「ジニー!」
ハリーは鋭く叫んだ。屋上のドアが開け放たれている。悲鳴はあのドアの向こう側から聞こえ
てきた。さっき加わったもう一つの足音はジニーだったのだ。ハーマイオニーが倒れているとこ
ろを見つけたのか、それともジニーも独自に見張りを行っていたのだろうか。屋上で今度は悲
鳴の代わりに何かが爆ぜる音がした。
まさかロンが妹に危害を与えるはずはないと信じたかったが、すでにマルフォイとハーマイオ
ニーがやられている。安心するわけにはいかなかった。ハリーは疲労ででもつれそうになる足
を叱咤して、屋上へ突進した。
防壁に囲まれた屋上に、ロンがグリフィンドールの剣を握り、大の字になって伸びていた。傍
らに立ち尽くしていた、青ざめた顔のジニーがハリーの胸に縋り付いてきた。
「ああ、ハリー…怖かった!」
ハリーは両手で顔を覆い泣きじゃくるジニーの背に手をまわし、しっかりと抱き締めた。
「わ、私…やっぱりロンのことが気になって…何かおかしいと思って眠れなかったの…そしたら
隣の部屋から物音が聞こえて……廊下を覗くと、ロンが三年生の寝室からグリフィンドールの
剣を持って出てくるところが見えたの。変だと思ったわ。だって今年は誰もホグワーツに戻って
こなかったから、三年生の寝室を使っている生徒は一人もいないはずだったんですもの。すぐ
に追いかければよかったんだけど…」
「続きを話してくれ」ハリーは花のような香りがするジニーの髪を撫でて宥めた。
「ロンが行ってしまうのを確かめてから、三年生の寝室に入ったの。そしたらハーマイオニーが
倒れていて…もちろんすぐに助けようとしたんだけど、私、蛇に襲われて…」
「何だって?」ハリーはジニーの肩を掴んで、顔を覗きこんだ。「いま、なんて言った?」
「蛇よ」ジニーが囁いた。
「あなたが昨日言っていた奴かもしれない…私、そいつに襲われそうになって、とにかく逃げる
ことしかできなかったの。ハーマイオニーを助けられなかった!」
「それで…ハーマイオニーはどんな様子だった?」
「血を流して、私が呼びかけてもぴくりとも動かなかった。きっと蛇に噛まれたのよ」
ジニーの瞳は燃えるように赤い髪の色を映して、異様なまでに輝いていた。少しでも気を抜い
たらその瞳の深い色の輝きに、吸い込まれそうだった。
「私はとりあえず寮を飛び出して、ロンを探し回っていたの。しばらくしたらあなたたちの足音が
聞こえたので、夢中で追いかけていたらいつの間にかここまで来ていたわ」
ジニーはハリーの胸を押し、腕の中からするりと抜け出すと、ロンの傍にしゃがみこんだ。
「ロンは普通じゃなかった……何かに取り付かれているみたいだったわ。怖い目で私を睨ん
で、剣を振り回してきたの。私、夢中で失神呪文を……」
「クルックシャンクス」
ハリーは舌縛りの呪いをかけられてでもいるように、押し殺した声を出した。「クルックシャン
クスはどうしたんだ?」
「ええ?」
ジニーがゆっくりと振り向いた。「クルックシャンクスがどうかしたの?」
「クルックシャンクスが蛇を退治したはずだ」
「そうなの?」
何かがおかしい。ハリーは体を引いて身構えた。言い知れぬ恐怖が足元から這い上がり、緩
やかに肺を締め付けた。
「ジニー、グリフィンドールの剣を取ってくれないか?」
「ええ」
ジニーはロンの手からグリフィンドールの剣を抜き取り、ハリーの方へ歩み寄った。俯き加減
で肩を震わせて泣いている。ハリーは一瞬、自分が突拍子もない妄想に捕らわれただけでは
ないかと不安になった。
月光を反射した銀色の剣が、一筋の閃光となり振り上げられた。ハリーはシーカーで鍛えた
反射神経で飛び退き、最初の一太刀をかろうじて避けた。
ジニーは泣いてなどいなかった。月に背を向けて剣を掲げ、肩を震わせて笑っている。ハリ
ーの背筋を冷たい戦慄が駆け抜けた。
「どういうつもりだ、ジニー!」
「まだ気付いてなかったの?」
ジニーの口が動いた。しかしそれはもはやジニーの声ではなかった。ぞっとするほど冷酷で、
残忍な響きだった。
「きみの可愛いジニー・ウィーズリーは、もういないよ」
ハリーはかつてホグワーツの地下深くに眠る秘密の部屋で、その声を聞いたことがあった。
「リドル!」
「やっと思い出してくれたんだね」
ジニーの姿を借りたトム・リドルは蛇のような笑いを浮かべた。
「だけどもう一つ忘れないでおいて欲しかったことがあるよ。僕の名前はリドルじゃない。ヴォル
デモート卿だ」
リドルは剣を構え、ハリーに向かってきた。きわどいところでかわし、剣はハリーの後ろの防
壁に当たって火花を散らした。
「ステューピファイ!」
ハリーが発した呪文を、リドルはゴドリックの剣で薙ぎ払った。
「ジニー! 目を覚ますんだ」
再び刃が振り下ろされ、ハリーの顔を掠めた。ぬらりとした液体が頬を伝った。
「目を覚ませ?」
リドルがせせら笑った。
「ハリー、きみは勘違いをしているよ。僕がこの子の身体を乗っ取ったわけじゃない。彼女が望
んだことなんだ」
「嘘だ!」
「まあ、きみとしてはそう信じたいところだろうね」
リドルは剣の先に付着したハリーの血液をぺろりと舐め取った。
「きみがバジリスクの牙で日記帳を破壊した時、僕という存在は掻き消され、ばらばらにされる
ところだった。正直、僕は覚悟したよ。これが死というものかってね。でもこの子が…恥ずかし
がり屋で好きな男の子に声をかけることもできなかったおちびさんのジニーが、僕を引き止め
たんだよ」
ハリーは首を振った。
「有り得ない。ジニーはお前に殺されかけたんだ」
「あれだって、最初から約束していたことさ」リドルはこともなげに言った。
「僕がきみの一番の友達になってあげる。誰よりもきみを大切にしてあげる。そう言ったら、ジ
ニーは大感激さ。僕のためになんでもすると言い出したんだ。だから僕はお願いしたんだよ。
きみの命を分けてほしいってね」
ハリーは目を見開いた。
「ジニーは一も二もなく承知したよ。なにしろ自分の命を僕に分け与えれば、僕は薄っぺらな日
記帳から抜け出して、生身の人間になることができたんだから」
「だけどジニーはお前に怯えていた!」
「そう、おちびさんは直前になって怖じ気付いたんだ。本当にあと少しだったのに、急に自分が
やっていることが罪深いことであると錯覚して、僕から逃げ出そうとした。だけど彼女の心はも
うすっかり僕のものだった。彼女は僕を怖がる一方で、僕という存在が消えてしまうことをひどく
恐れていた。だからこそ日記帳が破壊され、僕が消滅するその瞬間、彼女は自分の意識に僕
を引っぱり込んだ。あの時ばかりはジニーに心から感謝したね。おかげで僕は日記帳に眠って
いた時からさらに弱く、ちっぽけな存在に成り下がってしまったが、この世に留まることができ
た」
ハリーは少しでも長くリドルにしゃべらせておこうと思った。その隙に息を整えて間合いを取
り、次の攻撃に備えることができる。
「ジニーは僕が彼女の中で生き続けることをとても喜んだよ。以前より力を失った僕は、彼女に
恐ろしいことを強要しない、ひたすら優しくて忍耐強い、最高の友達だった。彼女は誰にも言え
ない秘密を全て、この僕に打ち明けた。僕は彼女の人生そのものだったといってもいい。それ
くらいたくさんのことを僕たちは共有していた。ハリー・ポッター、もちろんきみのこともね」
リドルはクスクスと笑い声を漏らした。
「傑作だったよ。ジニーは毎日きみのことを話した。ハリー・ポッターがいかに素晴らしくて、か
っこいい、みんなのヒーローかってね。きみに殺されかけたこの僕を相手にだよ? 女の子た
ちはみんなハリー・ポッターに憧れている。チビで貧乏人の自分に勝ち目なんかありっこない。
ダンスパーティーに誘ってもらいたいけど、ハリーはチョウに申込みをした」
ハリーはジニーの辛い胸の内を思い、切なさが込み上げた。
「だから僕は教えてあげたよ。きみはとっても魅力的な女性だ。ただ男の子との付き合い方が
ちょっぴり下手なだけだよってね。僕がお手本を見せてあげると言ったら、ジニーは大喜びだっ
た。そしてハリー、事実きみはおかしいくらい簡単に引っかかってくれたね」
「僕が?」
ハリーは言った。自分でも驚くほど大きな声だった。「それは違う、リドル。僕はお前のやり口
に引っかかったりしていない。僕が好きになったのはジニー・ウィーズリーその人だ」
「明るく元気、勇気があって友人に優しく、自分の意見をはっきり言うことができる。クィディッチ
が上手で男の子に大人気のジニー・ウィーズリー」
リドルが歌うように言った。
「気付かなかったの? それはジニーなんかじゃない。僕だ」
「そんなはずがない!」
「きみはジニー・ウィーズリーのことをこれっぽっちも理解していなかったんだよ、ハリー。本物
のジニー・ウィーズリーは大勢の兄の後ろで、有名人のきみを眩しそうに見つめてずっともじも
じしている、内気で意気地なしの女の子でしかなかったんだ。きみが魅力を感じるところなど一
つもない、実に平凡な小娘を、僕が美しく価値のある恋人に作り変えてあげたんだよ」
リドルがハリーとの間の距離を一歩詰めた。
「だけどきみがジニーに夢中になるにつれて、当のジニーはだんだん苦痛を感じるようになって
いった。だってきみが好きになったのはジニーじゃなくて、この僕だったんだから」
また一歩、二人の距離が縮まったが、ハリーは射竦められたようにその場を動くことができな
かった。
「きみがジニーにキスした瞬間は、ジニーにとって最高に幸せであると同時に、最もみじめな瞬
間だったと思うよ。本当の自分には見向きもしなかったハリー・ポッターが、偽の自分を愛して
いると思い知ったのだから。その日から僕たちの関係は逆転した。ジニーは無気力になり、僕
に全ての決定を委ねるようになったんだ。その方がハリーも幸せだろうからね」
リドルの手が伸び、ハリーの頬に触れた。すでに固まり始めた血の痕をなぞり、親指がハリ
ーの唇に触れた。
「だって好きだったんだろう? 僕のこと」
ハリーは渾身の力を込めて、リドルの手を撥ね退けた。「ジニーの体を返せ!」
「もう手遅れだよ。彼女の意識は深いところで眠っている。きみの声なんか届きっこない所で
ね」
「お前の目的は何だ、リドル? ジニーの体を乗っ取ったところで、ヴォルデモート卿にはなれ
ないぞ。五年前とは状況が違う。あいつはすでに自分の体を持ち、復活している」
「ああ、それだよ、それ」
リドルの口が横に広がり、貪欲な蛇が舌なめずりして獲物を物色するような表情になった。
「僕はきみを殺したいわけじゃない。まして現在、ヴォルデモート卿と名乗っている奴の下につく
つもりも毛頭ない。僕には僕なりの計画がある」リドルの体が急に艶かしくくねり、剣を持ったま
まの両腕がハリーの首に巻きつけられた。
「僕は予言に逆らってみたい」
思いがけない言葉に、ハリーはひるんだ。
「僕が闇の帝王として君臨し、きみがそれを打ち破る――なんて陳腐な筋書きだろう。まるで誰
かが裏で操っているみたいだと思わないか? 悪は必ず倒されるというお決まりの台本を、世
界中に知らしめるためにでっち上げられた三文芝居だ。僕は諸悪の根源としてきみに殺される
のを待つだけの、愚かな道化になんてなりたくない。きみだって本当はそうじゃないか?」
リドルは赤い瞳で妖しくハリーを見上げ、微笑んでさえみせた。
「一方が生きるかぎり、他方は生きられぬ……誰が好き好んで人殺しの外れ籤を引きたが
る? きみなら分かるはずだ…いや、きみにしか分からないだろう。決められた運命のレール
なんて、むちゃくちゃに壊してやりたいと願う、僕の気持ちが」
ハリーは目を逸らせなかった。熱い吐息を零す赤い唇が近付いてくる。
「僕と一緒に世界を変えよう。闇の帝王も英雄も関係ない。僕たちには僕たちにしかできない
やり方で、世界を変える力がある」
二人の唇が重なる寸前、ハリーは目を閉じた。次の瞬間、首に回されていた腕の感触がなく
なり、ハリーは屋上の床に尻餅をついていた。金属が石の上を転がっていく耳障りな音が聞こ
えた。

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