早くあなたに逢いたいわ。
ずっとずっと、待ち焦がれ
長い期間(とき)を共に過ごしてきた
けれどまだ見ぬ、誰より大切なあなた。
おとぎ話の続き
一段、一段、爪先で確かめるようにしてゆっくりと、ローズピンクの絨毯が敷き詰められた階
段を降りていく。
右の手でらせん状に優美なカーブを描く手すりを辿り、左手は緩やかに膨らんだ腹部へ添え
た状態で、ナルシッサは不意にクスクスと笑いだした。
笑うのに合わせて、ベッドの中で梳かしただけのブロンドがふわふわと彼女の顔の周りを漂
う。天窓から差し込む朝の日差しの中で、長い髪は柔らかに輝き、彼女自身が光を放っている
かのような錯覚にさえ陥りそうになる。階下からその光景を見つめていたルシウスは、眩しげ
に目を細めた。
「ナルシッサ、気をつけなさい」
最後の一段を降りる妻に手を差し出すと、ナルシッサはさらに笑いを深めながらその手を取
った。
僅かに重みをかけてくる白い手は、少女のころとちっとも変わらず小さく、華奢で、温かかっ
た。
「どうしたというんだ」
「急におかしくなってしまいましたの」
笑いを押さえようと口元に当てた左手の薬指には、ほとんど何の飾りもないシルバーのリン
グが嵌められている。
「自分のお腹で足元が見えないなんて、男の人には想像もつかないと思ったのですけれど」
極上のサファイアを思わせる青の瞳が、悪戯っぽくルシウスを見上げてくる。
「おじいさまなら分かってくださるに違いないと気付いたらおかしくって…」
一瞬間を置いて、ルシウスは咳払いをした。世界中の美食がここにつまっているとばかりに、
腹が突き出したナルシッサの祖父を思い出し、危うく自分も噴出しそうになったのをごまかすた
めだ。
「でもあなたには一生、分からないでしょうね」
ぽんぽん、とシャツの上から適度に鍛えてある腹筋を叩かれ、ルシウスは肩をすくめた。
「そう願いたいな」
尚もクスクスと笑い続ける彼女を、ルシウスは重厚な樫の家具で統一されたダイニングでは
なく、庭園に面したサンルームへとエスコートしていった。
晴れた日はサンルームのドアを開け放ち、新鮮な空気と瑞々しい木漏れ日に包まれて朝食
を採るというのは、ナルシッサのアイディアだ。
しかし雨にならずとも雲が重く垂れ込めていたり、ミルク色の濃い霧がかっていたり、すっきり
と晴れ渡った空を見る機会が少ないウィルトシャーの屋敷において、たまに訪れる青空の下で
の食事は、ルシウスにとっても密かな楽しみになっていた。
「今日は良いお天気が続きそう」
ルシウスがポットから注いだ紅茶を受け取りながら、ナルシッサが嬉しそうに言った。
「病院があまり混んでいないといいけれど」
「受付で私の名前を出しているか?」
ナルシッサが軽く開いた口元に手をやったところを見ると、どうやらすっかり忘れていたらし
い。
予想通りの彼女の反応に、ついため息を漏らしてしまうと、ナルシッサはふっくらと丸みを帯
びた頬を綺麗な薔薇色に染め上げて、俯いてしまった。こういった幼い仕草も、昔から一向に
直らない。
もうすぐ母親になるというのに、まだ彼女自身、子供の領域から抜け切れていないような妻
を、ずっとこのままでいてほしいと愛おしく思う反面、少なからぬ不安も覚える。
怪しげな病気の元や呪いの種がうようよしている病院に、彼女を赴かせるのが急に危険な気
がしてきて、ルシウスは知り合いの癒者を屋敷に呼んではどうかと提案した。しかしナルシッサ
は、首を横に振る。
「大丈夫ですわ。今日の午後はベラがお茶に来ることになっていて、そのあと病院まで付き添
ってもらえますから」
そうか、と一瞬安堵したルシウスだったが、義姉の急ブレーキ、急発進オンパレードの箒さば
きを思い出して血の気が引いた。しかも彼女は箒の後ろにもう一人乗せた方が、負荷がかか
ってスピードを出しやすいらしく、二人乗りが大好きときている。
「ダイアゴン横丁までは暖炉を使いますわ、もちろん」
ナルシッサが慌ててフォローしたため、ルシウスは一刻も早く選り抜きの癒者団を送れ、と聖
マンゴに指示を出すべく浮かしかけていた腰を下ろし、妻には絶対に箒に乗ってはいけないと
釘を刺すに留めておいた。
「何かあったらすぐに報せなさい。私への連絡の仕方は覚えているな」
もちろん、とナルシッサは笑顔を見せた。
「この子がお腹の中で動き回ったらすぐにお知らせします」
「それはいい」
正直なところ、報告してもらいたい気持ちでいっぱいだったが、そこは威厳をもって堪えてお
く。
「今日はいつも通り、ただの検診だけで済むはずですわ。だから私たちのことは心配せずに、
どうぞお仕事に専念してらしてくださいな」
優しい目をして、ナルシッサは自分の腹部をゆっくりと撫ぜた。
「この子に会えるのはまだ、あと二ヶ月も先のことですから」
そう言ってナルシッサはジャムをたっぷり溶かした紅茶へ、美味しそうに口を付ける。なんだ
かそわそわと落ち着かない内心を見透かされた気がして、ルシウスは微かに頬が熱くなるのを
感じた。
「早く逢いたいわ」
サンルームの窓辺では、ニワトコの樹が早くもほころびはじめたつぼみを風にそよがせてい
た。
エメラルドグリーンの炎に包まれた視界が、徐々に見慣れた応接間を映し出す。モスグリー
ンのカーペットへバサバサと灰を落としながら、ベラトリックスは妹から歓迎のキスを受けた。
「いらっしゃい、ベラ! ベラの好きなラズベリータルト、用意しておいたわ」
屈託ない笑顔をいっぱいに浮かべた彼女は、ベラトリックスが自慢の黒髪から灰を払い落と
す暇も与えず、早く早くと腕を引っ張り、すでにお茶の準備がされたテラスの方へ連れて行こう
とする。
ふわふわの金髪がベラトリックスの頬をからかうようにくすぐる。その色も感触も、ベラトリック
スが幼いナルシッサを抱え上げ、あやしてやっていた頃とまったく同じだ。
いつも自分の後をちょこちょこと、危なっかしい足取りでついてきた小さな妹が、もうすぐ子供
を産むだなんて、どうしても実感が湧かなかった。
けれどナルシッサの体内では今たしかに、もう一つの命が息づいている。
「八月の初めだったっけ? 生まれるの」
目の前で妹が、香り高い紅茶を糖分たっぷりの怪しげな液体へ変容させていくのに、胸焼け
しながらベラトリックスは尋ねた。
「それがね、少し早くなりそうなんですって。七月の終わりごろになるかもしれないわ」
ふうん、と気のなさそうな返事を返せるまでに、一瞬の間があった。手描きの水仙があしらわ
れたティーカップを口元に運ぶ手が、カタカタと細かく震える。
―――闇の帝王を打ち破る力を持った者が近づいている……
―――七つ目の月が死ぬとき、帝王に三度抗った者たちに生まれる…
馬鹿馬鹿しい、とベラトリックスは自分の思考を振り払うかのように頭を振った。
『予言』なんてものは大抵がその場限りの、いいかげんなものだ。闇の帝王を凌ぐ力など、存
在するはずがない。
まして予言は『帝王に三度抗った者たち』と言っているではないか。たとえナルシッサとルシウ
スの子供が七月の末に生まれたとしても、それが予言の告げる『闇の帝王を打ち破る力を持
った者』になるはずがない。
小さな笑い声がベラトリックスの意識を予言から引き戻した。
ナルシッサが腹部にそっと手を置き、これ以上ないほど優しい笑みを浮かべている。
その笑みはベラトリックスではなく、お腹の子供に向けられたものなのだと思うと、ほんの少し
だけ嫉妬を覚えた。
「今、少しだけ動いたわ」
だが、嬉しそうにそう呟くナルシッサに、くだらない嫉妬心はあっさり捨ててしまうことにした。
「予定日が分かったら家に連絡しなさい。パパとママがここのところ毎日カレンダーとにらめっ
こしてるみたいだから」
ナルシッサとルシウス自身はもちろんだろうが、彼らの子供には両家の親族が並々ならない
期待と関心を寄せている。その見えないプレッシャーを、ナルシッサは感じているのかいない
のか。いや、感じていないはずがない。それはベラトリックスが恐らくこの先もずっと知ることの
ないものだ。自身の誇る純血の血に対し、子孫を残すという意味で貢献できないことへ一抹の
寂しさと居心地の悪さを感じてはいたけれど。
「ベラ、タルトの味はどう?」
ちょこんと首を傾げてお褒めの言葉を催促される。
今でこそナルシッサが唯一得意としているお菓子作りだが、初期の試作品を嫌というほど目
の当たりにしてきた身としては、簡単に合格点をあげるのもちょっと悔しい。
「ラズベリーを煮込みすぎ。隠し味でシェリー酒を使ったみたいだけど、せっかくのアルコール
が飛んじゃってるわ」
「私は甘い方が好きなんだもの」
ぷぅっと頬を膨らせてみせるナルシッサがいかにも幼く思えて、ベラトリックスは少しだけ心配
になる。
この子、母親になるってどういうことか分かっているのかしら、と。
子供というのは犬や猫を可愛がるのとは違う。時には厳しく躾なければならないし、何があっ
てもどんなものからも守ってやらなくてはならない。ナルシッサにはその強さがあるんだろうか。
でも、とラズベリータルトを口に運びながらベラトリックスは思い直した。
最初はパイ生地を黒焦げにしたり、キッチンをクリームまみれにしていたナルシッサが、甘い
ものが苦手なルシウスにも食べてもらいたい一心で、こんなに美味しいタルトを作れるようにな
った。それと同じように、ナルシッサも少しずつ母親としての強さとか―――威厳とかを手に入
れていくんじゃないか、と。
最初から母親だった者などいない。徐々にそれらしくなっていけばいいのだから。
ラズベリーは甘すぎるけれど、添えられたサワークリームの味がいい具合に味を引き立てて
いる、とでもフォローしてやろうとしたその時、ナルシッサが不意に床へと倒れこんだ。
「シシー!?」
突然の出来事に一瞬呆然としたが、ベラトリックスはすぐに立ち上がり、妹の上体を起こして
やった。ナルシッサは白い額に汗を浮かべ、苦しげに喘いでいる。
「どうしたのシシー…しっかりしなさい!」
ベラトリックスの呼びかけに、ナルシッサがぐったりと閉じていた瞳を僅かに開く。色の失せた
唇がわななき、何かの言葉を紡いだ。
「何? シシー、何なの…?」
しもべ妖精に誰か―――癒師を呼んで来させるべきだろうかと焦るベラトリックスの前で、ナ
ルシッサの左手が彼女の口元へと手繰り寄せられる。薬指の指輪を唇に押し当て、ナルシッ
サは再び小さく囁いた。
「あなた―――お願い…どうか…」
ナルシッサの震える声がルシウスの名を呼んだのと同時に、指輪が眩しいほどの閃光を放
った。反射的に目を閉じたベラトリックスだったが、やがて始まりと同様、唐突に光が収まった
のを感じてそっと瞼を持ち上げる。
そこには青ざめた面持ちのルシウス・マルフォイが立ちすくんでいた。

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