腹の下にすでに慣れ親しんだ感触があった。ざらざらとして、冷たい石の床だ。廊下の片側
には同じようなドアがいくつも並んでいた。その中の一つだけが細く開き、オレンジ色の光が暗
い床を切り取っている。
ハリーは敷居を跨いで部屋の中に入っていった。真紅の天蓋付のベッドの脇に、女性が倒
れている。ふわふわとした茶色い髪の毛だ。手に、古くて薄汚い羊皮紙を握り締めている。彼
女の細い指は、絶対に離すものかという強固な意志の表れであるかのように、しっかりと羊皮
紙に食い込んでいた。
ハリーは安堵した。ここにはあの恐ろしい生き物はいない。爪を立てられ、獰猛な牙で噛み
砕かれる心配は無用だ――ハリーはするすると床に倒れたハーマイオニーに近付いていっ
た。
次の瞬間、ハリーは反対側の壁際まで吹っ飛ばされていた。何が起こったのか理解する前
に、重く毛むくじゃらの生き物に圧し掛かられて、身動きが取れなくなった。がむしゃらに噛み
付いてみたが、引きちぎられた毛が気持ち悪いくらい口の中をいっぱいにして、息が詰まっ
た。腹に鋭い爪を当てられ、自分が八つ裂きにされるのが分かった。ハリーは絶叫した。
校長室の前の廊下にハリーは倒れていた。透明マントは完全に体から滑り落ちている。ハリ
ーは額を押えた。額の傷はまだ熱さと痛みを訴えていたが、耐えられないほどではなかった。
それよりも左手が、炎でも握り締めているかのように熱い。
火傷するほどの熱さを感じて拳を開くと、DAのガリオン金貨が灯りを落とした暗い廊下の中
で、眩いまでに輝いていた。ハリーは急いで文字を解読しようとした。金貨の裏側の数字が、
見たことのないぐにゃぐにゃした記号のようなものに変わっていた。
ハリーは迷った。ハーマイオニーからの指示は「病棟へ急げ」だった。しかしたったいま、ハリ
ーが見た夢ではハーマイオニー自身が襲われていた。クルックシャンクスが蛇を最後まで仕留
めたかどうか、ハリーには確かめる術もなかった。
だがぐずぐずしている猶予は一秒も与えられていない。ハリーは透明マントだけを持って立ち
上がると、意を決して階段を駆け下りた。グリフィンドール塔より病棟の方が近い。まだ病棟に
変化がないようなら、とりあえずマダム・ポンフリーとマルフォイを叩き起こして用心させ、自分
はグリフィンドール塔へ急行するつもりだった。
先回りできたか自信は全くなかったが、ハリーは病棟へ到着すると、いきなり攻撃されても大
丈夫なように杖を取り出し、身構えてドアを細く開けた。一番奥のベッドだけ、周りにカーテンが
引かれている。仄かなランプの灯りが、カーテンの内側で蠢く人を影絵のように照らしだしてい
る。
耳を澄ませてしばらく様子を伺い、ハリーは姿勢を低くしてそろそろとベッドの間を進んだ。マ
ルフォイのベッドの前まで来ると、一思いにカーテンを引いた。
「何かあったのか」
上半身を起こして呑気に読書をしていたマルフォイは、乱入してきたハリーに度胆を抜いた。
「まだ何も起きてないんだね?」
ハリーは喘ぎながら言った。
「それなら良かった、僕はグリフィンドール塔に戻る。マダムを呼ぶんだ、君がまた狙われる」
呆気にとられるマルフォイを置いて病棟を出ようとした途端、ハリーは傷痕が先程よりも強く
痛むのを感じた。マルフォイが息を呑み、持っていた本をシーツの上に落とした。ハリーは考え
るより早く体の向きを変え、マルフォイの枕もとのランプを吹き消した。途端に相手の顔も見え
ないくらいの暗闇が辺りを包んだ。
「あいつが来る」
マルフォイの囁き声が聞こえた。ハリーはなにも言わずにマルフォイをベッドから引き摺り下
ろし、手探りでベッドの下に押し込んだ。「そこにいるんだ」
ハリーは素早くベッドに横たわると、引っ張り上げた毛布の下で杖の用意をした。
今度は居眠りをする心配はなかった。待つほどのこともなく、病棟のドアがわずかに軋み、誰
かが入ってくるのが分かった。薄いカーテンを透かして、こちらへ近付いてくる杖灯りが見え
た。
ハリーはじっとりと汗ばんだ手のひらで、杖を握りなおした。相手はルーモスを使っている。と
いうことは、カーテンを開けてこちらを攻撃するまでの間に、いったん呪文を解除する間が生ま
れるはずだ。そこを突いて先制攻撃を仕掛けようと、ハリーは計算した。
足音はカーテンの前で止まった。カーテンが開き、相手がベッドのすぐ脇に立った……。
ハリーは直感的に体をひねってベッドから転がり落ちた。マルフォイの上に落下したせいで、
不意をつかれたマルフォイが潰された蛙のように無様な声を上げた。しかしこの判断が結果的
にハリーの命を救った。
ドアの僅かな隙間から、松明の灯りが漏れ入っていたおかげで、ハリーは自分の頭上で無数
の羽根が飛び散るところを見ることができた。鋭利なグリフィンドールの剣が、さっきまでハリー
が頭を乗せていた羽根枕を刺し貫いていた。
「エクスペリアームズ!」
狙いが外れ、呪文はサイドテーブルを吹き飛ばしたが、相手を怯ませるには十分だったよう
だ。このような反撃を予想していなかったらしい相手は、グリフィンドールの剣をベッドから引き
抜くと、一目散に病棟から逃げ出していった。
「待て!」
ハリーも急いで後を追った。暗さと、目深にかぶったフードのせいで顔はおろか背格好すら判
別できなかった。しかしこの絶好のチャンスを逃してなるものかと、ハリーは足音のする方角へ
無我夢中で走っていった。
足音は階段を上の方へどんどん上がっていった。ハリーとの間には優に一階分以上の距離
ができている。ハリーは手摺から身を乗り出し、上に向かって一か八か杖を振った。
「ステューピファイ!」
赤い光線は上階の手摺を掠め、ばらばらと細かく砕けた石が頭上に落ちてきた。ハリーはそ
れを手で防いで、さらに上へ向かった。やがてハリーは、相手が天文塔へ逃げ込んだことに気
が付いた。その時、ハリーの少し上を行く足音に、もう一つ別の足音が新たに加わった。ハリ
ーはぜえぜえと息を切らしながら、ハーマイオニーが立ち直って応援に駆けつけたのか、それ
とも死喰人の仲間が合流したのだろうかと考えた。
ハリーが追いかけている相手はまだ天文台の塔を駆け上がっていた。一度天文台の塔に入
り込んだら、今ハリーが上っている階段を降りる他に、逃げ道はない。ついに追い詰めたかと
思った。
「助けて!」
屋上へ続く最後の階段を上り始めた途端、助けを求める女性の悲鳴が塔の中を満たした。

|