いたせいじゃないのか?」
これはどうやら核心を突いたらしい。ロンは反論するために開きかけた口を、何も言わない
まま閉じてしまった。
「ハリー、マクゴナガル先生がお呼びよ」
不意に病棟のドアが内側から開き、勢いよくジニーが出てきた。ジニーはあっけにとられてい
るロンの腕を掴み、さっさと歩きだしてしまった。
「私たちは先生から連絡があるまで寮で待機ですって」
「待てよジニー! 僕はハリーと話をしていたんだ」
「あら、それじゃ私に寮まで一人で帰れっていうの? 途中で何かあったらどうしてくれるのよ」
ハリーはどうするべきか迷っていたが、ジニーがロンの陰から自分に向ってはっきりと頷いた
のを見て、ドアノブに手をかけた。
「ハリー、きみは誤解している!」
背後でロンが喚いたのを断ち切るようにして、ハリーは病棟のドアを後ろ手に閉め、鍵をか
けた。
「ハリー」
すぐにハーマイオニーが近寄ってきた。彼女の顔色は、寮の談話室でマルフォイを腕に抱い
ていた時以上に、白くなっていた。
ハーマイオニーが何も気づかなかったわけは無い、とハリーは思い、同時に呼吸ができなく
なるほど、重苦しい気持ちに襲われた。
「今、マルフォイを聖マンゴ病院に移すべきかどうか、お話していたの」
「駄目だ!」
即座にハリーは叫んだ。マルフォイの首の周りに包帯を巻きつけていたマダム・ポンフリーが
振り向いて、大声は禁止だと注意した。
「だってマルフォイを聖マンゴに送ったりしたら、すぐに魔法省がマルフォイを逮捕するに決まっ
ているじゃないか」
マルフォイは確かに嫌な奴だった。ダンブルドアの命を狙ったり、ホグワーツに死喰人を侵入
させる手引きまでした。それでも傷を負い、力なくベッドに横たわるマルフォイを魔法省に引き
渡すのは、とても酷いことだとしか思えなかった。
「それにマルフォイを襲った奴は、マルフォイが生きていることを知ったら、また命を狙おうとす
るかもしれない」
「ポッター、あなたが見たという夢について、もう一度詳しく話してもらえませんか」
マクゴナガル先生が言った。ハリーはどうにか気持ちを落ち着かせると、蛇になったときの様
子をできるだけ詳しく話して聞かせた。
「するとあなたはホグワーツの中から、玄関ホールを通って校庭へ出て行ったのですね」
「はい」
ハリーはイライラと短く答えた。さっきからマダム・ポンフリーが度々手を止めて、ハリーの話
に聞き入っていたからだ。こっちのことは放っておいて、マルフォイの治療に専念してほしいと
ハリーは思った。
「けれどマルフォイを襲ったのはあなた――蛇ではなく、人間だったのですね」
「そうです」
「傷口に牙の痕はありませんでしたよ。すべて闇の魔法や呪いによるものです」
マダム・ポンフリーの言葉に、ハリーは少しだけほっとした。もしもあの時、自分が欲望のまま
に白ケナガイタチに牙を立て、それが致命傷になっていたらと考えるだけで吐き気がした。
しかしマクゴナガル先生の次の一言で、ハリーは再び強烈なショックを受けた。
「マルフォイを攻撃した人物もホグワーツの中から校庭へ出て行ったのでしょうか」
ハリーは必死になって記憶を手繰った。たしか、雪の中で前を歩く人物がつけた道があった
はずだ。
「そうだったと思います」
「つまり、マルフォイを襲ったのはホグワーツの中の誰かっていうこと?」
ハーマイオニーが、誰か否定してほしいというような口ぶりで言ったが、マクゴナガル先生は
黙ったままだった。ハリーは、ロンの濡れたズボンとローブの裾のことが、頭から離れなかっ
た。
「先生方や生徒たちを疑うようなことはしたくありませんが…もしも犯人がホグワーツの中にい
るのだとすれば、マルフォイは聖マンゴ病院に送ったほうが、かえって安全かもしれません。聖
マンゴならば、もし怪我の状態が悪化することがあっても安心でしょうし」
ようやく手当てが一段落したらしいマダム・ポンフリーが、マルフォイの顎のところまで毛布を
引っ張り上げてやりながら言った。最後に天文塔の上で見たときよりもマルフォイは一段と痩
せて、顎の線ばかりがとんがって見えた。
「いずれにせよ、至急ホグワーツ特急の準備をしなくては」
マクゴナガル先生は意を決したかのようにすっくと立ち上がり、病棟から出て行こうとした。ハ
リーはびっくりして、後先考えずにマクゴナガル先生の前に立ちはだかった。
「先生! まさか生徒たちを家に帰すつもりですか?」
「もちろんですよ、ポッター。マルフォイを襲ったのがあの人の仲間か、たとえそうでないにして
も、このように残虐な行為を行う人物がホグワーツにいると分かった以上、生徒たちをここに
留めておくのは危険です」
「だけど今、みんなを家に帰したら犯人が分からなくなります!」
マクゴナガル先生は厳しい表情で首を振ると、ハリーに告げた。
「ポッター、私たちが今一番になすべきことは犯人探しではありません。生徒たちの安全を守る
ことです」
「マルフォイだってホグワーツの生徒だ!」
思わず飛び出したハリーの言葉に、マクゴナガル先生はおろか、ハーマイオニーやマダム・
ポンフリーまでぽかんと口を開けた。ハリーは、自分がひどく場違いなことを口走ってしまった
ような気がして、顔を赤らめながら慌てて付け加えた。
「もちろん、マルフォイがホグワーツに戻ってきたのは、ヴォルデモートの言いつけでホグワー
ツのスパイをするためだったという可能性もあるけど、そうだとしたってマルフォイがホグワーツ
の生徒であることに変わりはないでしょう? きっとダンブルドアならそう言ったと思います」
「マルフォイがホグワーツをスパイするために戻ってきたはずはないわ。だってマルフォイは蛇
――要するに『あちら側』から襲われたのでしょう? もしもマルフォイがヴォルデモートの指示
で動いているのだとしたら、彼が攻撃される理由がないわ」
すかさずハーマイオニーが助け舟を出したので、ハリーは頷いて続けた。
「それに、マルフォイは自分を襲ったのが誰だったのか、見ているんじゃないかと思うんです」
ハリーを見つめていた三人の視線が、一気にマルフォイへ注がれた。
「だから、せめてマルフォイが目を覚ますまで、生徒たちを家に返したり、マルフォイを聖マンゴ
に送るのを待つわけにはいかないでしょうか」
マクゴナガル先生はベッドの傍らへ戻ると、毛布の上に投げ出されたマルフォイの小さな白
い手に、自分の手を重ねた。
「ポピー、ミスター・マルフォイの意識が戻るのはいつぐらいになりそうですか?」
マダム・ポンフリーはしばらくの沈黙の後に、ゆっくりと答えた。
「十二時間以内には、確実に」
マダム・ポンフリーの返答を聞いて、マクゴナガル先生はハリーに向き直った。
「ではポッター、二十四時間だけ待ちましょう」
マクゴナガル先生は有無を言わせぬ口調で、きっぱりと言った。
「明日の朝には全校生徒と教員たちをホグワーツから退避させます。あなたもですよ、ポッタ
ー」
「僕も?」
「そうですポッター、あなたもです。マルフォイと同じように、あなたもまたホグワーツの生徒であ
ることに違いないのですよ。あなただけがホグワーツに残ることは許されません」
ハリーはかすかに抱いた希望がみるみるしぼんでいくのを感じた。たった二十四時間の間
に、マルフォイを襲った犯人を捕まえた上、ホグワーツにまだ隠されているかもしれない分霊箱
を探しだすなんて芸当ができるだろうか。
「明日の朝まではこのことを公表しないでおきましょう。マルフォイが無事だったという情報が下
手人の耳に入れば、あなたの言う通りまた、マルフォイが危険に晒されるかもしれません。あ
なた方も何か聞かれても決して答えたりしないように。いいですね?」
ハーマイオニーが分かりましたとすぐに言ったので、ハリーも仕方なく頷いた。
「ジニー・ウィーズリーには私から口止めしておきます。あなた方は…」
「ウィンキーと『あれ』を探しに行きます」
ハリーはそれだけ言うと、さっさと病棟のドアを開けた。
「マルフォイの目が覚めたら、教えてください」

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