『―――ええ、昨夜から少々熱はありますね。三十九度前後。ですから仮病というわけではな
いようです。試薬を飲ませてみたら色が変わったので、陽性なのでしょうね。当人が無言呪文
で色変え魔法を使っていなければの話ですが…今ですか? うめいてます。さっきまで死にそ
うだと喚いていましたが、喚く元気がある内は死ぬわけないので放っておきました』



 くぐもった声がドア越しに聞こえた。硬質でありながら絶妙な艶を帯びたその声はいつも、普
通にしゃべっているだけにも関わらず、それが天上の歌声であるかのように、聞く者の耳を楽
しませてくれる。だから彼の声を聞くのは嫌いじゃなかった。花びらのように形のいい唇から紡
ぎだされる言葉の数々が、毒と棘によって完全武装されてさえいなければ。







君と、二人暮らし・冬







「おい、まだ生きているか?」
 寝室のドアがあき、淡いプラチナブロンドが覗く。白い額に垂れた前髪を掻き揚げ、不機嫌に
歪んだアイスブルーの瞳をわざわざ見せ付けてくるのは、まぎれもなくハリーの旦那さま――
―ドラコ・マルフォイだった。溶けた氷嚢の下から寝癖で髪が倒れた頭をよろよろと持ち上げ、
ハリーは無駄と知りつつも言ってみた。
「……風邪で寝込んでるハニーに対して、いたわりの言葉とかないの?」
「ない」
 いつもに輪をかけて素っ気無いダーリンは、熱で舌さえ上手く回っていないハニーに露ほど
の同情も見せない。
「それより暖炉の前のカーペット、最近掃除してなかっただろ。埃がついた」
 職場にハリーの欠勤を告げるべく、四つん這いの格好で暖炉に頭を突っ込んでいたせいで、
きちんとアイロンをかけておいたスラックスにはしわが寄り、膝から下にかけて埃で汚れてしま
っている。それを手で払い落とし、ドラコはキングサイズのベッドに横たわるハリーを見下ろし
た。
「まったく無様なものだな。魔法界の英雄がたかだか風邪ごときにノックアウトとは」
 口元に冷たい笑みを浮かべて自分を嘲るドラコは、それでも憎たらしいくらい綺麗だ―――
なんて言おうものなら『ついに熱で脳細胞と視神経までやられたのか』と罵られることは必至な
のだけれど。
「たかが風邪っていうけどね…魔法省が特別警戒を呼びかけていただけあるよ、今年のヤツ
は―――最悪」
 そう今年、まだ巷では夏の余韻が残ってさえいた秋口早々に、全世界の魔法省は相次いで、
異例の警戒宣言を行ったのだ。この冬、数十年ぶりに流行が予想されるM系統新型ウィルス・
タイプ0‐7に対して。
 新型、というだけあり、ワクチンも治療法も現在のところ一切無い。症状は個人差があるもの
の、概ね一般的な風邪症状のフルコース、それも各皿超大盛り、といったところだ。幸い、最も
重度の症状が出た場合でも、死に至る危険性はほとんど無いので、発病した際にはそれ以上
感染を広めないよう、家にこもって回復を待て、と魔法省から各家庭に配られたパンフレットに
は書かれていた。
 だがセールススマイルが妙に胡散臭い癒者に、大人しくしていれば二三日中に自然回復す
る、とパンフレットの中から力説されたからといって、症状に苦しむ現状が好転するはずもない
わけで。
「ドラコも気をつけたほうがいいよ。これ、純血の方が感染しやすいっていうから」
 魔法省も手を焼くこのウィルスがなぜマグルの間でさしたる問題化していないかといえば、理
由はいたって単純、マグルには感染しないからだ。これまでの発症例から、M系統ウィルスは
魔法族の遺伝子にのみ反応を示すことが知られている。
「お前にしては良いアドバイスをくれるじゃないか。ありがたく従わせてもらおう。熱がひくまで僕
の半径十メートル以内に近付くな」
「そんなこと言ったら一つベッドで寝られなくなるじゃないか!」
「なんならお前を今すぐ、この一つ屋根の下とやらからたたき出してやろうか?」
 すぅっとブルーグレーの瞳が細められ、ハリーは仕方なく口を閉ざす。それ以上刺激すると、
ダーリンのキレイな顔を低気圧が通過し、掻き乱していくと察したからだ。
「ドラコ、行っちゃうの?」
 言いたいことだけ言ってさっさと背を向けるドラコに、ハリーは思わず上体を起こしかける。し
かし途端に襲ってきた激しい頭痛に、再び頭を枕に埋める羽目になった。
マグルの間で使われているのとそう変わらない形のスーツに、チャコールグレーのマントを羽
織ったドラコは、いつでもこのまま出勤できるといういでたちだ。
「もちろんそのつもりだったが―――」
 形の良い眉が寄せられ、ムッとした表情を形作る。
「上司が僕も保菌者になっている可能性が高いから今日は家にいろって…」
 その思いがけないハッピーニュースを耳にした瞬間、ハリーの頭の中で鐘が鳴り響いた。
 リンゴーン、と。
「本当!?」
「目をキラキラさせるな。気持ち悪いから」
 心底嫌そうな声を出されようと、一度上がったテンションはそう簡単に下がりはしない。
「ドラコー喉渇いたーあと食欲ないけど、ドラコが作ってくれるならなんでも食べるよー」
「いきなり甘えるなッ!!」
 お前の面倒を看るために仕事を休んだわけじゃないんだからな、なんて言いながらも手早く
マントの紐を解いたドラコは、さっそくキッチンから氷が入ったボウルを持ってきてくれた。急い
だせいだろうか、袖口に水滴が飛んでいる。
 あーん、と口を開けると細く長い指に摘まれた氷の塊が一つ、放り込まれた。小さめのサイズ
の氷はあっという間に溶け出し、カラカラに渇いた喉を潤した。余った氷はタオルで包み、中身
が水に変わった氷嚢と交換してくれる。
「寒くないか?」
 はだけた毛布を首の上まで包むようにかけ直して、ドラコは聞いた。平気、と頷くと、ドラコは
少しだけ表情を緩める。それはまるでハリーに、微笑みかけているような錯覚を起こしてしまい
そうなほど、優しいもので。しかしドラコは思わず見とれていたハリーに構わず、カーテンを閉
め、
「静かに寝ていろ。キッチンにいるから何かあったら呼べよ」
 とだけ言って出て行ってしまう。
 遠ざかる足音にほんの少しでも寂しさを覚える自分は、さすがに馬鹿みたいだと思った。ドラ
コは同じ屋根の下にいて―――いつでも気配を感じられる距離にいるというのに、それでも
尚、寂しいだなんて。
「こういうのを甘えてるっていうのかな」
 ポツリ、呟いた声はもちろんドラコの耳には届かなかっただろうけれど。
 いつもは感じない人寂しさを、過敏にキャッチしてしまうのは熱のせい―――だけなんだろう
か。
 早く治して、いつものシャキッと頼りがいのある奥さまに戻らないと。でないと、また旦那さまに
怒られてしまう。いい年して、甘えるんじゃない…って。
 ゆっくりと瞼を閉じると、静かな部屋の中で、いくぶんせわしない自分の脈と呼吸の音だけが
はっきりと聞こえた。適度に照明が落とされた温かい室内は、普段ならばたちまち眠気を誘う
ところだが、ベッドに横になっていても指や膝が疼くように痛み、本格的な眠りはなかなか訪れ
ない。
 なのにハリーは不思議と穏やかな気持ちだった。これほど酷い風邪にかかったのは何年ぶ
りだろう?ここ数年間、ハリーにはおちおち体調を崩している暇さえ許されなかった。ホグワー
ツに在籍していた間中、常につきまとっていた影―――ヴォルデモートが真にその姿を現し始
めてからは、特に。
風邪をひこうが骨が折れようが、薬で無理やり熱を抑え、骨を一晩で元通りにして…こんな風
にのんびりとベッドに横たわって、自然な回復を待っていられるなんて、実はある意味すごく、
幸せなことなのかもしれない。

(最後に本格的に寝込んだのって―――五年前? もっと前かな…確かプリペット通りの家に
いたから……夏休みか)

 熱に浮かされた状態で一人、ダドリーの古い部屋に取り残されて。このまま熱が下がらず、
自分に何かあったとしても、誰も気づいてくれないんじゃないか………半ば投げやりな思いで、
汚れたガラス窓から厚く雲のかかった夜空を眺めていた。あの時、ハリーを絶望的な状況から
救い出してくれたのは。




(…―――光……)




 そう、光だった。星の光を集めたカンテラが、暗い空の真ん中で眩しいくらいに照らし出して
いた。



 瞳に自分の姿を映す、ドラコのことを。