ダンブルドアの言葉が終わるか終わらないかの内に、ハリーの体は持ち上がり無意識の中
を急上昇した。気付くとハリーは校長室の床に蹲って震えていた。
口元を押えて必死で堪えたが、横隔膜が勝手に痙攣し、しゃくり上げと嗚咽が止まらなかっ
た。目の前に立つ二本の脚はマルフォイのものだと分かっていたが、恥ずかしさを感じる余裕
もなく、笑いたきゃ笑えと思った。しかしマルフォイは笑わなかった。
十六年前のハロウィンの夜、ヴォルデモートがゴドリックの谷を襲うことを、ダンブルドアは予
測していた。スネイプにもマルフォイにも、なぜヴォルデモートがホグワーツの創始者たち縁の
品々に固執するか分からなかっただろうが、ダンブルドアとハリーだけは知っていた。ヴォルデ
モートはハリーを殺すことで、グリフィンドールの剣を最後の分霊箱に仕立て上げるつもりでい
たのだ。
ヴォルデモートが予言の子供にネビルではなくハリーを選んだのは、決して偶然などではなか
った。あんなに憎んでいたスネイプがハリーの命を救い、両親の死を悼んだ。全てを賭して信
頼したダンブルドアは、逆にハリーと両親を囮にすることも厭わなかった。より多くの人々が平
和に暮らすという大義名分の下に、ハリーたち一家のささやかな幸せは一刀の下に切り捨てら
れたのだ。
流れ落ちる涙を拭うこともできないまま蹲っているハリーから、マルフォイがそっと離れ、ガラ
スケースを開けてゴドリックの剣を取り出した。
「あの方が持つのにもっとも相応しい剣とは、どういう意味だ?」
ハリーは鼻をすすり、涙に濡れた眼鏡をトレーナーの端でぐいとこすって立ち上がった。完全
に立ち直ったわけでも、気持ちを切り替えることができたわけでもなかったが、何か明確にや
るべきことがあるというのは救いだった。
「これは間違いなくゴドリック・グリフィンドールの持ち物だよ。ヴォルデモートはスリザリンだっ
たろう?」
「だけどダンブルドアは、この剣はあの方が持つのが相応しいと言っていた」
「ああ。だけどこの剣を実際にヴォルデモートが所有したことは一度も無いし、あいつにはそん
な権限なんてもちろんないはずだ」
柄に卵ほどの大きさのルビーがいくつもはめ込まれた見事な銀の剣には、鍔のすぐ下にゴド
リック・グリフィンドールの名前が刻まれていた。
「真のグリフィンドール生だけが、いざという時に組分け帽子の中からこの剣を取り出すことが
できるんだ」
校長机の後ろの棚の上に置かれた、つぎはぎだらけでボロボロの汚らしい三角帽子へ目を
向けたハリーは、突然浮かんだ考えに心が躍った。追い求めていた答えを一気に教えてくれる
相手を、やっと捕まえたかもしれない。
ハリーは急いで棚に駆け寄ると、手を伸ばして組分け帽子を掴み、一息にかぶった。最後に
組分け帽子をかぶった二年生の時からずい分成長したはずなのに、やはり以前と同じように
帽子は目の上まで滑り落ちた。ハリーは目を開いたまま、帽子の内側を見つめて待っていた。
やがて幽かな囁き声が耳に届いた。
「久しぶりだね、ハリー・ポッター。わたしに聞きたいことがある様子だね」
「そうです」ハリーは言った。「あなたはずっと前、ホグワーツができた頃から生きているんです
よね。あの、つまり生きてるって言うのは…」
「構わないよハリー、使いやすい言葉で話してくれて。わたしはちゃんと理解できるさ。それ
で?」
「ホグワーツを作った魔法使い…グリフィンドール、レイブンクロー、ハッフルパフ、スリザリンに
ついて、僕に教えてくれませんか。あなたは以前、彼らが集まり、ホグワーツを作った時のこと
を歌にしてくれた」
「覚えていてくれて嬉しいよ」帽子は言った。「きみが何を知りたがっているのか、わたしには分
かっている。見せてあげよう、ハリー」
ブーンと、蜂の唸り声そっくりの音が響いた。ハリーは思わず組分け帽子を脱いで、辺りを見
回した。音の出所は、必要の部屋から持ち出した懐中時計だった。ズボンのポケットから引っ
張り出すと、針が恐ろしいほどのスピードで逆回転をしている。驚いて組み分け帽子に尋ねよ
うと顔を上げたハリーは、辺りの光景にさらに仰天させられた。
校長室は、まるでビデオテープをとんでもない速度で巻き戻しているかのように、急激に時代
を遡っていた。いつの間にかマルフォイの姿は消えている。壁にかけられた肖像画の数がどん
どん少なくなっていき、棚や机の上に飾られた小物はめまぐるしく変化していった。ほとんどい
つの時代も変わらず同じ場所に置かれている組分け帽子とグリフィンドールの剣だけは、動き
のないままその色だけがどんどん鮮明になっていった。
やがて校長室はぴかぴかの新品、出来たばかりの状態になったが、それでも時計の針は止
まらなかった。寸分の隙もなく貼られた壁紙がもっとも美しい一瞬の後、容赦なく取り払われ、
石の土台が剥き出しになったかと思うと、瞬きをしている間に壁が枠ごと消え去った。ホグワー
ツの堅牢な城自体が作られる前、ざっと千年以上の時間を遡ってしまったところで、ようやく懐
中時計の針の動きが鈍くなり、ハリーは気づけば自分が、澄み切った青空に浮かんでいること
に気付いた。
前方には年若い木々がまばらに生える林が見えた。あれがハリーたちの良く知る禁じられた
森の生まれたばかりの姿なのだ。首を巡らせると、大きな湖や岩肌を覗かせた山々が見通せ
た。見慣れているようで、まったく違う景色にハリーの目は釘付けになった。
ふと見下ろした地面に、いつの間にか人影が集まっていた。ハリーのいる上空からでは、豆粒
のようにしか見えない。もっと良く見ようと顔を下に向けると、ハリーの体全体がゆっくりと下降
を始めた。
地面に近づくにつれて、ハリーには彼らの特徴を見分けることができた。人影は全部で四人
だった。全員がホグワーツの制服そっくりの、黒くて長いローブを着ている。ハリーの体は彼ら
の頭の上、一メートルくらいのところで降下するのを止めた。憂いの篩やトム・リドルの日記の
中同様、彼らにハリーの姿は見えていないようだ。
若い男女二人ずつが向かい合い、円になるように立っている。皆、ハリーより少し年上か、も
しかしたら同じくらいの年頃かもしれない。女性のうち一人は背が高く、つややかな黒髪で、き
りっとした美女だった。もう一人は黒髪より背が低く、ずんぐりしていたが、柔らかくカールした
栗色の髪と、優しそうな丸い瞳が可愛らしかった。
彼女の正面の男は、抜けるように白い肌に、癖のないプラチナブロンドが背中に垂れてい
る。造形の整った顔立ちだが、神経質そうな細い眉が彼のハンサムさを幾分損なっていた。
しかしハリーの目を引いたのは、四人の中で一番背が高く、がっちりした体格の、明るい顔をし
た男だった。大きな目と口が快活な印象を与え、顔の周りを覆うふさふさとした髪はライオンの
たてがみようだった。隣りのプラチナブロンドの男より、頭一つ分くらい大きい。黒い三角帽子
の下から覗く彼の髪は燃えるように赤い色で、ウィーズリー家の親戚だと言われたら信じてしま
いそうだった。
「それでは始めようか」
朗々と響く声で、赤毛の男が宣言した。白い歯を見せた笑顔のまま、ローブの中から何かを
引っ張り出した。彼が手にしているものを見た瞬間、ハリーは興奮に髪が逆立った。長い銀の
棒のように見えたが、先端に小さな王冠のような飾りがついている。マグルの老人たちが足を
支えるために使う杖と同じくらいの大きさがあった。王冠のような飾りの部分が宝石をはめ込
むところだとすれば、あれは勺に違いないとハリーは思った。
黒髪の美女が、まるで愉快なゲームでも始めるかのような気楽さで笑う赤毛の男に、やや尖
がった言い方で注意をした。
「ゴドリック、もう少し真剣になってちょうだい。これはこれから生まれてくる魔法使いと魔女たち
の進むべき方向性を決定付けるかもしれない、重要な儀式なのよ」
ハリーはゴドリック、という名前に息を呑んだ。他の三人より抜きん出た背丈の赤毛は、三角
帽子のてっぺんが、ちょうどハリーのつま先あたりにあった。彼の顔をもっとよく見ようと空中で
身をかがめたハリーは、彼の明るいブルーの瞳と目が合ったような気がしてどきりとした。
「ゴドリック、何を笑っているの?」
ころころと鈴が転がるような声で赤毛の右隣の魔女が問いかけた。そんなはずはないのに、
ゴドリックがハリーのいる辺りを見つめ、ニヤッと笑いかけたような気がした。
「なんでもないぜ、ヘルガ。サラザールご自慢の金髪を鳥が踏んずけそうになってるだけさ」
ヘルガと呼ばれた女性は丸い目をさらに丸くして首をかしげ、黒髪の女性はたちの悪い冗談
には付き合いきれないという表情で、やれやれと肩をすくめた。金髪のサラザールは腹立たし
げに自分の髪を二、三度撫で付け、ぐしゃぐしゃの赤毛を睨み上げた。
「ゴドリック、いい加減にしろ。お前のおふざけに一日中付き合うつもりはない」
もう疑いようもなかった。ハリーは千年以上昔、空中にゴーストのように浮かんだまま、ホグ
ワーツの四つの寮の創設者たちを見下ろしているのだ。ホグワーツを作り上げた古く偉大な魔
法使いたちに、自分と同じくらい若い日々があったということは、とても奇妙な感じがした。
ゴドリック・グリフィンドールが悪戯っぽく笑うと、何か企んでいる時のジョージとフレッドそっく
りになり、一段と若者らしい表情になった。
「オーケー、じゃあさっさと終わらせちまおう。まずは俺からロウェナへ」
黒髪の美女、ロウェナ・レイブンクローが再び小言を言い出す前に、グリフィンドールは素早く
自分が手にした勺を正面に差し出した。
「ロウェナ、きみの深い知識、見事な論理捌き、真実のあくなき探求、進歩への意欲は素晴ら
しい。俺たちが創る学校に集まるガキどもの親は、可愛い子供たちをきみそっくりに育てたいと
願うだろう。だけどきみへアドバイスを一つ。机に向かって理論を詰め込む勉強だけじゃ、一人
前の魔法使いになんてなれっこない。実践。そう実践だ。杖を振って新しい魔法を作り上げる
想像力、それから理論上不可能なことが『できるかもしれない』可能性。ほんの十年前まで、こ
の古くさくて重たい金属の杖を捨てるのは不可能だと言われていたけど、今じゃイギリス中の
魔法使いが軽くてしなやかな木の杖を使っている。きみの類稀な知性へ、新しいものに挑戦す
る勇気が加われば百人力だ!」
「ご親切にどうも、ゴドリック」
ロウェナ・レイブンクローは完璧にご機嫌斜めだった。目尻をきゅっと吊り上げ、乱暴にゴドリ
ック・グリフィンドールから勺を奪い取ると、右隣のヘルガ・ハッフルパフの方を向き、ローブの
中から黄金のカップを取り出した。ハリーは目を凝らしてカップを見つめた。カップは太陽の光
を反射してぴかぴかと輝いている。左右に持ち手が付いていて、憂いの篩の中でヘプシバが
持っていたものとそっくり同じ形に見えたが、つややかな表面にはハッフルパフを示すHも穴熊
の刻印もなかった。
「ロウェナ・レイブンクローよりヘルガ・ハッフルパフへ、友情の証としてこのカップを贈ります」
泉のように透明で澄んだ声が、凛として告げた。
「あなたの忍耐強さ、そして全てのものを受け入れようとする寛容さ、優しい姿勢を、私は心か
ら尊重したいと思います。けれど同時に、私たちには『持たざるもの』からの迫害に対し耐える
ばかりではなく、手を取り合い戦わなくてはいけない時があります。そのために私たちはこの特
別な力を、同胞たちと共に正しく用いる方法を学び、高め合い、研鑽し、深い叡智の技を用い
て正しく扱わなければならないことを、忘れてはいけません」
ヘルガ・ハッフルパフはにっこり笑ってカップを受け取った。「ありがとう、ロウェナ。大切にし
ます」
彼女は大切そうにカップを自分のローブにしまうと、サラザール・スリザリンに一歩近づいた。
ローブの胸元で金色のロケットが揺れている。ロケットは分霊箱と寸分違わぬ大きさだった
が、カップ同様、蛇のようにうねるSの文字も、エメラルドの飾りもない、いたってシンプルなも
のだった。
「あなたに言うことは何もないわ、サラザール。だってあなたは自分の強さも正しさも進むべき
道も、全部知っているんですもの」
ヘルガ・ハッフルパフは頬をほんのり赤らめると、自分の首からロケットを外し、ちょっと背伸
びをしてサラザール・スリザリンの首にかけた。
「私たちに与えられた特別な能力を、『持たざるもの』から守り、子供たちへ伝えていこうとする
あなたの姿勢を、尊敬します。だからどうぞ覚えていてください。あなたは一人ではなく、目的を
達成するために協力し合える多くの仲間たちがいるということを。そして私たちは一人一人違う
考えを持ってはいるけれど、今日この日、一つの大きな目標に向かい、小さな一歩を踏み出し
たのだと」
「ワーオ、言うべきことはなかったんじゃないのか?」
「黙れ、ゴドリック」
合いの手を入れたゴドリック・グリフィンドールをサラザール・スリザリンは睨みつけ、ヘルガ・
ハッフルパフに小さくお辞儀をした。
「その傍若無人なへらず口が、いずれ命取りとならないように」
サラザール・スリザリンは目にも留まらぬ速さで腰から銀色の剣を抜き、不意をつかれて動く
ことが出来なかったゴドリック・グリフィンドールの首元に抜き身の刀を突きつけた。「貴様の猪
突猛進な勇気とやらだが、今のままでは必ずその身を滅ぼす日が来るだろう。そうならないた
めに、上手く立ち回る方法を今すぐにでも覚えることだな」
サラザール・スリザリンは言いたいことを言ってしまうと、薄いエメラルドグリーンの瞳を満足
げに細め、剣を鞘に収めてからゴドリック・グリフィンドールに手渡した。
「お前のしたたかさ、しっかり受け取ったぜ、サラザール」
剣が首から離れ、余裕を取り戻したゴドリック・グリフィンドールが口端を上げてにんまりと笑
った。
「みんな、分かってるな?」
ゴドリック・グリフィンドールの掛け声を合図に、四人の創始者たちは、手にした品々を頭上
に掲げた。
「眠れるドラゴンをくすぐるなかれ! ゴドリック・グリフィンドール、ロウェナ・レイブンクロー、ヘ
ルガ・ハッフルパフ、そしてサラザール・スリザリン。汝らの友情とホグワーツの栄光が永久に
続かんことを!」
突然、組分け帽子の声が響き渡り、ハリーは自分が握り締めていた帽子がしゃべりだしたの
かと思った。しかし声を上げたのはハリーが手にしている古い組分け帽子ではなく、ゴドリック・
グリフィンドールがかぶっている、真新しい三角帽子の方だった。
「ホグワーツ魔法魔術学校の開校を、ここに宣言する!」
ゴドリック・グリフィンドールが掲げた剣から視線をずらし、もう一度ハリーを見上げてにっこり
した気がした。しかしそれを確信する前に、ハリーの体は上昇をはじめていた。すごい勢いで
空高く持ち上げられていく。箒に乗って金のスニッチを追いかけていくときよりも、もっと高く、も
っと遠くへ…ハリーはとうとう白い雲の中に突っ込んでいった。

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