人気の無い救急病棟の廊下をこちらへ向かってくる足音に、ベラトリックスはハッと顔を上げ
た。彼女のすぐ横にいるルシウスは、俯いたまま床の一点を見つめていたが、彼が微かに肩
を震わせたのをベラトリックスは見逃さなかった。
 廊下の角を曲がり現れたのは、トウモロコシの房を思わせる髪を振り乱し、ヨレヨレの白衣を
引っ掛けた癒師だった。なんだか頼りない駆け出し癒師という印象だが、ホグワーツではベラト
リックスの一学年下にいた男で、すでに癒師としての腕前はそれなりの定評を得ている人物
だ。
 彼はベラトリックスとルシウスの姿を認めると、足取りを速めて近付いてきた。
「ナルシッサは大丈夫なんでしょうね」
 癒師が口を開く前に、ベラトリックスはたまらなくなって彼に詰め寄った。気に食わない返事を
しようものなら、この場で焼き殺してやるつもりだ。しかし癒師はベラトリックスを無視してルシ
ウスの方へ向き直った。
「かなり切迫した状況だ。胎児の成長がやや進んでいたとはいえ、通常の出産より七週間以上
早い。母子両方の健康を損なわずに済むよう、我々が最善の手を尽くすことはもちろんだが」
 いったん言葉を区切り、癒師はルシウスの顔色を伺うようにした。
「状況によっては優先順位を付けざるをえないかもしれない」
 ルシウスが掌を固く握り締めた。
「だからルシウス、この場で決断してほしい。どちらの命を―――優先するか」
「ナルシッサに決まってるでしょ!」
 後輩のネクタイをグイ、と引っつかんで無理やり自分の方を向かせ、ベラトリックスはヒステリ
ックに叫んだ。そんな当たり前のこと、この緊急事態にわざわざ癒師自らが出向いて、尋ねる
必要はないと思う。それよりも妹の危機を救うために、全力を注げと言いたかった。
 変な方向に首を曲げられた癒師は、それでもベラトリックスではなくルシウスに返事を促し
た。
「ルシウス、君の意思が何よりも重要だ。君は…」
「同じよ! ルシウスだってナルシッサの方が大切に決まってるじゃない。子供はまた作れて
も、ナルシッサはあの子一人しかいないのよ!」
 そうでしょう、と同意を求めて見やったルシウスの瞳に、明らかな迷いを見出してベラトリック
スは狼狽した。
「もう一つ、分かっているかもしれないが、仮に無事に出産できたとしても早産であることに変
わりはない。つまり、生まれてきた子供に何らかの好ましくない症状が発生する場合も考慮し
ておいてくれ」
 好ましくない症状―――それが肉体的疾患に繋がるのか、あるいはもっと酷い…魔法の力
に関するものとなるのか。
 いずれにせよ、純血の家系が最も厭う子供が生まれてくる可能性があるというのだ。





「子供を、救ってほしい」





 しばらく続いた沈黙の後、ルシウスが押し殺した声で呟いた。
 ベラトリックスは信じられないというように数度瞬きし、それから力任せにルシウスの胸倉を
掴んで壁へと押し付けた。
「自分の血が一番大切だっていうの!?」
 静まり返った廊下で大声を張り上げたことに対し、癒師は批難の眼差しを向けたが、ベラトリ
ックスは構わず続けた。
「あんたを信じたのに…あんたはあの子を愛してるって信じたのに……!」
「私たちの子供だ」
 小さく答える掠れた声に、さらに神経が昂ぶる。
「スクイブのガキ一匹のために私の妹を犠牲になんかさせない!」
 ルシウスが伏せていた顔を上げて、ベラトリックスをじっと見つめた。

「私と、ナルシッサの子供だ」

 いつもは何の感情も映し出さず、冷ややかにさえ見えるブルーグレーの瞳が、親とはぐれた
子供のように不安げに揺れている。
 その有様を目の当たりにして、ベラトリックスは口にしかけた言葉を発せないまま、息を呑ん
だ。
 瞬間、左腕のある一点が、急激に熱を発した。
 反射的にルシウスを見ると、彼もベラトリックス同様、その熱を感じていることは明らかだっ
た。
 なんでこんな時に―――チラリと掠めた思いを慌てて断ち切る。
 これはベラトリックスが、そしてルシウスが自ら歩もうと選んだ道だ。
 素早く視線を廊下の先へ走らせる。病院内での『姿あらわし』は禁止されているから、いった
ん外へ出る必要があった。
「ルシウス」
 短く名前を呼んで頷けば、それだけで意味は通じる。強張った表情のまま、それでもルシウ
スはサッと踵を返した。ベラトリックスも無言で彼の後を追う。
「ちょっとあんた」
 廊下の端まできたところでクルリと振り返り、取り残された形の癒師に思い切り叫んだ。

「二人に何かあったらタダじゃすまないと思いなさい!」

 その言葉が終わるや否や、たなびく長い黒髪は廊下の先へと消えていった。












 手元のボードに落としていた視線を上げ、受付の魔女が自分の姿を捉えた途端、あっけに取
られたのが分かった。
 自分は患者ではなく、患者の付き添いだと言っても、たぶん信じてもらえないだろう。
 ルシウスは気まずさから顔を背け、足早に救急病棟へと向かった。足早に、といっても大した
スピードは出せない。なにしろ文句無しに満身創痍の出で立ちなのだ。
 頭から土埃をかぶり、髪はボサボサ、ローブはもはや元ローブとでもいうべき布の残骸でし
かない。そして顔や手の甲は血を滲ませた擦り傷だらけだ。なにより右脚に負った傷は、慌て
てかけた治癒呪文が中途半端だったのか出血が止まらずひどく痛んだが、今は呪文をかけな
おす時間も惜しかった。日付はとっくに変わり、そろそろ星が消え、東の空が白みはじめる時
刻だった。
 自分と違う命を下されていたベラトリックスは、先に帰ってきているんだろうか。まさか彼女
が、こんなヘマをしたとは思えないが。
 ルシウスがあの方から与えられた任務は、裏切り者の制裁だった。数人の死喰人と共に、か
つての仲間が潜んでいた廃屋を襲撃する。こちらの行動は迅速で、踏み込む直前まで相手に
気付かれることはなかったし、数からいっても簡単に片を付けられる仕事のはずだった。
 それなのに―――血走った目で、自分を死神のように見上げる愚かな男を前にして、杖があ
げられなかった。
 普段ならば難なく避けられるはずの呪文を真正面から浴び、味方の助けがなければ危ういと
ころだっただろう。
 なぜ、と問われても明確な答えは出せない。
 しかし心のどこかで殺したくない、という声がした。
 甘っちょろい考えだと謗られようとも、今日、この日だけは自らの手を血に染めたくなかった。
 誰より大切な、もう一人の自分のために。





 あなた、どこにいるの 早く帰ってらして






 指輪の表面に、白く輝く文字が浮かび上がった。
 思わず足を止めて、まじまじとその文字に見入る。
 妻からのメッセージをもう一度読み直してから、ルシウスは走り出した。
 この指輪は、ルシウスとナルシッサだけが互いの言葉を伝えられるように作られている。だ
から今、メッセージを送れたということは―――ナルシッサは無事なのだ。
 右脚を半ば引きずるようにしながら走るうち、ようやく救急病棟の入り口が見えてきた。
 心臓の鼓動は緊張と動揺で跳ね上がっている。背筋にじっとりと冷たい汗が流れ、膝が震え
ているように感じるのが、疲労のためだけでないことは明らかだった。

 ナルシッサは無事だった。
 それではもう一人の自分は?


 もう一人の、ナルシッサは?






 救急病棟の扉をくぐったところで、勢いよく駆けてきたベラトリックスと、正面衝突しそうにな
る。寸前で回避したものの、ただでさえ痛んだ体をしたたか床に打ち付け、ルシウスは呻き声
をあげた。
「ルシウス! どこに行ってたのよ、このノロマ!」
 容赦のない罵倒に対する反論が喉元まで出かかったが、それは廊下にまで響き渡る盛大な
泣き声に掻き消されてしまった。
 声のする方向に目を向けると、一つだけ開いたままになっている病室のドアがある。ルシウ
スは吸い寄せられるように、そちらへ歩いていった。
 ふわり、と頬に柔らかい風を感じた。
 病室の白いカーテンがはためき、ベッドに腰掛けるナルシッサを包み込むかのようにする。
 その華奢な白い腕に抱かれた小さな赤ん坊は、顔中を口にして泣いていた。

「あなたが遅いから泣きだしちゃったじゃない」

 ドアのところに佇んだまま動けずにいるルシウスへ、ナルシッサは唇を尖らせた。そう言いな
がらもナルシッサは、穏やかな喜びに満ちた表情をしている。
 まるで、聖母のような。



 彼女の隣に腰掛け、泣き喚く赤ん坊を恐る恐る受け取った。予想したより遙かに軽く、儚げな
存在に、壊してしまったらどうしようと思う。ルシウスの恐怖心が伝わったのか、赤ん坊はより
一層泣き声を大きくした。この小さな体のどこからそんな声が出るんだろう。
「泣かないで、泣かないで。お父様にあなたのきれいな目を見せてさしあげて」
 抱っこの仕方がまるで様になっていないルシウスと対照的に、早くも母の余裕を見せるナル
シッサがあやしてやると、赤ん坊はぐずりながらもようやく泣き止んだ。うっすらと涙が溜まった
瞳で、不審げにルシウスを見上げてくる。
 その瞳の色が自分と同じブルーグレーであることに、意外なほどの感激を覚えてしまった。
「やっと逢えたわね」
 にっこりとナルシッサが微笑むと、つられたように赤ん坊もきゃっきゃと笑い声をあげた。そ
の笑顔は幼い頃のナルシッサを思い出させた。





 ありがとう、と囁いた。
 堪え切れなかった涙のせいで、少しくぐもってしまったけれど。

 ナルシッサはびっくりしたように目を見開いて、それから笑った。
 その瞳が、自分と同じように涙でキラキラと輝いている。



 どちらからともなく、ごく自然なやり方で唇を寄せていた。





「わぁ!」





 ルシウスの腕の中で赤ん坊が頓狂な声を発し、二人は慌てて離れたのだった。












 ずっとずっとずっと書きたかったドラコが生まれたときのお話。勝手に早産にしてごめんよ、ドラコ。
 このあとブラック家、マルフォイ家親戚一同および蛇寮仲間と愉快な俺様軍団(含:グレイバック)の乱入により、ル
ッシーは病室から追い出されてしまいますヾそしてドラコが揉みくちゃにされないか、自分以外の人に抱っこされて泣
いたりしないか心配で心配で、廊下を行ったり来たりするのに、ドラコが全然泣かないどころか、グレイバック相手に
もニコニコ愛想を振り撒くので、ルッシーはちょっと凹むんです。
 本当に今更ですが、ドラコ、お誕生日おめでとう!!